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<(13)
千秋楽を終えたばかりの楽屋は、冷めやらぬ熱気に包まれている。そこかしこで労いの抱擁が交わされていた。
「桃治さん」
桃治も、年下の先輩劇団員に求められ、まずはぎゅっと手を握り合ったのち、互いの背中にひしと腕を回し合った。
十年ぶりの舞台出演に際し、最も世話になったのは、バディ役の彼である。
抱き合ってお互いの健闘を称えていると、わざとらしい咳払いが聞こえた。それと同時に、肩を強く引かれ、引き剥がされた。
「……桃治さん」
あは、と愛想笑いが浮かべるが、年下の恋人は、ジェラシーを隠さない。真っ赤な薔薇の花束が、彼の嫉妬心を表すように揺れる。
「ストップストップ! グレア、出ちゃってるから!」
桃治以外はNeutralとはいえ、Domの本気の怒りのオーラは、この距離、密室であれば常人にも感知しやすい。さきほどまで賑やかだった楽屋は、しーんと静まりかえった。
桃治は、「ほら、これつけて」と、至にあるものを渡す。そうすると、途端に空気は和らいだ。
都合のいいパートナーから恋人に昇格して、真っ先に贈られたのは、カラーだった。濃い桃色に染められたレザーで、「桃治さんにはピンクが似合うから」と至は言った。
彼と恋人になる前、店でつけていたミサンガを見てから、ずっと思っていたそうだ。
そうかなぁ、と言いかけたけれど、自分の服すら選べなかった彼が、桃治のためにあれこれ頭を悩ませてプレゼントしてくれたことが嬉しかった。
舞台中は外していたそれを、至の手で装着させてやると、彼はたちまち機嫌がよくなった。
付き合いを始めてから、桃治は悩んだ末、アマチュア劇団に所属することにした。やはり演技をすることが好きだったし、何よりも、「舞台に立つ桃治さん、絶対に見たいです!」と、至が望んでくれた。
「今日は、打ち上げですか?」
初舞台を仕事の合間を縫って五回も見に来てくれた恋人は、すでに劇団員たちとも顔見知りだ。彼の視線は桃治ではなく、脚本・演出・舞台監督を兼任する主宰に向けられている。
「全員での打ち上げはまた別の日にやるから、連れてっていいぞ」
ここでふざけて、「ええ、俺はみんなと飲みたい気分なんだけどなあ」などと言えば、どんな仕置きが待っているかわからない。
すっかり至だけのSubになってしまった桃治だが、その後のプレイ目当てで恋人を悲しませたくはない。なので、「では、お言葉に甘えて」と、皆に頭を下げる。
さっさと着替えると、至の手から花束を受け取り、劇場を後にする。
アマチュアとはいえ、少なくないファンが劇団にはついていて、出待ちをしている客もちらほらいた。
桃治自身は初舞台だし、いい年をしたオッサンだから若い女性ファンなどいないが、むしろ至を関係者だと思って突撃してくる人間がいるのではないか。
周囲に目を光らせる桃治の手を、至は大きな手のひらで包んだ。
「ホテルに部屋を取ってあるので、今日はそこで」
さあどんなプレイをしましょうか、と舌なめずりをする至に、ご無沙汰の身体がぞくぞくと震えた。
付き合ううちに見えてきた、甘えただけじゃない彼の本性。Subの望むすべてを見透かして、それをギリギリまで叶えてやらずに焦らす、悪魔のようなDom。
きっと、あの男は至のこんな顔を見たことがないに違いない。
もうすでに遠い過去のような存在になった男のことをちらと思い出す。
その瞬間、風が吹いた。
「っ」
ぴり、と皮膚を裂くような鋭さに、目を閉じたそのとき、ふいに寒気がした。冬とはいえ暖かい夜だ。それに、舞台の熱も、まだ体内で燻っている。暑いくらいなのに、なぜか背筋がぞくぞくとした。
ひや、と首筋に何かぬるりとした感触のものがあたる。至だろうか。首にはめたカラーを取り去ろうとしているような気がして、ひょっとして、また他の色のもくれるつもりじゃなかろうか、と思う。
けれど、耳元に吹き込まれたのは掠れた音。声というには不明瞭で、なかなか聞き取れない。
「至。何か言ったか?」
「いいえ、何も?」
手を繋いでいる彼の心は、すでにホテルでのあれこれに移っている。
「だよな……」
『ちぇ、外れないか』
そこだけはっきりと聞こえたのを最後に、急な寒気は止んだ。
「桃治さん。どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ」
明らかにカラーを外そうとしていた「何者か」が、達成できずに諦めた声に、ぞっとした。
高月の言葉を思い出す。
『真堂さんには、何も憑いていませんよ』
それはもしかして、俺には憑いてる……ってことか?
あの日持って行った鞄の中に入れっぱなしになっているお守りがやけに気になって、桃治は立ち止まり、至を見上げた。
「あのさ、至……今日は俺の家がいい、な」
上目遣いは効果覿面、至はすぐさま、予約のキャンセルの電話をかけた。
「悪いな。キャンセル料は払うから」
至は首を横に振る。
「あなたの傍なら、どこでだって天国ですから」
縁起でもないことを言うなよ、とツッコミを入れると、至は声を上げて笑った。
ああ、大丈夫だ。
お前が元気でいてくれるならそれで。
桃治はうっすらと微笑んで、至の腕に抱きついた。
(了)
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