甘えたDomの背中には(11)

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(10)

 扉がしまれば、この空間にはふたりしかいない。桃治と至だけ。真央の存在はないと、高月が保証した。

 話し合いをしなければ。

 場所を提供してくれた高月の言葉を思い出して、桃治はのろのろと動いた。

 でも、何から?

 思えば知り合ってから、あまりにも互いのことを知らない。間には必ず、真央を介在させていた。悪夢を見るのも、彼に呪われていると思うのも、常に意識の中に真央があったからだ。

 至は目を真っ赤にして、今にも泣きそうだ。口を何度もはくはくと動かしては、噤む。

 あまりにも子どもっぽい仕草に、桃治は腹を決めた。

 何から話せばいいかわからない? 違う。全部、話すんだ。

 自分の過去、それなのに至に嘘をつき、真央を意識した演技をしたこと。

 そうまでして、至のパートナーになりたいと思ったこと。

 すべてを打ち明けるときにはきっと、至も心の準備をして、話をしてくれる。そう信じて。

「あのさ、俺……」

 途中で泣きそうになるけれど、ぐっと我慢した。いい年をした大人が泣くのは、卑怯だ。至は心優しいから、きっと自分を許してしまう。

「前の恋人の幽霊が見えるフリをすれば、気を引ける。彼の真似をすれば、俺のこともパートナーにしてくれる。そう思ってたんだ」

 口にすると、どれだけ情けなく、罪深いことなのか実感する。胸が苦しく、呼吸が浅くなる。

 人の死を弄ぶに等しい所業だ。

「ごめん。ごめんな」

 こんな男に好かれても、迷惑だろう。嫌だと言うなら、諦めるから。

 そんな気持ちで頭を下げると、至が接近してくる気配がした。そのまま上を向かされると、桃治の唇は奪われていた。

 ぽかん、としていると、至はようやく胸中で整理がついたらしく、一気に話し始めた。

「謝るのは、僕の方です」

 山森さんに写真を見せられて、一目惚れしたんです。

 突然の告白に、桃治は驚く。

 何だよそれ、全然知らない。気づきもしない。鈴女も何も言わなかった。

 呆然とする桃治へ、至は自分の罪を告解する。

「Subのことを、試さずにはいられなかったんです」

「試す」

 心当たりはあった。Domの命令を、Subはどこまで聞き入れるのか。触れずに観察していた視線には、そういう実験の意図があった。

「真央さんは……僕のために死んだんです」

 三枝真央は、小学生の至をがんじがらめに縛りつけた、精神的に弱い人間だった。

 中学、高校、大学と交流の輪を広げていく至に対して、真央は引きこもりがちの人間。

「大学に入るとき、ひとり暮らしの計画を打ち明けたら、暴れて。僕も彼も、怪我をしました」

 以降、危なっかしくて彼の傍から離れられなかった。Subに対するケアの言葉をたくさん投げかけて、「好きだよ」「真央さんだけだよ」と何度言っても、無駄だった。真央は疑心暗鬼に陥り、至を試すようになった。

 ああ、やっぱりSubはDomの支配者だ。

 桃治は思う。

 真央が命令しろと言った言葉を、至はひたすらにリピートして応えた。次第にそれは、エスカレートしていく。

 殴れ、蹴れ、罵倒しろ。

 慣れない暴力を強制された至もまた、疲弊していった。

 彼は、他のSubを知らない。壊れていく真央は、恐怖でしかなかった。彼の死後、至は他のSubとプレイできなくなるほど。

 そして、決定的な事件は起きた。

「真央さんが事故に遭う前日、言われたんです。命令しろって」

 死ね、と。

 至の唇から発せられるには、あまりに過激な言葉だった。桃治は声をかけることすらできないでいる。

 当然、それだけは言えないと至も抗った。

 関係はすでに破綻している。子どもの頃には確かに存在した淡い恋心も、すっかり摩耗してしまった。それでも至は、情を捨てきれない。自分を頼みにする幼なじみを、切ることができない。

