職業柄、背中にも目がある。
「こら、そこ。今持っているものを出しなさい」
できる限り穏やかな声で注意する。まだ振り向かない。こういうのはタイミングが重要だ。
正確な位置はわからないが、ぴりりと教室全体の空気が緊張したのが伝わってくる。
二年生に進級したとはいえ、四十五分の集中力は続かない。それでも生徒たちの目を惹きつけるために必要なのは、コミュニケーション能力というよりも、演技力だと思っている。
本当は朝から腹が痛くてイライラしていたとしても、注意するときに怒鳴り散らしてはいけない。優しく、けれど締めるところはちゃんと締める。声は柔らかく、表情は硬く、が鉄則だ。
振り返って教室を見回す。生徒のほとんどは、手を膝の上に置いている。手をもぞもぞしているのは、きっとノートにらくがきでもしていたに違いない。
俺はぐるりと教室全体を見回してから、俯いている女子児童に近づいた。
「檜垣桜さん。出してください」
珍しいこともあるものである。この子は大人しく、授業中に積極的に手を挙げることはないが、内容自体はちゃんと把握している。
こちらから当てれば、間髪入れずに正しい答えが返ってくるので、何人かに答えさせてみて、元気な「わかりません!」が続いたときに指名する生徒の候補であった。
この年ですでに髪を染めている生徒もいる中、まっすぐな黒髪を下ろしている姿は、身長こそ平均値ながら、大人っぽい。
俺のクラスの生徒は比較的御しやすい子どもが揃っていて、他のクラスの担任からはうらやましいと言われる。授業中に無言で立って歩きまわる子や奇声を発する子もいない。穏やかなクラス運営ができている。
まあ、親まで範囲を広げると、少々厄介な相手もいるが、許容範囲である。
「檜垣さん」
二度目の声かけで、彼女は机の中から取り出し、俺の手の上に置いた。なんだかすごく懐かしい形をしている。
「お友達とのお喋りは、休み時間にすること。いいね?」
俺はそれを、教卓の上に置いたまま、「他の子も、しっかり聞いて。それじゃあ、次の部分を……」と、授業を進めていく。
つっかえつっかえ、拙い言葉での朗読を耳にしながら、俺はそっと、桜から取り上げたものに目をやる。
これが高学年の児童になると、塾通いやらなんやらで、自分のスマホを買い与えられている子もいる。学校への持ち込みは禁止されているのだが、まっすぐ塾に行くから持たせたいと親から言われれば、認めざるを得ない。
その場合も、授業中の使用は当然禁止だが、まぁ、聞かない聞かない。高学年の担任の先生方が、今一番頭を悩ませている問題である。
その点、二年生のクラスは可愛らしいものだ。授業中に手紙をやり取りするくらいなのだから。
その日の帰りの会のときに手紙は返却した。
「先生、中、見ましたか?」
「ええ? 見るわけないだろう? 先生の悪口でも書いていたのか?」
からかうと、彼女は神妙な顔をして首を横に振り、最後に傾げた。なんだか変な反応ではあったが、彼女の性格上、二度同じことで注意されることはないだろう。一年の頃から担任をしているから、わかる。
桜は大人の男(もちろん、俺を含む。例外はない)が好きじゃない。もっとはっきり言えば、怖がっている。特に叱っているときは。他の子が対象であっても、首を縮めて黙っているのだ。
二度、三度同じ注意が重なれば、俺も声を少々荒げてしまうだろう。彼女もわかっているはずだ。
と、思っていたのだが。
「檜垣さん。これで何度目ですか?」
今日もまた、俺は桜が友達にあてた手紙を没収していた。今度は一緒になってやり取りをしていた生徒もわかったので、注意する。
真田萌絵。明るくて仕切り屋の彼女は、おとなしい桜とは正反対の性格だが、ふたりは仲がよかった。保育園から一緒なのだという。
