甘えたDomの背中には(3)

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(2)

「ねぇ、また来てるよ、あの人」

「ちょっとガリガリっていうか病的だけど、イケメンだよね」

「え~、ああいうのがいいんじゃな~い?」

 ナッツを皿に開けていると、女たちの声が耳に入った。最後だけどう聞いても男の声だったけれど、本人が女言葉を使っているのだから、たぶん「彼女」でいいはずだ。

「どうぞ」

 ナッツとおしぼりをテーブル席に持っていってからカウンターに戻ってくると、そこには至がやってきていた。薄暗い店の照明の下でも、顔色はあまり優れないことがわかる。

 けれど、初対面のときのことを思えば、彼は少しだけ元気になっている。その源が、自分のついた咄嗟の嘘というのが、桃治は気に入らなかった。

 ホテルでのプレイ失敗の後、少し休んだ彼は、桃治の話を聞きたがった。

 正確には、桃治が見えることになっている、誰かの影の話だ。

 もちろん、幽霊なんていない。いまだかつて、見たこともない。すぐに否定すればいいのに、即興の作り話が得意なのが災いした。

 ちゃんとした顔が見えるわけじゃない。ただ、なんとなくモヤのように見えるだけだ。だから、それが誰なのかはわからないが、君の傍を離れようとしない――……。

 核心をつかない曖昧なことを言い、至はすっかり信じ込んでしまった。

 嘘だろ、と思う。鈴女の同僚といえば、名の知れた会社に勤めている。桃治とは違い、いい学校も出ている、賢い男のはず。

 それなのに至は、桃治のことを一切疑わなかった。子どもだって、都合のいい怪談話を、頭から信じ切ったりしない。

『そう。そうなんですね』

 と、屈託なく笑った至は、可愛かった。

 もともと、DomとしてもSubとしても、年下を可愛がりたいという欲求が強い至である。元気になったらきっと子犬のように自分を慕って甘えてくれるだろう彼を、手放したくないと思ってしまった。

 現にこうして、至は店にやってくる。元パートナーの話をしたくて、来店するのだ。

「真堂くん、ご注文は?」

「ジンジャーエールください。それから裏メニュー」

 至はいつもノンアルコール。桃治の作るまかないチャーハンをお気に召したらしい。

 裏メニューの存在は鈴女が教えた。客に出すレベルじゃないぞと毎回言うのだが、唯一まともに食べられるのだと言われてしまえば、提供せざるをえない。

 至が食べていると、夕食を食いっぱぐれた客も興味を惹かれるらしく、「こっちもチャーハン!」と声がかかる。おかげで最近の桃治は、にわかチャーハン職人であった。

「はい、どうぞ」

 具材は固定ではなく、適当だ。ハムだったりチャーシューだったり、卵がないときすらある。粗末な食事だが、それでも「おいしいです」と言う至のために、桃治は自腹で具を用意するようになっていた。

 食べ終わると、至は目に見えてそわそわし始める。大人として、空気を読んでやって、桃治は声をかけた。

「あー……ちゃんと食べられて、えらいなって言ってるみたい?」

 焦点を至に合わせずに、背後を見るようにする。あたかもそこに、「何か」がいるように。

 至は微笑み、「そうですか」と喜色を滲ませ、桃治を見つめる。

 至の容姿は「なんでこんなところに王子様が?」と人目を引く。今も注目を浴び続けている。

 正面にいる桃治だけが、彼の見ているものを推し量ることができている。

 至は、桃治など見ていない。見ているのは、桃治を透かして感じ取ることができる、死んでしまった恋人。

 気分のいいことではない。こちらは彼のことを気に入っている。もう何度か試したいし、うまくいきそうなら、彼がSwitch相手でもよければ、自分から正式なパートナーにしてほしいと頼むつもりでいた。

 熱っぽい視線に、一緒にカウンターに立っているバーテンダーの若い男まで、にやにやしている。

 イケメンイケメンともてはやす割に、誰もなんにも見ていない。至の情熱の行く先は、俺じゃない。馬鹿ばっかりだ。

(そして一番馬鹿なのは、幽霊なんていないと言えない、俺だ)

