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<11話
「花房先生、めっちゃくちゃかっこよかったです!」
興奮した口調、拳を握って振り上げるのは菊池だった。すでに生徒を見送り、電話営業もできない時間帯だから、今日の仕事のまとめと明日の準備をのんびりとやっている。
花房は「どうも」と一礼をしたきりなのだが、菊池は構わずに、鈴木をやり込めた彼が、いかに凜々しかったのかを語り続けている。
そろそろ止めに入った方がいいな。
日報を書いていた司は、菊池に声をかけた。
「菊池先生。そろそろ帰った方がいいよ。君、未成年だからね」
はーい、といういい返事とは裏腹に、菊池は帰り支度をしようとしない。これは一緒に教室を出るまで粘るつもりだな、と推測した司は、報告書をいつもより簡単に書き上げ、上長へと送信した。
「ほら、もう帰るぞ」
「はい!」
タイミングよく、花房も自分の業務を終えた。教室に鍵をかけ、三人でエレベーターに乗り、一階へ。
「ん?」
鞄のポケットを探った司は、スマートフォンが入っていないことに気がついて、小さく舌打ちをした。机の上に置き忘れてきたに違いない。
「先に帰ってて」
そう言って、今し方下りたばかりのエレベーターに乗った。鍵を開けて、すぐに忘れ物を回収して戻る。
エレベーターホールを出て、正面玄関へ。すると、建物の前でふたりが立ち話をして、司のことを待っていた。
先に帰れって言ったのに。
そう思ったものの、仲間はずれにせずに一緒に帰ろうという気持ちは嬉しくて、ふたりにコンビニでアイスでも奢ってやろうかな、とウキウキしながら接近する。
「花……」
名前を呼びかけた司の声を、菊池のテンションの高い声が遮った。
「花房先生って、ついこの間まで駅前で歌ってましたよね?」
菊池の言葉に、司は思わず物陰に隠れた。
まさか、自分以外にも花房の正体に気がつく人間がいるとは思わなかった。プロでもなんでもない人間の歌に耳を傾ける通りすがりは、多くはない。まして、出くわす度に何曲も聞いていく司のような客は、ほとんどいなかったように思う。
「やっぱり! あたし、結構好きでしたよ。花房先生の歌!」
「どうも」
ここからだと、話し声しか聞こえない。花房がどんな表情で、女子大生からのファン宣言を受け止めているのか、気になって仕方がないけれど、盗み聞きを始めてしまった。キリのいいところまでは待機だ。
「なんでわかったの?」
「今日、英語で話してたじゃないですか。それで」
そういえば彼女は、大学で言語学を専攻し始めたところだったか。英語の発音の癖などで、同一人物だと認識したのだろう。素人の司には、あずかり知らぬことだ。
いや、でも、派手なロン毛から清潔感溢れる地味な焦げ茶のヘアスタイルに変わっただけでは気づかなかったのだから、菊池よりも自分の方が花房のファンだったのは確実。
八つも年下の女子大生に張り合うようなことを考えてしまった司は、自己嫌悪にずるずるとしゃがみ込んだ。自分のマウント思考に呆れ果てる。
菊池は積極的に、花房に話しかけている。派手さはないけれど、若くて張りのある肌に、くるくると変わる表情の可愛らしい女性だ。女に興味はない司であっても、一般的な男ならば恋愛対象に入るだろうことは、想像がつく。
陰からこっそり窺っているだけでも、お似合いのふたりと言えた。
スーツではなく、私服で彼らが並んでいる姿を想像して、胸の内がもやもやする。
先に花房を見つけたのは、俺なのに。
「……でも、どうしてストリートミュージシャン、やめちゃったんですか? なんでまた、塾の先生なんかに……」
菊池の問いに、ドキっとした。それは司も知りたいことだった。空気を読まねばならないアラサー社会人は聞けないが、若い女子は強い。遠慮なく、ずけずけと尋ねた。
これだけ聞いたら、何も気づかなかったフリで颯爽と出て行くのだ。
背中しか見えない彼は、大きく肩を上下させた。
「あ。さすがに、見ず知らずの私なんかに言えませんよね。ごめんなさい」
いや、そこは空気読むのかよ! もっと食い下がれよ、菊池!
