その瞬間、私は風になっていた。
そう表現すれば格好いいが、夕飯の支度をしているはずの母が、たまたまタイミング悪く、台所から出てきた。トイレに行くのに、玄関前でばったり出くわした。
「あら、おかえり」
帰宅した私は、母に顔を見られたくなかった。だから無視して、ダッシュした。それだけの話。
身体を動かすことがあまり得意ではなく、普段はべたべたずるずると足を引きずって歩いている娘が、タタタタ、と軽やかな音を立てて階段を駆け上がっていったのだから、母は驚いただろう。
「ちょっと、恵ー?」
階下から名前を呼ばれたが、無視をして自室に閉じこもった。鍵がついていないので、入ってこようと思えば入れてしまう。
感情は揺れに揺れているけれど、どこか冷静に頭を働かせて、椅子をえっちらおっちらと入口まで運び、簡易バリケードにしてから、ベッドにダイブした。
じっと見つめる掌は、まだじんじんと痺れている。殴られるよりも、殴った方が痛いんだ。愛のムチなんていう高尚なものではなくて、単純に罪悪感のせいで。
心の中では、「やってしまった」という私と、「ユキの方が悪い」という私が、せめぎあっている。どちらの言い分も正しくて、理性的な私は判断に困る。
どちらに軍配が上がるかは別にして、私が今日、親友と恋人の両方を失ったことだけは、明らかだった。
学校の中で存在感を示す方法は、限られている。
テストで学年上位に入ったり、生徒会活動をしたりという優等生になる?
それとも運動部に入って、全国大会でも目指す?
私はどっちのルートも取れなかった。運動は苦手。勉強も好きじゃない。あとはとびきり可愛いとか、モデル並のスタイルとか。これも生まれ持ったもので、私はすべてが人並みだとしか、言いようがない。
けれど私は、この学校の中で、一際目立っていた。ある意味、悪目立ちとも言えたかもしれない。
白いセーラー服の羊の群れの中、校門前で私が相手を待っていると、自然と周囲もそわそわしていた。私が誰を待っているのか、わかっているからだ。
学校の前の道路は割と広い。路肩に自動車を止めても、交通の邪魔にはならないほどには。
目の前で、一台の自動車が止まった。車の良し悪しなんて私にはまったくわからない。でも、真っ赤な色は磨かれて、ますますピカピカと光っていて、どの車よりも格好いい。
この車が私を迎えに来たのよ、とあたりを見渡した。きっとシンデレラも、城から花嫁を迎えるためにやってきた馬車に乗り込んだときは、きっとこんな気分だったにちがいない。
扉を開けて、出てきた相手に、私は軽く手を振った。ちょっと背伸びをした仕草になった。同じように片手を上げて近づいてくる彼は、様になっているのに。やっぱり大学生と高校生では違う。
「恵」
「武史ぃ。お迎えありがと!」
武史はエスコートも完璧だ。助手席のドアを開けて、私を載せてくれる。彼は私を、お姫様気分にするのがうまい。
女子校で、彼氏を作るのは大変だ。そして付き合うにしても、近隣の男子校の生徒と関係を結ぶ子が多い。
だから、放課後にドライブデートを楽しむことができるのは、私だけ。
流れるように走り出した車窓を眺めると、立ち止まってこちらを見ている羊の群れがいる。その中には学校で一番の美少女と言われている先輩の姿もあって、私は心が満たされるのを感じ、声を上げて笑った。
「何か楽しいこと、あった?」
「ううん。別に。なんでもないの」
とてつもない優越感。格好良くて、頭がいい、年上の彼氏がいるって最高だ。あのとき少しだけ、勇気を出してよかった。
私が武史と付き合うきっかけになったのは、去年の学園祭のときだ。
セキュリティ強化のため、学園祭もフリーでは入場できない。乙女の花園に夢を見ている世の男たちは、友人の友人のそのまた……という伝手を辿って、入場チケットを入手しようとする。
当然、その中には学校側が排除しようとしていた性質の悪い連中もいる。女子校の仔羊を狩ろうとする、狼たち。
そのグループに、声をかけられた。特別美少女でもなんでもない私は、ナンパに慣れておらず、どうやって断ればいいのかわからずに困惑していた。
おろおろと、「困ります。ごめんなさい」を繰り返すだけの私を助けてくれたのが、武史だった。
しつこい連中を追っ払ってくれて、「変なのに引っかかるんじゃないよ」と笑った顔に、きゅんとしたのだ。
お礼をしたい、とやや強引に、一緒に学園祭を回って、それから連絡先を交換した。何度かデートに行って、「これって付き合ってるってことでいいんだよね? 恵?」と言われ、頷いた。
恋人ができたのは初めてだった。何もかも、ドラマや漫画とはちがうのだと思った。「好き」と告白をしなくても、恋人関係になることができる、ということを初めて知った。
