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<(10)
扉がしまれば、この空間にはふたりしかいない。桃治と至だけ。真央の存在はないと、高月が保証した。
話し合いをしなければ。
場所を提供してくれた高月の言葉を思い出して、桃治はのろのろと動いた。
でも、何から?
思えば知り合ってから、あまりにも互いのことを知らない。間には必ず、真央を介在させていた。悪夢を見るのも、彼に呪われていると思うのも、常に意識の中に真央があったからだ。
至は目を真っ赤にして、今にも泣きそうだ。口を何度もはくはくと動かしては、噤む。
あまりにも子どもっぽい仕草に、桃治は腹を決めた。
何から話せばいいかわからない? 違う。全部、話すんだ。
自分の過去、それなのに至に嘘をつき、真央を意識した演技をしたこと。
そうまでして、至のパートナーになりたいと思ったこと。
すべてを打ち明けるときにはきっと、至も心の準備をして、話をしてくれる。そう信じて。
「あのさ、俺……」
途中で泣きそうになるけれど、ぐっと我慢した。いい年をした大人が泣くのは、卑怯だ。至は心優しいから、きっと自分を許してしまう。
「前の恋人の幽霊が見えるフリをすれば、気を引ける。彼の真似をすれば、俺のこともパートナーにしてくれる。そう思ってたんだ」
口にすると、どれだけ情けなく、罪深いことなのか実感する。胸が苦しく、呼吸が浅くなる。
人の死を弄ぶに等しい所業だ。
「ごめん。ごめんな」
こんな男に好かれても、迷惑だろう。嫌だと言うなら、諦めるから。
そんな気持ちで頭を下げると、至が接近してくる気配がした。そのまま上を向かされると、桃治の唇は奪われていた。
ぽかん、としていると、至はようやく胸中で整理がついたらしく、一気に話し始めた。
「謝るのは、僕の方です」
山森さんに写真を見せられて、一目惚れしたんです。
突然の告白に、桃治は驚く。
何だよそれ、全然知らない。気づきもしない。鈴女も何も言わなかった。
呆然とする桃治へ、至は自分の罪を告解する。
「Subのことを、試さずにはいられなかったんです」
「試す」
心当たりはあった。Domの命令を、Subはどこまで聞き入れるのか。触れずに観察していた視線には、そういう実験の意図があった。
「真央さんは……僕のために死んだんです」
三枝真央は、小学生の至をがんじがらめに縛りつけた、精神的に弱い人間だった。
中学、高校、大学と交流の輪を広げていく至に対して、真央は引きこもりがちの人間。
「大学に入るとき、ひとり暮らしの計画を打ち明けたら、暴れて。僕も彼も、怪我をしました」
以降、危なっかしくて彼の傍から離れられなかった。Subに対するケアの言葉をたくさん投げかけて、「好きだよ」「真央さんだけだよ」と何度言っても、無駄だった。真央は疑心暗鬼に陥り、至を試すようになった。
ああ、やっぱりSubはDomの支配者だ。
桃治は思う。
真央が命令しろと言った言葉を、至はひたすらにリピートして応えた。次第にそれは、エスカレートしていく。
殴れ、蹴れ、罵倒しろ。
慣れない暴力を強制された至もまた、疲弊していった。
彼は、他のSubを知らない。壊れていく真央は、恐怖でしかなかった。彼の死後、至は他のSubとプレイできなくなるほど。
そして、決定的な事件は起きた。
「真央さんが事故に遭う前日、言われたんです。命令しろって」
死ね、と。
至の唇から発せられるには、あまりに過激な言葉だった。桃治は声をかけることすらできないでいる。
当然、それだけは言えないと至も抗った。
関係はすでに破綻している。子どもの頃には確かに存在した淡い恋心も、すっかり摩耗してしまった。それでも至は、情を捨てきれない。自分を頼みにする幼なじみを、切ることができない。
死んでほしいなど、一度たりとも思ったことはなかったのだ。
「でも聞いてくれなくて、何度も何度も迫られて、僕は」
渾身の命令だった。
『死ね』
ゾッとした。
Switchとして、言う立場にしても言われる立場にしても、禁忌の言葉だ。その場ですぐ、Subdropに陥ってしまいかねない。最悪、本当に死ぬ。
