甘えたDomの背中には(2)

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「適当に、命令してもらえるか?」

 シャワーも浴びずに、桃治は切り出した。

 別にプレイ=セックスじゃない。命令をする。それを受け入れ実行する。

 中身は何だっていいのだ。エロに直結することだけじゃない。例えば「三回回ってワンと言え」だっていい。

 もっとも、DomとSubに関わるなんとか協会やらNPO法人ほにゃららなどがが出しているマニュアルに載っているのは、「脱げ」とか「伏せ」だとか、前戯に近いコマンドばかりだし、興が乗れば体を繋げることも多い。

 タチもネコも両方、桃治はそこそこ経験を積んでいた。女の経験もあるが、男相手の方が多いし、気楽だ。

 妊娠云々や男のプライドどうこうではなく、女相手は十年前を境に、性に合わなくなっていた。ちょうど、今の職場に勤め始めた頃である。

 性欲はまだ衰えていない。きれいな顔をした年下の男とのセックスは、さぞ満たされるだろうと思う。

 だが今回、至とセックスをする可能性は、ほぼないと見ていた。彼のどんよりした表情から察するに、元パートナーの死を乗り越えられていない。一年ほど前の話だというが、人の心が寂しさに慣れるまでの時間は、個人差があるものだ。

 至は戸惑いながら、「……座ってください」と言った。

 日常使われる言葉であっても、Domがそのつもりで発すれば、それは命令――コマンドになる。英語を使うことが、本質ではない。

 Neutralにはわからないだろう、ささいな、決定的な違い。

 その命令を聞いた瞬間、桃治の中でカチリとスイッチが切り替わった。

 一口にSwitchと言っても、人それぞれだ。常に両方の性質を持ち、どちらも満たされなければいけないタイプの人間もいると聞いたことがある。

 桃治の場合はもっと単純で、相手によって自分の中で変化する。Domの命令を聞けばSubに、Subの懇願を聞けばDomになる。普段の生活でダイナミクスを意識する場面はほとんどなく、Neutralとほぼ変わらない、楽な部類だ。

 じーん、と頭の奥が痺れる。桃治は至の乗るベッドではなく、彼の足下、すなわち床に正座をした。

「っ、そっちじゃなくて、ここに」

 慌てて自分の隣をポフポフと叩く至に従い、彼の横に腰を下ろした。

「それから?」

「だ、抱きしめてください」

 最後の「い」を聞き終える前に、桃治は至をすっぽりと包んだ。身長は変わらないが、休職中、心身ともにダメージを受けていて、まともに食べていないのだろう。至はか細かった。

 昔の癖で筋トレを続けている桃治の胸に、彼はそっとすり寄る。

(なるほど、そういうタイプか……)

 DomとSubにも相性がある。肉体的な痛みを伴うプレイを好んだり、言葉責めが好きなDomもいる中、至はSubに自分のすべてを受け入れてもらうことを望むDomらしい。年上趣味も頷ける。

 そして自分とは、プレイスタイルの相性もよさそうだ。

 気分としては、エロ漫画に出てくるおっぱいの大きなお姉さんである。「どうしたの、おっぱい揉む?」の一時期流行ったネットミームを口にしかけて、やめた。

 こいつとはセックスしないんだってば。

「他には?」

「頭……撫でて、それから、キス、してください」

 お望みどおりと微笑みつつも、少し意外だった。至は手っ取り早く、自分が健康になる手段を探しているのだと思っていた。

 肉体的接触をせず、「おすわり」「伏せ」など、犬の躾レベルのコマンドで、欲求解消のみを試みようとしているのだ、と。

 鈴女の話だけを鵜呑みにしてはいけないなあ、と反省をしながら、桃治は優しく彼の頭を撫でてやった。それこそ、幼い頃に姪にしてやっていたように。

 キスは額から始める。児戯にも等しい口づけに、至はとろりと目を潤ませる。

 この年になると、十以上年下の若者は、男も女も可愛いものだが、至はなまじ、いいところのお坊ちゃん風の穏やかなイケメンだ。そんな彼のうっとりとした表情に、桃治は目を惹かれる。

 次のキスは、そんな目元に。それから頬。そして最後に唇に触れようとしたところで、

「うっ、おぇ」

 と、至がギブアップした。口を押さえて、胃酸がせり上がってくるのを無理矢理飲み下しているのが、傍から見ていてもわかる。

 彼はベッドに倒れ込み、背中を丸めた。手で覆った内側から、「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と、謝罪が止まらない。

 桃治はカチリとスイッチを真ん中に戻す。もはやプレイどころではない。

「大丈夫? ごめんな。口、臭かった? 俺、タバコ吸うからさ」

 軽い調子で言ったのは、それを口実にしていいということ。君のトラウマをほじくり返すつもりはないという意思表示だった。

 至に肩を貸して、トイレに連れていく。胃液を吐き出す音を外で聞きながら、おとなしくなったところで再び彼を抱え、ベッドに連れ戻す。

「ごめんなさい。僕が頼んだのに、その、できなくて」

 脂汗で貼りついた至の前髪を、桃治は軽く梳いてやった。形のいいおでこに再びキスをしたくなったけれど、もうおしまいだ。

「あー、うん、大丈夫。店に行けば誰かいるし、気にするな」

 序盤も序盤でストップしてしまった欲望は、桃治の腹の底でぐるぐると渦巻いている。

 普段はほぼNeutralで通せるが、一度舵を切ればその分、本能に忠実になる。早めにきちんと発散させないと、あとでがくっと体の調子を崩すことは経験上わかっていた。

 桃治はぼんやりと、今日出勤予定のDomキャストを思い出す。

 視線は宙を移ろい、至の背中の一点に無意識に集中した。安いビジネスホテルだ。壁のシミのひとつやふたつくらいあって、桃治はそういうものをじっと見つめてしまう性質だった。

「……何か、見えるんですか?」

「え?」

 思いもよらない問いかけに、桃治はぽかんと口を開けた。ついさきほどまで真っ青な顔をしていた至の頬に、血色が戻っている。興奮しているのだ。

 桃治の拳を、至は両手でがばりと包んだ。

「もしかして鷺沢さん。僕の後ろに、『彼』が見えるんですかっ?」

 もはや質問ではなく、確信を込めた言葉だった。至の言う「彼」が前のパートナーであることは、想像がついた。

 あまりにも必死で、あまりにも喜びと期待に満ちた目を向けられて、桃治は思わず、頷いていた。

 彼の背後にあるのは、人の顔に見えてくる、壁のシミだけなのに。

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