「ごめんなさい」
素直に謝ってくれるのはいいのだが、改善はされない。そして毎回、「先生、中身見ましたか?」と聞いてくるのも、多少イラっとくる。もちろん、顔には出さないけれど。
「見ませんよ。檜垣さんには先生が、手紙の中を勝手に見るような大人に見えますか? だとしたら先生は、悲しいです」
一度叱った後は、「もう怒ってないよ」アピールのために、あえて軽い口調と芝居がかったジェスチャーを心がけているのだが、何度も同じことを尋ねられては、さすがに対応を変えざるをえない。ずっと丁寧語で話している俺に、口を開いたのは萌絵の方だった。
「だって中村先生は、中学校の頃に、女の子の手紙の中、読んだんでしょ?」
教室じゅうがざわっとなる。ああ、地元で教師になんて、なるもんじゃない。
俺は「誰から聞いたか知りませんが、それはその人の、勘違いです。先生は一度だって、覗き見なんてしたことがありません」と告げ、授業を再開した。
「ねぇ、これ』
口の動きだけで、隣の席の女子が何かを手渡してきた。
中学二年の春のこと。
春休み中に引っ越してきたばかりで、俺はほんの少し、浮いていた。まだ全員のフルネームも覚えておらず、特に女子とはあまり交流がない。
渡されたのは、紙だ。ノートを切り取ったものだが、ゴミを押しつけられたわけではない。きれいなハート形に折り畳まれていて、おおっ、と思った。
これがあの、授業中に女子が回す「手紙」って奴か。教師の目を盗んでやり取りをする、秘密文書。
転校前は、私立の男子校に通っていた。けれどどうもあのノリに馴染めず、父の転勤を機に、地方の公立中学校に転校した。一年ぶりに女子のいる空間は、緊張もするけれど、のんびりした校風は合っていて、おおむね順調だった。
男子校でこそこそと回すのは(さすがに授業中はなかったが)、誰かの兄貴が持っているエッチな漫画やグラビア写真集である。女子の目がないと、そして本物の女子がいないと、どうしても頭はそっちに向かう。偏差値が高くても、頭はサルばっかりだ。
手の中の手紙を、俺はじっと見つめた。宛名は「モーやん」。誰だ。男子も経由するんだから、女子だけで通じるあだ名を書くな。
隣の女子をみれば、顎で「早く回せ」と指図してくる。
誰宛かもわからぬ手紙は、逆隣にそのまま渡せばいいのか? いや、出所がわからないから、後ろや前という可能性もある。
困ったな、という顔をしつつ、実のところあまりそう感じていない。俺の関心事は、誰に向けての手紙かということではなく、どうやったらこんな風に折ることができるのか、だからである。
開いてみてもいいかな。中を見なければいいか。戻すことくらい、俺にだってできる……はず。
こっそり両隣を伺えば、タイミングよく女子は当てられており、左の男子はうつらうつらしている。よし。
俺はゆっくりと、ハート型の手紙を開封した。思った以上に複雑な折り目がついている。なるほどなるほど。頷きながら一枚の紙に戻った手紙を、折り直すだけだ。開けたときと逆の手順でやればいい。簡単だ。
ところが、折り紙なんて幼稚園以来である。しかもそれだって、鶴すら折れない園児だったのだ。先生のお手本もない。次第に俺は焦り始め、手汗まで噴き出してくる。
早く戻して、なに食わぬ顔で次の人に回さなきゃ。モーやんが誰か、そいつはわかるはず。
けれど、何度チャレンジしても、ハートに戻すことができなかった。気づけば新たな折り目が産み出されていて、正しい道筋がわからない。数学のようにはいかないものだ。方程式を解けずにいる女子と代わってもらいたい。
キンコンカンコン、チャイムがなる。ああ、終わってしまった、どうしよう。
紙から顔を上げると、怖い顔をした女子が立っていた。