体が小刻みに震える。桃治は必死に腕を掴み、耐える。
駄目だ。俺がビビってどうするんだ。
「僕、僕が命令したから、真央さんは……」
「違う! 事故は事故だ!」
根拠なんてない。死ねという命令に従って、男は身を道路に投げ出したのかもしれない。最悪なビジョン。
もしも自分が、至に「死ね」と言われたとして、果たして行動に移すだろうか。
想像しても、わからなかった。
「嘘、嘘だ。僕が、僕が殺した……真央さん。だって真央さんには、僕しかいなくて。だから他の人とはしちゃいけないのに」
「やめろ!」
桃治が重ねて否定をしても、至はパニックに陥った。語り出しは静かだったのに、今の彼はどうだ。
自分の方が、今にも死んでしまいたいという顔をしている。
「なのに僕は、桃治さんを好きになってしまった! 真央さんのことを利用して、僕は、僕は……!」
真央の存在をでっち上げ、関係を深めようとしたのは、桃治だけではなかった。
至は真央のことをあえて口にして、浮き沈みする桃治を見ていた。いじましく、自分の話した真央の口調や態度を真似して、穏やかなしっとりした男を心がけている姿を見て、楽しんでいた。
本当の真央は、もっと自分勝手で、苛烈で、至を振り回してばかりだったのに。
至を救いたい。
その一心で、桃治は彼の体を抱き締めた。
ああ、全然肉のついていない身体。Domの欲求は満たせても、傷ついた心を真に癒やさなければ、まったく意味などなかった。
桃治は覚悟する。身を以て、真央の死は事故であり、至のせいではないと証明する。
彼の耳に囁くのは、あの男と同じ、最悪な言葉。
「なぁ、俺にも言ってくれよ」
至の表情は、絶望を物語る。なぜ同じことをさせようとするのか、桃治への怒りが浮かぶ。
「ほら、言えよ。俺が死ななければ、真央のことは、ただの事故だって言えるだろ」
「いやだ、いや……」
首を横に何度も振る。子どもが駄々をこねている。
「至。俺は、死なねぇよ」
また嘘をひとつ重ねる。
死ぬつもりはない。けれど、彼の命令であれば、自分のことながらどうなるかわからない。
それでも桃治は、死なないと言い張った。死んでたまるか。これで自分までもが死を選んだら、今度こそ至は。
桃治は至の手を取り、左の胸に触れさせる。
「ココに響くように、ちゃんと言えよ。死ねって」
指先を伝わって感じているこの鼓動を、その言葉だけで止めるくらい。
「言え!」
荒療治にもほどがあると、どこか冷静な自分が頭の中で呟く。高月が今にも止めに入るのではないかと思ったが、結局彼は、姿を現さない。彼には何が見えているんだろう。桃治にはわからない。だが、今は任されていることが、ありがたい。
乗り越えさせるんだ。俺が。
「言え。大丈夫だから。俺は勝手に死んだりしない。もしも本当に、お前の命令で死を選ぶんなら、お前も連れて行く」
ひとりで死なない。ひとりで生かせない。
睨みつける視線に、至はようやく口を開く。最初は弱々しく、何も聞こえない。ぐっと彼の指を掴み、もっと大きな声で、と促す。
「……ね! 死ね! 死んで……ッ」
強制力を伴う、Domの命令だ。聞き慣れているはずなのに、いつもと違って胃のあたりがキュウ、となる。
これはSubの防衛本能だ。聞いてはいけない命令を受けたとき、身体は変調をきたす。
大きな溜息をつき、桃治はきっぱりと言った。
「やだよ。死んでなんて、やらん」
この苦しみを超えてまで、命令を聞くことはない。真央の死が事故ではなく、自殺だったのだとしても、至に非はない。心を病んでいたのなら、理由は別だ。
「死ねなんて命令、Subだって聞けない。だから、至は悪くない。悪くないんだ」
うう、ああ、と嗚咽を漏らす彼を抱き締め、桃治は思う。
なぁ見てるか。
あんたが苦しめていた青年は、もうあんたのことを見ていないぞ。俺を好きだと言い、生に縋るんだ。
ざまあみろ。
天井を仰ぐ桃治の目からも、涙が流れ落ちていく。
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