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『その新人、花房先生っていうんだけどさ、社長の甥っ子なんだよね』
案の定、終電滑り込みコースになった司は、湧田の言葉を反芻しながら歩みを速めた。
五月も半ばを過ぎ、日中は真夏と紛うほどの暑さの日も少なくない。だが、夜はやはり、ジャケットがないと肌寒い。
司は外していたボタンを留め、大股で急ぐ。
二十年あまり前に、東京の下町に創業した小さな学習塾、ワンツーゼミナール。。現在は近県に広がり、今や五十教場を数える。室長とはいえまだまだ下っ端の司は、社長と個人的に話したことはないが、夏期講習前の決起集会などで、その姿を見ることはある。体格のいい五十代の男で、演説している姿は、温和な教育者というよりも、立派な鬼教官だ。
そんな社長の甥である。
湧田は「本当はオフレコだけど」と、電話口で言った。苗字が違うから、そう簡単には縁故入社だということはバレないが、上の人間には周知されている。前もって心の準備をしておけというのだから、お優しいことだ。
社長の血縁というだけでなく、もう一点、年齢の部分でも、司は相当やりにくいだろうと感じた。
新人と新卒は、イコールではない。来月から部下になる花房一里は、今年で二十七歳。つまり、司とは同い年である。同学年の上司に敬語を使わなければならないのは、苦痛だろう。
彼に指示を出し、ときに叱らなければならないと思うと、今から気が重い。
深く息を吐き出す。駅について、スマホを取り出した。
終電まであと数分。週の真ん中ということもあり、人の姿は疎らだった。
深夜バスを残すのみになったバスロータリーも、静かなものだ。司はガードレールに目を滑らせた。
「そういえば最近、ここで歌ってた人、見かけないな」
年明けからこっち、受験本番や春期講習、谷川の退職などで目まぐるしく、彼がいつ頃からいないのか、思い出せない。
「かっこよかったんだけどな」
ぼそりと呟いた声は、コンビニから出てきた若者の奇声によってかき消された。
>3話
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