「中村くん、さいってー」
腕を組んで睨み下ろしてくる女子の後ろで、強張った顔をしている子。たぶん、今にも泣きそうな彼女が、この手紙を書いた主なのだろう。
誓って言うが、俺はあの日、手紙の中身を見ていない。一ミリもだ。女子の会話に興味などなかった。あの頃はまだ、自分専用の携帯電話を持っている生徒も少なくて、授業中に限らず、内緒話といえば筆談であった。
けれど、俺は思うのだ。本当に内緒にしたいことだったら、誰もいないことを確認したうえで、記録に残らないようにしとけ、と。
中心となって糾弾してきたのは、モーやんその人だった。牛山だから「モーやん」……つけた人間のセンスと、それを受け入れているモーやんの度量に感心する。
そして彼女が庇っていた手紙の送り主こそ、高橋香織――桜の母親である。
同級生が保護者にいると、本当に厄介だ。これが父親であれば、あるいは息子であれば多少違っただろうが、母親と娘の関係は、より濃密だ。お喋りな女同士、「今日学校どうだった?」に対して「そういえば」と、共通で知っている俺の名前は話題にのぼりがちだ。これは想像ではなく、実際にそうだからである。他にも同級生の子どもが通っているのだ。
――あのとき、俺は何度も弁解した。折り方が気になっただけだ、見ていない。何が書いてあったのか、何も知らない。
モーやんは、「嘘」「絶対見た」と鼻息荒く詰めてくる。たじたじになりつつも、俺は認めなかった。ちょっとでも頷いたら、終わりだ。
俺たちの押し問答に、香織は「もういいよ」と言った。俺の言い分を聞いてくれたのかと思いきや、違った。
「見てたとしても、私たちには絶対見たって言わないよ。あとで男子の間でこそこそ話すんでしょ」
どうしてそう、ひねくれたことを言うのかなあ!
俺は本気で怒鳴りたい気持ちになったが、悪者になるのはこちらである。もはや何を言っても無駄だ。
諦めて犯人に甘んじた俺は、女子に目の敵にされまくった。男子は同情的だったが、「それで、なんて書いてあったんだ?」と聞いてくるので、やっぱり信じてくれていない。面倒な連中と縁を切るため、俺は少し離れた高校に進路を定めたのであった。ほろ苦い青春の記憶である。
「はぁ……」
生徒が全員帰った放課後、日報を打ち込む手は止まっている。他にも明日の授業の準備など、やらなければならないことは山ほどあるというのに、イマイチ筆が乗らない。
「中村先生、どうしたんですか? 眉間の皺、すごいことになってますよ」
すごいこと、と言った箇所をえいえいと指でつついてくるのは、三つ上の女性教師だった。隣の席ゆえにいつも世話になっている先輩だが、あまり得意ではない。
眼鏡を外してレンズを拭く素振りで、さりげなく彼女の手から逃れた俺は、「何度言っても、手紙を回すのをやめない子がひとりいまして」と、打ち明けた。
溜息の本当の理由は、桜でなく、その母親だったが、彼女が中学の同級生で多少の確執があったと知れれば、この女教師のからかいの格好の的になってしまう。
「ああ~。それはどうにかしたいよね。高学年になると、本当にタチが悪い」
「やっぱりそうなっちゃいます?」
今年、五年生の担任をしている彼女の言葉は重い。
「うん。学校の授業よりも塾の方が進んでるからって、聞く気のない子もいてね。だいたいスマホで、同じ塾の子とやり取りしてたり、ひどいとイジメみたいなことをしてたり」
「うわ」
そういう陰湿なのが嫌で、中高ではなく小学校教師を志したというのに、もはやネットリンチは大人だけのものではないのか。
「低学年のうちに、授業中は筆記用具以外を持たないように指導しておいてほしいわ」