「はい、チャーハンお待ちどうさま……って」

 今日も至のおかげで桃治のチャーハンの売れ行きはいい。一度キッチンに引っ込んで、手早く用意して客席まで持っていく。ふとカウンター席を見れば、頭を揺らしている至の姿がある。

「ちょっと、誰? この子に酒飲ませたの」

 ごめんなさーい、と常連の女性客。彼女の手には、オレンジジュースにしか見えないカクテル。一口飲ませただけでこの体たらくとは、さすがに思わなかった。

「ちょっと、真堂くん? 大丈夫? 水、飲めるか?」

 慌ててグラスに注いでやった水を渡す。

「んー?」

 ぽやんと赤い頬をしている酔っ払いは、手元も危うい。テーブルに置いてやっても、持ち上げて飲もうとしたところで、狙いが定まらずに、ほとんどが口ではなく、スーツのズボンにこぼれていった。

「あーあーあー」

 タオルを片手に彼の元へ。桃治は濡れたズボンを、ぽんぽんと拭く。面白がって飲ませたことを反省している女性は、テーブルの方を手伝ってくれていた。

「もう、こんな高そうなスーツ……」

 ちゃんとクリーニングに出せよな、とぶつぶつ言いかけて、ふと気づく。

 至は現在、休職中だ。夜遅いこんな時間まで、スーツを着る必要はない。

「なあ、真堂くん」

「んー?」

 今度はきちんと水を飲めたようで、彼はご機嫌だ。カウンターに頬杖をついて、ズボンを拭くために跪いた桃治を見下ろして、気分がよさそうである。

 うっかり、スイッチを入れそうになった。だめだ。ここはSMバーだけど、プレイはステージ上か、個室内でのみだ。どうにか理性を保ち、Neutralの状態を保ち、立ち上がる。

「真堂くんって、なんでいつもスーツなの? 休んでるんなら、スーツじゃなくてよくないか?」

 不意に彼の瞳が、冷静さを取り戻した。頬は赤いし、呂律もところどころ怪しいが、一応頭は回り出したらしい。

 ふっと俯いて、悲しそうな顔をするので桃治は内心慌てた。どう考えても地雷を踏んだ反応である。

「その……服は選んでもらっていたので」

「あ、ああ、そうか」

 誰に、とは聞かずともわかった。元パートナーである。

 彼なしでは洋服をコーディネートすらできず、選択の余地のないスーツを着ているのだ。そういえば、ネクタイもいつも、ブラウンだ。面白みがない。至にはもっと似合う色や柄がある。

 上手く励ます自信のない桃治は、しかし、次の瞬間、目を白黒させた。

 沈黙し、元彼を偲んでいた至が、がばりと顔を上げる。その表情は存外に明るく、頬は紅潮している。

「そうだ、桃治さん、僕の服を選んでくださいませんか? 一緒に買い物に行きましょう!」

「は?」

「だって」

 ちょいちょいと指先で呼ばれ、屈んだ桃治の耳元に、至は唇を寄せた。

「見えるでしょう?」

 と、彼は誰からも見えない角度で、桃治にだけ聞こえる声で囁いた。吐息が耳朶にかかり、一気にSubへと傾いた桃治は、ふらつく体をカウンターに手をついて支える。

「行ってくれます……よね?」

 試着したのを見て、アリかナシかを幽霊の様子からジャッジしろと言うのである。

 買い物デートのお誘いは嬉しいことだが、その動機は嬉しくない。

 それでも桃治は逆らえない。今の自分はSubで、小首を傾げ、甘えた声にコマンドを載せてくるDomの命令を聞くことが、至上の喜びになってしまっている。

「わかったわかった。今度の休みの日に、な」

「はぁい」

 やった、と笑う彼の目は、正気とも泥酔とも取れた。酔っていてくれたら、不毛なデートになど行かずに済む。

 だが、桃治の期待は外れた。至は酒には非常に弱いが、記憶をなくすタイプではなかった。

 翌日には連絡が来て、あれよあれよと待ち合わせの場所と時間を決められてしまったのである。

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