上司がそんな風に歯噛みしていることをいざ知らず、菊池は話を変えようとして、でも他に話題も思い浮かばず、もじもじとしている。
彼女との間の沈黙に耐えられなかったのか、花房は静かに話を始めた。
「俺が音楽をやめたのは、一番信頼していたお客さんにすら、自分の音楽を聴いてもらえていなかったんだって、ショックを受けたから」
適当な話をするのかと思った。
才能がないって気づいたから。その一言で、対話の拒絶は成立する。なのに花房は、言葉を尽くし、具体的に自分がプロにはなれないと思い知ったエピソードを語った。
司の心臓が、嫌な音を立てて速くなる。
どうして今の今まで、意識の外に追いやっていたのだろうか。ほとんど唯一、ストリートミュージシャン時代の彼と話をした記憶だったというのに。
年が明けていたかどうか、その辺りは曖昧だった。ただ覚えているのは、小雪のちらつく寒い日だった。司のように終わりまでずっと眺めているような人間はおらずとも、二、三人は足を止めて一曲くらいは彼の歌声を聴いていくのに、その日は足早に帰路を急ぐ人ばかりだった。
花房が深く礼をしたのを見て、司はパチパチと拍手をした。今日のライブは終わり、の合図だった。終電で帰ろうとした司を、花房は呼び止めた。
『あの。俺のライブ、いつも見てくれてありがとうございます』
歌っているときとは違う声に意識を奪われた司は、「ああ」とか「うん」とか、社会人にあるまじき相づちしか打てなかったように思う。
『それで、いつも聴いてくれてるあなたにお聞きしたいんですが……俺の歌、どうですか? どの曲が好きでした?』
ライブの熱で上気した彼の頬を眺めていた司は、気づいていなかった。
「正直、何年も路上ライブしたり個人で楽曲配信したり、ボーカルオーディションにも申し込んだりしたけれど、限界を感じていた。いつものお客さんに評価してもらえたら、もうちょっとだけ頑張ろう。もしもダメだったら、きれいさっぱりやめてしまおう。そう決めたんだ」
まさか、あの問いかけに彼の決意が秘められていたなんて、思わなかったのだ。よく見れば、強ばる表情や上擦る声などに気づき、「どうかしましたか?」と、声をかけることもできたのに。
自分の答えをおぼろげに思い出して、司は絶望した。あのとき自分は、
『最初に歌った曲かな……』
と言った。
顔色を変え、「そうですか」と一言言ったきり、彼は急いで機材その他を片づけて、ふらふらとどこかへ行ってしまった。
あの回答が、よくなかったのだろう。何と言えばよかったのかも、今となってはわからないが、とにかく、他の曲を言っていれば、彼は教室で生徒相手にではなく、コンサート会場で大勢の聴衆を前に、歌声を響かせる未来もあったかもしれないのだ。
楽器もコンポも、憧れのスターのポスターやライブTシャツもない、音楽の匂いのない花房の部屋を思い出した。
ふらふらしつつ、ふたりの前に顔を出すと、「遅かったですね」と、彼はこちらを気遣ってくれる。
「いや、なんでもない。ちょっとスマホ以外の忘れ物も思い出して、探してただけ」
塾講師も客商売だから、ポーカーフェイスには慣れている。
司は笑みを浮かべたまま、ふたりを駅へと促した。
俺のせいだ。
花房の背中を見ながら、後悔の念に駆られる。
「英語、本当に学校だけですか?」
「……実は学生時代の夏休みに、語学留学してた」
などと盛り上がっている彼は、司の視線に気づくことはなかった。
>13話
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