そういえばこの教師、去年よりも一気に老け込んだ気がする。彼女は、肩で息をついたのち、「あら。私が中村先生の相談に乗るはずだったのにね」と、苦笑した。
「親に家での様子を聞いてみたりとかも手よ」
「ああ、そうですね。来週、授業参観ですし」
その後、懇談会も行われる。平日だから、仕事に都合のつきやすいパート社員や専業主婦の母親の参加が八割だ。香織も来るだろう。
娘が授業中に集中していないことを告げ口するのは、心証がよくない。生徒だけじゃなく、保護者にも。探りを入れるだけなら、なんとかなるだろう。
俺は先輩教師に礼を言った。お礼はいいから、私の愚痴も聞いてよ~! と、その後延々と話しかけられて、結局日報は全然進まなかった。
参観日当日、国語の授業。先日行われた運動会の感想を発表させながら、俺はサッと保護者の群れに目を走らせた。
遅れて入ってきた母親が、近場にいた顔見知りに「うちの子終わっちゃった?」と、口パクで尋ねている。その辺は抜かりなく、まだ当てていない。あの家には、上に兄弟がいるのだ。
「それじゃあ、次は……」
そわそわしていた生徒も、母親が来たことに気がついたらしい。はい! と元気よく返事をして、得意げに、けれどまだ少し舌足らずな口調で、時につっかえながらも、リレーの選手に選ばれたことを語った。
参観日前に一度提出してもらっているから、俺は散々生徒たちの作文を見てきている。話半分で聞き流し、俺は生徒たちの様子、それから親たちをさりげなく観察する。
現状、うちのクラスは目立った問題はない。日々些細なことで喧嘩をするが、それは成長に必要な範疇に留まっている。訳もなく、一方的にひとりがいじめられるようなことはない。少々浮きがちな生徒に関しては、俺がフォローに入るようにしている。
学校全体でも、いじめ問題は今のところはない。だが、子どもというのは大人の見ていないところで何かをやらかすのが非常に得意だ。ときに、大人顔負けの嘘をつくことだってある。
子どもに問題があるとき、その原因はどこにあるのか。たいていは子ども自身というよりも、家庭そのものにある。
だからこそ、この参観日とその後の懇談会で、俺は何か異変が起きていないかを、見極めなければならない。
視界の端で、桜がもぞもぞとしているのが見てとれた。さすがの優等生も、参観日は落ち着かないらしい。
しかし、彼女の母親は見当たらない。ちらっと後ろを見た桜の視線の先には、俺よりも少し年上の男が立っていて、桜に微笑みかけていた。
わざわざ土曜に学校を開けての父親参観(という言い方は古臭いからやめるべきだ。平日は母親だって仕事をしているのだから)でもないのに、男親の姿があるのは珍しいことだったが、なくはない。
父の笑顔の激励を受けた桜は、ふいと視線を前に戻して、俺の顔を見た。どうせならお父さんの前で発表したいよなあ、と次に当てようとしたが、どうも様子がおかしい。
机の下、膝の上で握られた手は、スカートをぐしゃぐしゃに握っている。目は少し潤んでいて、はくはくと何かを伝えたそうに口を開閉している。
緊張しているだけだろうか。けれど、そうではない気もする。
俺は結局、桜を当てることはできなかった。
「檜垣さん」
懇談会が終わると、親たちは帰っていく。親子一緒に帰宅する生徒のために、教室は解放して、副担任や教頭が見てくれている。
俺は桜の父親に話しかけた。振り返った男は、柔和で人当たりのよい微笑みを浮かべている。ヒステリックなモンスターペアレントとは真逆の、教師にとってはありがたい存在のように見えた。
「今日はわざわざ、お越しいただきありがとうございます。お仕事、休まれたんですよね?」
「ええ、まあ、はい。娘の成長を妻にばかり独り占めさせるのはずるいですからね」
ほんのわずかなユーモアを持ち合わせた檜垣は、人当たりがよさそうだ。