 死んでほしいなど、一度たりとも思ったことはなかったのだ。

「でも聞いてくれなくて、何度も何度も迫られて、僕は」

 渾身の命令だった。

『死ね』

 ゾッとした。

 Switchとして、言う立場にしても言われる立場にしても、禁忌の言葉だ。その場ですぐ、Subdropに陥ってしまいかねない。最悪、本当に死ぬ。

 体が小刻みに震える。桃治は必死に腕を掴み、耐える。

 駄目だ。俺がビビってどうするんだ。

「僕、僕が命令したから、真央さんは……」

「違う! 事故は事故だ!」

 根拠なんてない。死ねという命令に従って、男は身を道路に投げ出したのかもしれない。最悪なビジョン。

 もしも自分が、至に「死ね」と言われたとして、果たして行動に移すだろうか。

 想像しても、わからなかった。

「嘘、嘘だ。僕が、僕が殺した……真央さん。だって真央さんには、僕しかいなくて。だから他の人とはしちゃいけないのに」

「やめろ!」

 桃治が重ねて否定をしても、至はパニックに陥った。語り出しは静かだったのに、今の彼はどうだ。

 自分の方が、今にも死んでしまいたいという顔をしている。

「なのに僕は、桃治さんを好きになってしまった! 真央さんのことを利用して、僕は、僕は……!」

 真央の存在をでっち上げ、関係を深めようとしたのは、桃治だけではなかった。

 至は真央のことをあえて口にして、浮き沈みする桃治を見ていた。いじましく、自分の話した真央の口調や態度を真似して、穏やかなしっとりした男を心がけている姿を見て、楽しんでいた。

 本当の真央は、もっと自分勝手で、苛烈で、至を振り回してばかりだったのに。

 至を救いたい。

 その一心で、桃治は彼の体を抱き締めた。

 ああ、全然肉のついていない身体。Domの欲求は満たせても、傷ついた心を真に癒やさなければ、まったく意味などなかった。

 桃治は覚悟する。身を以て、真央の死は事故であり、至のせいではないと証明する。

 彼の耳に囁くのは、あの男と同じ、最悪な言葉。

「なぁ、俺にも言ってくれよ」

 至の表情は、絶望を物語る。なぜ同じことをさせようとするのか、桃治への怒りが浮かぶ。

「ほら、言えよ。俺が死ななければ、真央のことは、ただの事故だって言えるだろ」

「いやだ、いや……」

 首を横に何度も振る。子どもが駄々をこねている。

「至。俺は、死なねぇよ」

 また嘘をひとつ重ねる。

 死ぬつもりはない。けれど、彼の命令であれば、自分のことながらどうなるかわからない。

 それでも桃治は、死なないと言い張った。死んでたまるか。これで自分までもが死を選んだら、今度こそ至は。

 桃治は至の手を取り、左の胸に触れさせる。

「ココに響くように、ちゃんと言えよ。死ねって」

 指先を伝わって感じているこの鼓動を、その言葉だけで止めるくらい。

「言え!」

 荒療治にもほどがあると、どこか冷静な自分が頭の中で呟く。高月が今にも止めに入るのではないかと思ったが、結局彼は、姿を現さない。彼には何が見えているんだろう。桃治にはわからない。だが、今は任されていることが、ありがたい。

 乗り越えさせるんだ。俺が。

「言え。大丈夫だから。俺は勝手に死んだりしない。もしも本当に、お前の命令で死を選ぶんなら、お前も連れて行く」

 ひとりで死なない。ひとりで生かせない。

 睨みつける視線に、至はようやく口を開く。最初は弱々しく、何も聞こえない。ぐっと彼の指を掴み、もっと大きな声で、と促す。

「……ね! 死ね! 死んで……ッ」

 強制力を伴う、Domの命令だ。聞き慣れているはずなのに、いつもと違って胃のあたりがキュウ、となる。

 これはSubの防衛本能だ。聞いてはいけない命令を受けたとき、身体は変調をきたす。

 大きな溜息をつき、桃治はきっぱりと言った。

「やだよ。死んでなんて、やらん」

 この苦しみを超えてまで、命令を聞くことはない。真央の死が事故ではなく、自殺だったのだとしても、至に非はない。心を病んでいたのなら、理由は別だ。

「死ねなんて命令、Subだって聞けない。だから、至は悪くない。悪くないんだ」

 うう、ああ、と嗚咽を漏らす彼を抱き締め、桃治は思う。

 なぁ見てるか。

 あんたが苦しめていた青年は、もうあんたのことを見ていないぞ。俺を好きだと言い、生に縋るんだ。

 ざまあみろ。

 天井を仰ぐ桃治の目からも、涙が流れ落ちていく。

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