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タウンハウスに移ってすぐ、貴族としての教育がスタートした。雇われ講師が中心となって行われたが、暇を見てはレイノルド自身もミュートのところにやってきて、教えてくれた。
昔から、座学は得意であった。マナーや教養として知っておいた方がいいこと、主だった貴族の顔と名前については、講師も舌を巻くほど覚えが速かった。
オタクとはすなわち、知識を得ることは苦にはならない。漫画のキャラのように、この世界の人たちの髪や瞳は色彩豊かで、覚えやすいのもある。
問題は実技である。猫背になりがちなミュートは、まず立ち姿から、何度も厳しく注意を受けた。
特にダンスは、日本では経験がなかったことと、男女両方のダンスを覚えなければならなくて、泣きたくなった。レイノルドのパートナーとしてファーストダンスの相手を務め、その後フリータイムでは、貴婦人たちのお相手をしなければならないせいである。
できれば、舞踏会では壁の花を気取りたいところであったが、「レイノルドの役に立ちたい」と言ったのは自分だ。花嫁連続死亡事件に興味津々の連中を前に、「そんなのはたまたまだ。現にこうやってピンピンしているんだから」と見せつけるためには、ダンスでもなんでもして、目立った方がいい。
特訓を経て、ダンス講師には「落第ギリギリだ」と呆れられつつも、一応の合格はもらった。あとは本番、レディの足を踏まないようにだけ気をつけなければならない。
国王主催の夜会まで一週間。新しい衣装も出来上がり、「よく似合っている」と、太鼓判を押された。
白いブラウスやシャツに鮮やかなジャケットを羽織り、ひらひらとクラバット(ゲームのキャラクターがつけているのしか見たことがなかった!)を首元で遊ばせるのが、一般的な男の衣装である。武官であれば、そこに様々な勲章がついているものだ。
レイノルドがミュートに用意したのは、斬新なスタイルであった。黒いブラウスに、黒いベスト。刺繍まで黒い絹糸という徹底ぶりだ。光沢の有無だけで、ボタニカルな柄の刺繍が際立つようになっている。
「ミュートは黒髪が美しいから」
と、彼はテーマカラーを決めたらしいが、なんだか面映ゆかった。大した手入れもしたことのない日本での生活だったが、マージュ家に来てからは、適度にオイルを使うなどしている。ひとえに、自分のせいでレイノルドが周囲から侮られることにならないように、という配慮であった。報われた気がして、嬉しかった。
隣に立つレイノルドは、特に衣装を新調したわけではないが、胸のチーフやタイを黒いものに変えていた。
これがリンクコーデって奴か、とどこかで聞きかじった知識を思い出す。髪を後ろに撫でつけ、額を出した彼は一等美しかった。
ひとつだけ残念だったのは、眼帯をしたままだというところだ。赤い瞳がさぞ映える髪型だったのに、ミュートの目の前で、彼は隠してしまった。まぁ、自分だけが知っているというのも、乙なものだろうと言い聞かせる。
王宮の広間には、多くの貴族が揃っていた。一歩足を踏み入れた瞬間、好奇心に満ちた目が一斉にこちらを向いた。
「っ!」
好意的なものよりも、下世話な視線が多い。特に女性たちは、手にした扇子で口元を覆い隠しながら、「あれが……」「八人目」「呪いは殿方には効かないのかしら?」などと、噂話に興じている。男たちの目は、なんとなく性的なニュアンスを含んでいる気がする。要するに、レイノルドとの夜のことを想像されているわけだ。
「ミュート。背を伸ばして」
隣にいるレイノルドが支えてくれなければ、怖気づいて逃げたくなっていた。
「堂々と振る舞えば、その通りの評価になる。それが貴族社会というものだ」
囁かれ、背を叩かれる。
そうだ。ここで尻尾を巻いて逃げ出したら、役立たずのままだ。ミュートは意識して大きく息をし、しゃんと前を向き、レイノルドに歩調を合わせて歩き始めた。
最初に、レイノルドとともに王家の人たちに挨拶をする。習った通りにできたし、彼にタイミングを合わせるのも成功した。緊張すると、行動も呼吸も、浅く速くなるものだ。同時にできてよかった。
「相変わらず、領地経営に熱心なようだな、マージュ侯爵。それから初めまして、奥方の……?」
奥方! 対外的にはそうなってしまうのか、と衝撃を受けつつ、
「ミュートと申します」
短く自己紹介をした。奥方とか夫人とか呼ばれるのを避けたかったし、正式に籍を入れたわけではないから、「ミュート・マージュ」と名乗るのは、おこがましかった。レイノルドが、
「ミュートのいた国では、貴族などの身分差はなかったようで、この通り緊張しておりますが、なにとぞご寛恕を」