「なのに時間切れで……申し訳ございません」
参観日で当てられなかった子の親からクレームを受けることも多いが、檜垣はいたって冷静で温和だった。
「大丈夫ですよ。あの子、発表とか苦手でしょうし……それに作文自体は、私も家でチェックがてら読みましたからね」
俺は「お父様と仲がいいんですね、桜さん。お母様とは、どうですか?」と尋ねた。彼はきょとんとした顔をする。
「ええ、まあそうですね……」
「娘さんは、学校でのことをよく話したりしますか?」
「そうですね。仲のいいお友達のことは聞いたりしますよ。ええと、何ちゃんだったかなぁ……」
俺が適当な名前を告げると、「そう。そうです、その子。すごく優しくしてもらっているみたいで」と、檜垣は相好を崩した。
「ご家庭で何かお気づきのことがあれば、気軽に相談してください。こちらも学校で変わったことがあれば、ご連絡いたします」
と言って、頭を下げた。初めて会う保護者に対して、いつも同じことを話しているので、締めくくりとして何もおかしなことはない。ないはずだ。
俺は桜を迎えに行く檜垣の後ろ姿を見送った。
それから二週間後。俺は授業を終わらせたあと、その他の業務を放置して、病院へとやってきた。
つい昨日までは、身内以外の見舞いを禁止されていたので、遅くなった。本当は、もっと早くに来たかったのに。
途中で花屋に寄った。どんな花が好きなのかわからないから、彼女の年齢と見舞い用だと告げ、適当に見繕ってもらう。すると何を勘違いしたのか、「サービスサービスぅ!」と言いながら、店員はゴージャスな花束を作り上げた。
俺と彼女は恋人でも夫婦でもないから、こんなの渡しても、迷惑になるだけだ。だが、断れなかった。
大は小を兼ねるのならば、派手な花はすべてを丸く収めてくれるに違いないと信じて、そのまま病院へと向かった。
ナースステーションで病室の場所を聞くと、難色を示された。事が事だけに、厳重な警戒体制が敷かれている。特に男の見舞客は、受け入れがたいことは最初からわかっていた。
「では、この花と、それから手紙を……」
手紙。
彼女たちが授業中にやり取りしていた、可愛いメモ帳やノートを使った、特殊な折り方をしたものではない。学校名や住所が印刷された、無味乾燥とした封筒だ。
最初は中身も、パソコンで書いて印刷しようかと思っていたが、やめた。レポート用紙を何枚もだめにして出来上がった手紙の字は、震えていた。手汗で文字が滲んで、筆記具を変えた。折り畳むのだって、いつもならできる三つ折りが、妙に歪んだ。
見舞いの品を看護師に手渡して、また今度来ますと帰りかけたところ、「先生?」と、小さな声が聞こえた。
「ひ……いや、桜さん」
彼女はもう、檜垣ではない。高橋桜。そしてその母親こそ、俺が見舞いたかった人だ。
桜の後ろには、五〇代半ばの女性が立って、こちらに会釈した。慌てて返して、俺は「桜さんの担任の、中村と申します。この度は……」と、詫びを入れかけたところで、桜が手を引っ張った。
「先生、ママが会いたがってたよ」
「でも」
看護師には止められた。振り返ると、おそらく師長の立場にあるだろうナースが、少しの間だけですからね、と肩をすくめた。
桜に引っ張られるまま、俺は三階へ移動する。最近の病室は、入院患者の名前を書かない。
「ママ!」
俺は、この子のこんな声を学校で聞いたことがなかった。いつも大人しくて、子どもっぽさがあまりなくて、けれど今、母親に向かっては、第一声からあまりにも無邪気で。
――俺は、この子の笑顔を守ることができなかったのだ。
ベッドの上、身体を起こそうとしている香織のことを止めたのは、ぼーっとしている俺ではなく、桜の祖母であった。香織の母親である。無理しないの、と窘められて、彼女は「でも」と俺を見る。