「今日はどこへ行きますか? お姫様?」
「うーん……海!」
「了解」
夏といえば海。安直だが、デートなど、そのくらいベタでちょうどいい。海が夕日で染まるのが、見たい気分だった。
ユキ……雪子に武史を紹介したのは、偶然だった。学校帰りにゲームセンターで遊んだ後、その後どうするかを話していたら、声をかけられた。
「メグ? やだ。久しぶり!」
幼稚園からの付き合いで、一番の仲良し。それは今でも変わらないけれど、さすがに別々の高校に通うようになってからは、直接会って話すことは少なくなっていた。
テンションの高い雪子の声に、私も武史を放って、抱きつくばかりの勢いで雪子に迫った。
「ユキってば制服めっちゃ似合うじゃん! かっわいい~! いいなぁ……」
「でもセーラー服は、今しか着らんないでしょ?」
そのままきゃっきゃとガールズトークを展開しそうになったところで、武史に制止された。
「俺のこと忘れてるだろ、恵」
「あっ。ごめんね武史」
紹介してよ、と視線で言われた。そのとき私は、彼のことを信頼していた。誰よりも誠実な、自慢の恋人。
「こちら、風間武史さん。慶應大学の三年生で、私の彼氏でぇす」
彼の腕を取って、ぎゅ、と胸を押しつける。武史は、「馬鹿。大学名とかどうでもいいだろ」と、私のおでこを軽く小突く素振りを見せた。照れ隠しに違いない。
「どうも。初めまして」
それから武史は、スマートに挨拶をした。雪子も、「江川雪子です。メグとは幼稚園から中学校までずっと同じで……」と、無難な挨拶をこなしていた。
たった、一度きりだった。雪子はこれから塾の授業があるから、とすぐに私たちから離れていったし、武史も雪子のことなど一瞬のうちに忘れたように、その後話題にすら上らなかった。
……なのに、どうして。
今日まで、二学期の中間テストがだったそのせいで、しばらく武史と会えなかった。それでもスマホでのやり取りはしていて、不審な点は、今見直しても見当たらない。
二週間ぶりのデートで入ったコーヒーショップで、私はすでに返ってきたテストの点数を思い出して、溜息をついた。
「どうした?」
「ん~……英語の点数が悪くて……そうだ、武史、教えてよ! 慶應生なんだもん、英語、得意だよね?」
店中に響き渡る、とまではいかないが、周囲の席に座っている人には聞こえるくらいの声で、私はわざと「慶應生」と武史の価値を知らしめるようなことを口にした。
案の定、隣の席の女子高生二人組は、「慶應だって」という目で、こちらをちらちらと窺ってくる。気分がよくなって、抹茶ラテに口をつけた。
当然私は、この時点で、「いいよ」という返事を確信していた。武史は今まで、私のお願いに苦笑しながらも、最後には受け入れてくれていた。
でも、カップをソーサーに置いて見上げた武史の表情は、なんだか渋いものだった。
「……武史?」
見たことがない顔の武史を不思議に思って、名前を呼んだ。
「恵、さ。いつも、そうだよな」
武史の言う「そう」の中身の予想が、まるでつかなかった。ただ、彼が私の何かに不満があるということだけは、さすがにわかる。
「え、なに……」
「慶應慶應って言うけどさ。俺の学部ちゃんと、知ってる? 一度教えてるはずだけど」
「は? え? なに、今それ関係あんの……」
そーごーせーさくがくぶ、と改めて教えられた彼の所属は、いまいちピンと来なかった。それがなに。慶應は慶應でしょう。
「SFCってわかる? 湘南藤沢キャンパス。法学部とか経済学部とかと違うの。しかも俺、AO入試だから、まともな学力試験だったら受かってないレベルだし。指定校よりはマシだけど」
SFCに、AO。指定校。もちろん学校で進路指導があるから、単語の意味はわかる。でも、武史が何を言いたいのかわからない。
「……武史は頭がよくないの?」
武史は溜息をついた。
「だから、そういうところだよ」
はっきり言ってくれなくちゃわからないよ、とごねた。隣の女子が、こちらに聞き耳を立てている。
「恵は俺のこと、『自慢できる彼氏』だと思ってるだろ」
「そうだよ」
それの何がいけないの。「武史は私だけの、素敵な彼氏です!」と叫びたいくらいのできた彼氏なのだ。
「つまり恵は、大声で宣伝できる彼氏であれば、誰でもいいってことだろ?」
「ち……」
否定しかけた私を、武史は遮った。今までの鬱憤をすべて晴らすように。彼は私の方を見ない。
「頭がいい。顔がいい。優しい。大学が有名。俺のことを好きな理由はなんでもいいけど、別に、言う必要ないだろ。大学名に関しては、あんまり連呼してほしくないし」
「なんで」
「さっきの話、聞いてもわかんないのか?」
呆れかえった、という調子の武史の声に、私は膝の上に置いた手を握った。微かに震えている。