と、フォローをしてくれた。多少ぎこちなくても、これで大丈夫だ。ミュートは無理矢理に微笑みを形作った。
国王夫妻は、レイノルドに対して、それからその相方であるミュートに対して気安かった。
それもそのはずで、王太子はレイノルドの学友、そして彼の妻――現在は身重で、この場にはいない――は、レイノルドのいとこにあたるのだから。
この事実を知らされたとき、「どうして先に言ってくれなかったんだ!」と、ミュートは彼を詰った。きょとんとした顔で、「言ったところで、何が変わるわけでもあるまい」と返されては、脱力するしかなかった。
幸い、良好な仲の彼らの隣で微笑んで立っているだけ、挨拶は無事に終わった。ホッとしてその場を離れると、レイノルドからは、「よく頑張ったな」と、褒められた。
国で一番偉い人たちとの談話が終われば、強張りも少しは解ける。喉が渇いていたことに気づいたミュートは、給仕の人間からスパークリングワインを受け取って、一口飲んだ。
それからも、何人もの人間がマージュ侯爵であるレイノルドの元へと挨拶にやってくる。穏やかに、にこやかに返す彼の隣で、ミュートは微笑み、頷き、時折投げかけられる意地悪な質問には、困った顔を見せずに、ただ曖昧に首を傾げ、レイノルドを見上げた。よくもまあ、庇護者の目の前でいじめてやろうなどと思うものだ。
王家と懇意にしており、肥沃な土地の領主であるレイノルドに、目をつけられては敵わない。睨まれて、愛想笑いで逃げていく連中は、きっと考えなしの事業を興して、遠からず借金まみれになるだろう。そうであれ、と内心で呪う程度には、ミュートは性格が悪い。
次第に周囲を見る余裕が生まれてきた頃、宰相の合図で若い男女が国王たちの前に居並んだ。少女たちは皆、真白いドレスを身に纏っている。男の方は様々だったが、肩からたすきにかかっている飾り帯だけは、薄いブルーに金の刺繍で統一されていた。
「あれは?」
こっそりと尋ねると、レイノルドがこちらに身体を傾け、小声で囁いた。
「デビュタント……今日の夜会で社交界にデビューする若者たちだよ」
そうか、これが。
これまでアニメや漫画、小説の知識でしかなかったその単語が、今目の前で繰り広げられている光景と重なり、実感が沸いた。国王と謁見し、ありがたい言葉をいただき、大人の貴族の一員として受け入れられるのだ。女性の場合は、婚約者との結婚が目前に迫っている。
清楚な白いドレスは、娘を持つ家が威信をかけて仕立て上げるものだ。華美になりすぎないように、けれど地味すぎるのもよくない。よって、白い布に同じ色の絹糸で細かく刺繍をしたり、合わせるアクセサリー(金か銀、色石はなし)の意匠に凝るものである。
「あれ?」
自分よりも少し年下の彼らを、微笑ましく見守っていたミュートだったが、ふと違和感を覚えて、思わず口にした。
「どうした?」
「あ、いや、なんでもない」
口を噤み、ミュートはじっと、デビュタントに臨むひとりの少女を見つめる。
彼女のドレスは、周囲の娘たちと比べて、身体のラインに合っていない。白にもいろいろな白がある(一説によると、二百色だとか)が、どうも黄ばんでいる。レースなど、洗っていないカーテンのようだ。アクセサリーも意匠が統一されていない。
少女に声をかける国王陛下は、さすがに顔や態度に表すことはない。他の人間と同じように接しているが、すべての貴族が同じように振る舞えるわけではない。
特に、彼女と同じデビュタントを迎えた紳士・淑女のタマゴたちは、顔を見合わせ、肩を竦め、意地の悪い笑みを浮かべている。
やはり、あのドレスはこの世界で生まれ育った貴族から見ても、おかしいのだ。こちらからは後ろ姿しか見えないが、アップにしたヘアスタイルのせいで、うなじが緊張と羞恥に赤く染まっている。下ろしてあげた方が、マシなのではないか。
同じ光景を見ているはずなのに、レイノルドはミュートとは違い、違和感を覚えていないらしい。
「あれは、うちで働いてもらっている、グネル男爵家の娘だ。立派なものだな」
親戚の少女を見るように目を細めているレイノルドを、ミュートは信じられない気持ちで見上げた。
あれが、彼には微笑ましい成人の儀式に見えているのか? 古ぼけたドレスで国王と謁見し、これから初めてのダンスを踊る、少女の気持ちを想像できないのか?
ミュートは自分の格好を見下ろした。「ド」がつく庶民である自分が、着心地がよく真新しいシャツを着ているのに。隣に立つレイノルドも、立派な衣装を身に着けている。
同じく、生まれながらの貴族であるはずの少女が、あの年頃ならば流行りの服やアクセサリー、化粧もしたいだろうに、恥ずかしげに背を丸めているのが、悲しかった。
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