次に歌うなら君へのラブソングを(11)

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10話

 一度倒れたことで、花房は吹っ切れた。

 休日出勤の代休もしっかり取るようになったし、授業前にはおにぎりや菓子パンを頬張って、エネルギー補給をしてから臨む。急いで飲み込もうとしている姿を見て、「ゆっくり食えって」と注意はするが、そのくらいだった。何の問題もなく、仕事を任せることができる。

「それじゃあ、花房先生。よろしくお願いしますね」

「はい!」

 意気揚々と向かう彼の背を見送って、授業の入っていない司は、今のうちにすべきことを進める。

 夏期講習は書き入れ時だ。資料請求の問い合わせも来ていたし、近隣の小中学校で配布するビラセットの準備もしなければ。

 教室長は、ひとりの企業人でもあるが、ひとつの城を運営する主でもある。共通のチラシもあるが、教室独自の広報戦略を打ち出せるのが、面白い。

 地域の進学状況や学校の実情、そこから考えられるニーズを割り出して企画を立てる。多角的にビジネススキルが鍛えられ、やりがいを感じる仕事だ。

 冬期講習には花房メインでできるようにして、ゆくゆくは教室長として同等な立場で肩を並べてみたい。

 彼のやる気に刺激され、司自身も新たな目標を抱くようになっていた。

 そのためにもまずは、夏期講習で去年よりもたくさんの生徒の申し込みを獲得し、入塾までもっていかなければ!

 司は気合いを入れ直すと、営業リストを開いた。以前資料を送付したが、申し込みに繋がらなかった家庭や、体験に来たけれど入塾に至らなかった家庭に、もう一度アプローチするのである。

 もちろん、嫌がられることも多いし、冷たくされると心が折れる。この中から一件でも獲得できれば、御の字だ。

 リストの上から電話をかけること十数分。「すでに他の塾へ」など、すぐに断られて話が弾むこともないので、もう二度と望みのない中三の生徒などは、リストに線を引いて削除する。

 気を取り直して次の家へ。受話器を手にしたときだった。

「ん?」

 教室ひとつひとつの防音性は、さして高くない。職員スペースから一番離れた部屋といっても、小さい教場だから、たかが知れている。大きな声を授業の原則として掲げているので、講師の説明の声はいつだって聞こえてくるが、それとは違う喧噪だった。

 仕事の手を止めて立ち上がった司のもとにやってきたのは、夏期講習から本格的に塾講師になる女子大生である。リクルートスーツは、まだまだ着慣れていないせいで初々しい。今日は同じ文系講師である花房の授業見学に来ていたのだが、半泣き状態になっている。

「菊池先生。どうしたの」

「先生! 大変です!」

 彼女に従ってやってきたのは、花房が担当している授業だった。ひとりの男子生徒が机の上に土足で立ち上がり、教室を見下ろしている。

「鈴木、何をしてるんだ! 下りなさい!」

 それがあの問題児・鈴木鈴庵だったので、司は血相を変えて教室へ乗り込んだ。学級崩壊。そんな不吉な四文字熟語が脳裏をよぎる。

 公立の学校と違って、塾は評判がすべてだ。ここまで積み上げてきた実績や信頼から、生徒や卒業生が友人を紹介してくれて、生徒が増えていく。

 そうした好循環の輪が、一瞬で断ち切られてしまう。ここにいる生徒の何人が、「こんな奴と一緒にいたくない」とやめてしまうか想像もできなかったし、今後紹介で生徒が入ってくることもなくなってしまう。

 司は鈴木を下ろそうと躍起になるが、相手もさるものだった。舌を出して挑発し、

「俺に触ったら、ボーリョク講師がいる塾ってSNSにアップしてやるからな!」

 と、騒ぎ立てる。司は言葉で説得する以外の手段を封じられ、こんなことなら強制退塾させておけばよかった。

「学校も塾も、意味ないんだ! 俺らにはネットがあるからさ、そっから全部学べるんだ。お前らも高校なんか行くのやめようぜ」

「鈴木!」

 彼はこの調子で演説をしていたらしい。司は花房に怒りの目を向けてしまう。

 教卓の前に立つ花房は、鈴木の所業を傍観していた。テキストを丸めた状態で持ち、じっと鈴木を見つめて、司には目もくれない。

「俺は馬鹿な大人たちの社会を、ぶっ壊すんだ! こうやって!」

 鈴木はスマホのカメラを花房に向けた。動画撮影になっている。無理矢理引きずり下ろせば暴力だと騒ぎ立て、この状態を治めようと行動をしなければ、無能だとこき下ろすため。

