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<73話
「く、呉井さん呉井さん、いったんストップして休憩しよ。な?」
慌てて作業を止めさせる。呉井さんは、はっとして俺の顔を見る。それから恥ずかしそうに、自分の彫っていた石けんを見つめる。釣られて俺も作品に目を落とすと、惨い様子の残骸がある。
実際に作業を進める前の想像は、もろくも崩れ去った。意外と呉井さんは、不器用だった。そういえば、バーベキューの下ごしらえのときも、包丁を持つ手はどこか危なっかしく、形もいびつだったっけ。
「わ、わたくしこういう作業は不得意で……」
「お嬢様の分は、私が!」
呉井さんは首を横に振り、仙川の申し出を断った。
「文化祭は学生のイベントです。あなたに手伝ってもらうわけにはいきませんわ」
そう言いながらも、彼女は暗い顔で手元の石けんを見る。売り物にならないことは、誰の目にも明らかだった。
俺は石けんを取り上げ、紙とペンを手渡した。不意をつかれたせいか、俺とのぎくしゃくした関係を忘れ、きょとんとした顔で見上げてくる。
「こういうのは適材適所。彫るのは俺たちに任せてよ。呉井さんは、石けんレシピシートのデザインや、注意書きの文面、スペースの装飾をどうするか考えてくれる? 山本と一緒に」
「でも」
「土曜日の石けんづくりは、頼りにしてるから」
山本調べの石けんレシピは、刃物を使わない。節約のために手で成形するが、これは多少形が整わなくても、それが味になる奴なので、不器用でも大丈夫なのだ。
呉井さんは納得しかねるという表情だったが、「怪我したら大変だよ。仙川先生も心配する」と言うと、仙川の加勢もあり、渋々頷いた。
「明日川くんは」
「うん?」
「わたくしが怪我をしたら、明日川くんも心配してくださいますの?」
そんなの当然だ。呉井さんのきれいな指先が切り刻まれるのなんて、見ていられない。肯定すると、呉井さんは「わかりました」と、今度こそやる気を復活させて、予算の配分に頭を悩ませている山本のところに行った。
さて、俺も作業を再開するかな。呉井さんほどではないが、俺の石けん彫刻もまだまだ改善の余地しかない。俺もカービングナイフ、買おうかなあ……。
呉井さんほどじゃないが、おっかなびっくり慎重に彫り進めていく俺とは対照的に、瑞樹先輩は鼻歌でも歌いそうなほど気軽に、驚くほど大胆に彫刻刀で石けんを刻み込んでいく。
「すごい……」
「うん? ありがとう。実は文化祭当日は、僕、クラスの方の出し物があって、そちらにかかりきりになりそうなんだよ。だから、売り物作りはね」
感嘆した俺に、瑞樹先輩は手を止めずに言った。三年生は受験を控えているので、大したことはできないし、やらない。それが暗黙の了解だった。だが、学級委員などのクラスの要職についているわけでもない先輩が、当日こっちに来られないくらいの出し物とは?
そんな俺の疑問に、瑞樹先輩は微笑むだけで答えてはくれない。
「当日のお楽しみだよ? 特に、まどちゃんにはね」
「はぁ、わかりました」
彼に逆らうのは、よろしくない。精神衛生上。
俺はそれ以上無駄口を叩くのをやめて、練習用に買った一個百円もしない石けんの箱を、新しく開けた。
>75話
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