「中村くん……いいえ、中村先生。今回は、ありがとうございました」
礼を言われて、ハッとする。ありがとうなんて言わないでくれ。俺は。
深く頭を下げて、謝罪する。
「俺が、もっと早くに桜さんのSOSに気づけていれば……」
檜垣は、外面はいいが、家では妻に暴力を振るうDV夫であった。子どもには直接手を上げなかったのか、それとも母親がかばうから、たまたま無傷であっただけか。
服で隠れる位置ばかりを狙って攻撃していたから、香織はかろうじて、パートで働くことができていた。
しかし、授業参観の前日、酒を飲んで帰宅し、スーツをそこら中に脱ぎ散らかして、冷蔵庫からビールを取り出した檜垣に、香織は小さく溜息をついたという。無意識のうちだった。
檜垣は激昂し、顔も体も構わず、暴力を振るった。顔にも大きな痣ができて、外に出られない。今までずっと参加していたのに、何の連絡もなく参観日に親が行かないと、怪しまれるかもしれない。
そう判断した檜垣は、自身が小学校に出向いたのだ。
子どもがおかしくなる理由の多くは、親に原因がある。
懇親会後に檜垣に話しかけた俺は、この家に問題があることを感じ取っていた。
仲のいい親子関係。学校でのことも話題になるだろう。
俺が檜垣に告げた子どもの名前は、男子のものだった。桜とは馬の合うわけがないやんちゃな子で、彼女は苦手意識を持っている。
加えて、母の同級生で娘の担任という俺のことをまったく知らない様子だったのが、気になった。
実際、バザーで男手が必要なときにやってきた初対面の父親は、「ああ、中村先生ってあの。妻と娘から聞いていますよ」と、親しげに話しかけてきたものである。
俺は檜垣を疑い、警察に相談をした。何かが起きている可能性がある。起きていない可能性もある。だからといって、ひとりで確かめにいくわけにはいかず、どうしたらいいかわからないと訴えた。
門前払いを食らうかと思ったが、パトロールと称して訪問してくれた。そんなに必死になられちゃあね、何もなければそれに越したことはないけどね、と。
そして、暴力を振るわれて倒れていた香織と泣いていた桜は保護されて、檜垣は逮捕されたというわけである。
「先生のせいじゃありません。私がもっと早くに、誰かを頼ればよかったんです」
いや俺が、いや私が、の応酬に、終止符を打ったのは桜だった。
「ママ。先生、お手紙を勝手に読む人じゃなかったよ」
ふたりして、きょとんとした。
そう、桜が何度注意をしても、手紙を書くのをやめなかったのは、俺が手紙を覗き見する男だという母の話を、覚えていたからだった。
父のこともあり、大人の男と直接話すのは怖い。そんな彼女が考えた、苦肉の策であった。宿題の作文は、父親がチェックするからアウトだし、授業中、親の目が届かない場所でしか、桜は訴えることができなかった。
俺が馬鹿正直に、説教したあとにそのまま手紙を返却していたものだから、気づくのが遅くなったのである。
「うん……ママも、よく考えたらそうだな、って」
いまだ痣の残る腕で、彼女は娘を抱きしめた。
「もしもあのとき、あなたが私の手紙を見ていたら、中村くんならきっと、平静ではいられなかったはずだもの」
「それってどういう……?」
「内緒。……でも、あなたがあのとき手紙を見てくれていたら、檜垣と結婚なんかしなかったかもしれない」
ハートは取り戻せない。折り目のついた紙は、どれだけ丁寧に伸ばしたところで、皺だらけだ。傷ついたふたりの心も、簡単には癒せない。
けれど、香織の笑顔は中学時代を彷彿とさせる明るさや聡明さを取り戻しつつあって、俺は目を細めた。あの頃よりもまぶしかった。
コメント