 責任を取るべきは、花房じゃない。室長である自分だ。

 堪忍袋の緒も切れた司は、実力行使を決意して、鈴木に手を伸ばす。 そのときだった。

「~~~~?」

 花房が投げた言葉は、まったく聞き取れなかった。かろうじてそれが、英語だとわかる。思わず、ぽかんとした顔で彼を見てしまう。花房はにやりと笑い、鈴木に捲し立てる。

 ネイティブ顔負けの発音とスピードだ。英語を教えた経験はあるが、司は見事なジャパニーズイングリッシュしか披露できない。

 そういえば、路上で歌っていた時代、彼は英語の曲も披露していた。邦楽も洋楽も聴かない司にとっては、いいも悪いもわからなかったけれど、日本語の歌以上に舌を噛みそうな英語曲を、自分のもののように歌い上げる彼は、格好良かった。

 司が聞き惚れているのに対して、鈴木はぽかんと立ち尽くしていた。机の上で滑稽な姿を晒しているのに、本人は気づいているのだろうか。他の生徒たちも、鈴木ではなく、花房を注視している。

「……君が馬鹿にした、日本の学校教育しか受けていなくても、ちゃんとやればこのくらいの英語は喋れるようになるんだよ」

 地の底を這う低い声に、鈴木はびくりと身体を揺らした。

 講師業に邁進するようになった花房は、堅実な授業で人気を高めていたが、叱ることはとことん苦手だった。当の本人が、「俺、あんまり叱られたりとかなくて、放任されて育ってきたんで」と言っていた。代わりに司ががっつり締めることで、バランスをとっていた。

 叱ることのない花房の人気はどんどん上がっていったが、それは同時に、生徒に舐められるということでもあった。だから鈴木が暴挙に及んだのだ。

 そんな花房が、激怒している。生徒たちのみならず、司もまた、固唾をのんで彼の言葉に耳を傾けた。

「鈴木くんは、配信者を目指しているんだっけ?」

「お、おう! こんな塾の先生なんかよりも全然稼いでやるんだ」

 花房は鈴木の野望を鼻で笑った。

「何で勝負するつもり? 教養もない、素直じゃない子どもの言い分を、大人は聞き入れてはくれないよ。金払いのいい大人は特に。動画を見てもらえなきゃ、広告も入らない。企業とのタイアップも望めない。どうやって稼ぐつもりなんだ?」

「それは……」

 スーツを着て、あくせく働くサラリーマンにはなりたくない。動画配信者は楽しく遊んで暮らしている姿を見せるだけで金を稼げるのだから、楽な商売だと勘違いしていたのが、ありありとわかる。

「学校でちゃんと勉強して、大学に行けば、人々が何を求めているのか調べるための手法も習うし、英語で番組を作ることができれば、視聴者は全世界に広がっていく」

「ネットは確かに便利だ。視覚的にわかりやすい説明の動画がたくさんアップされているからね。けれど、その情報が本当に正しいものだと判断できる? 本当に必要なことを選択できていると信じられる? 学校や塾は、今の君に必要な知識を教えているんだ」

 ぐうの音も出ない鈴木以外の生徒たちも、花房の話に真剣に耳を傾けている。隣にいる菊池も、「はわわ……」と、キラキラした視線を花房に向けている。

 教室の中でおそらくひとりだけ、司は違う感慨をもって、花房の言葉を聞いている。

 身振り手振りを加えた彼の言葉に説得力があるのは、花房が一般論を語っているのではなく、実体験を交えているからだろう。ミュージシャン志望だった彼は、YouTuberになりたいという子どもの気持ちにも共感できる。

 甘い見通しの鈴木とは違い、花房はきちんと夢に向かって努力をし続けていた男だ。英語が上手いのも、洋楽をカバーすることや、自分がデビューした後の展開を考えてのことだったに違いない。

 おとなしくなった鈴木に、花房は「机は土足で上がるものじゃない」と静かに言い放つ。周りの女子の汚いものを見る目線に、ようやく少年も我に返った。渋々と、しかし素早い動作で机から下りると、椅子に座って小さくなった。

 花房は満足そうに微笑むと、テキストを開き、黒板の前に立った。冊子は跡が残って歪んでしまっている。さっきまで力一杯握っていたことの証左だ。花房は恐れや緊張を乗り越えて、生徒と向かい合い、勝ったのだ。

 彼の英語に聞き惚れるばかりで、何もできなかった自分のことを、司は情けないと恥じた。

12話

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