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<30話
「触るなよ!」
山本は些細な刺激に激昂し、俺の肩を逆に押した。
「っ!」
「明日川くん!」
何度でも言うが、俺は山本ほどではないとはいえ、運動神経があまりよろしくない。すでに山を登ってきたこともあり、疲労が足に溜まっていた。山本にそんな意志がないのはわかっているが、少しの衝撃で、バランスを崩す。出っ張った岩を踏み、俺は重力に逆らえなかった。ふわりと投げ出された方向に、道はない。崖になっている。
落ちる、と思った瞬間、呉井さんが名を呼ぶのが聞こえた。必死に伸ばされた彼女の手が、俺の手を掴む。だが、さすがに呉井さんは、女の子だ。まがりなりにも男子高校生の平均くらいの身長体重の俺を、引っ張りあげて助けることはできない。
守らなきゃ。
そう咄嗟に思うことができたのは、奇跡だった。仙川の脅迫が身に沁みついていたのかもしれない。俺ができたのは、彼女を抱き締めてクッションになることと、自分が頭を打ちつけないように背を丸めて落ちることだけだった。
ひやりとする浮遊感に、悲鳴も上げられなかった。
「……ってぇ……」
地面に落ちて、一瞬息も止まりそうになる。うめき声とともに呼吸も戻ってきて、ほっとした。身体は痛いけれど、生きている。崖とはいえ、サスペンスドラマのラストシーンで犯人が追いつめられるような、断崖絶壁というわけではない。
「く、呉井さん、大丈夫?」
うまくクッションになれていたらいいんだが……と、彼女を思い切り抱き締めていたことを思い出す。あわわ、リアル美少女に触れているあわわ。慌てて両手を挙げて全面降伏ポーズを取ると、呉井さんは身体を起こした。
「わ、わたくしは大丈夫ですが、明日川くんは……?」
「俺も大丈夫だから……えっとその、言いづらいんだけど」
無事そうなら、俺から降りていただけるとありがたいのですが……。
下手に出て懇願すると、「あら、ごめんなさいね」と、すまなさそうな素振りをまったく見せずに、呉井さんは俺の上からどいた。身のこなしから見て、怪我はしていない。ほっとした。彼女の無事は勿論だが、帰宅後に仙川に殺されることはないだろう。……半殺しくらいですみそうだ。
俺も身を起こす。その途端、足に激痛が走った。そろりそろりとなめくじよりもゆっくりと動けば、問題はなさそうだ。骨には異常ないと信じよう。病は気から、ということだし。背中が足よりはマシな痛みなのは、リュックがクッションの役割を果たしてくれたからだろう。
崖上の登山道を見ると、山本が真っ青な顔をしていた。俺と目が合うと、気まずそうな顔をして、すぐに去って行った。謝罪は期待できそうにないな。
「っ、つぅ……」
「明日川くん……」
応急処置はしておいた方がいいが、救急箱が入っていたのは仙川に渡されたスポーツバッグの方だった。呉井さんを抱きとめるために手放してしまい、崖上に放置されている。俺が持ってきたのはせいぜい虫よけと刺されたとき用のかゆみ止めに、絆創膏くらい。救急箱には消毒薬から添え木に包帯、三角巾が入っていたのに。
心配そうな呉井さんに、へらへら笑ってみせる。
>32話
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