「……雪子ちゃんは、すぐにわかってくれたよ」
顔を上げた。どうして今ここで、雪子の名前が出てくるのだろう。たった一度切り、一言、言葉を合わせただけのはずだ。一気にパニック状態になる。
隣の女子高生は、修羅場の臭いを嗅ぎつけたのか、興味津々の目を隠すことなく、こちらを窺っている。
「は……ユキ……?」
「レポートに必要な本を買いに本屋に行ったら、たまたま声をかけられたんだよ」
私はファッション誌くらいしか読まないので、コンビニで事足りる。本屋は雪子のテリトリーで、私は近づかない。そんなところで二人が出会うなんて、思いもしなかった。
「塾が始まるまで暇だっていうから、二人でお茶しただけ。雪子ちゃん、慶應志望なんだってさ。で、学部聞かれたんだけどさ」
言い淀んでいた武史の心中を察してか、雪子はそれ以上、大学の話はしなかった。
「ただひたすら、恵との思い出話ばっかりしてたよ。いい子だな、あの子。それに、頭もいい」
お前と違って、と暗に言われたのだと、すぐに気づく。頭にカッと血が昇って、私はテーブルに勢いよく手をついて、立ち上がった。カタカタとソーサーとカップが音を立てた。まだ残っていた中身が揺れて、溢れそうになる。
「なにそれ。ユキに乗り換えるってこと? それとも二股? 浮気?」
「恵。そうじゃない」
「だって武史、ユキの方が気に入ってるじゃない! どうせ私は、馬鹿だもん!」
「恵!」
制止の声を聞かずに、私は店を飛び出した。追ってくるだろうか、とちらりと思ったが、そんな気配はまるでない。
やっぱり、雪子に心変わりしたんだ。雪子も雪子だ。きっと、自分が行きたい大学に通っている武史に憧れて、色目を使ったに違いない。
暗い気持ちのまま、スマートフォンを手にしていた。雪子を呼び出すと、今日は塾の授業がないから会えるよ、と返信がきた。どこで会うの、という彼女の問いに答えずに、「今から家に行くから」とだけ送った。
玄関のチャイムを鳴らした。カレーのいい匂いがしていた。幸せの象徴のように感じて、腹が立った。それを作ったおばさんには、罪はないのに。
「メグ? 急だったからびっくりしちゃった」
笑顔で出てきた雪子の頬を、私は思い切り、ひっぱたいた。よろめいて、彼女は頬を押さえたまま蹲る。何がなんだかわからない、と涙を溜めた目で私を見上げた。泣いて謝ったって、許さない。仁王立ちのまま、雪子を見下ろした。
「ねぇ、楽しい? 親友の彼氏に色目使って、楽しい?」
「え? メグ? 何言ってんの……?」
「武史のことよ! 二人で会ってんでしょ?」
雪子は困惑の表情を浮かべて、「一回、お茶しただけだよ? 私がメグの話したら、武史さん楽しそうに聞いてただけで」と言い訳をする。
「武史さんって呼ばないでよ! 私の武史なんだから! もういい! ユキのことも、武史のことも、どうでもいい! 知らない!」
「待って! 待ってよ、メグ! メグってば!」
それからずっと、手が痛い。じんじんと痺れているのに、掌も心も、麻痺せずに、痛いままなのだ。
走り去った私のことを、雪子はずっと呼んでいたけれど、やっぱり追いかけてはこなかった。
結局私は、誰にも気にかけてもらえない。そういう存在なのだ。
階下から母の呼ぶ声がする。
「恵ー! ご飯できたわよー!」
この精神状態で、いつも通りに食べられる人間が、いるだろうか。いらない、と返事をしようとしたのに、私の腹の虫が大声で鳴いた。部屋には一人しかいないのに、恥ずかしさのあまり顔が熱くなるのを感じた。
人間、生理的欲求には勝てないらしい。母は一度しか呼ばなかった。どうせ腹が減ったら降りてくるだろう、という心づもりなのだろう。
制服のまま寝転んでしまったから、まずは部屋着に着替える。中学のときのジャージが定番だったけれど、武史と付き合うようになってから、安くて可愛いワンピースやルームウェアを着るようになった。家に武史を呼んだことはないけれど、いつでも見せられるように、と。
親には彼氏がいることを話したことはないが、少なくとも母親は、私の些細な変化に気づいて、察しているだろう。
一階に下りて、母と顔を合わせた。父親は、今日も仕事で遅いらしい。いつもならあれこれうるさく言ってくる母親だが、今日は違った。
目元や頬は赤いだろうから、娘が泣いていたことはわかっているだろう。けれど、何も言わなかった。黙って皿を出す。雪子の家と同じくカレーで、げんなりした。背に腹は代えられないから、仕方なく食べる。
大きく切ったじゃがいもやにんじんを、頬張る。雪子のことを力いっぱい殴ってしまったから、もしかしたら、口の中が切れていたかもしれない。カレーが沁みて、痛いに違いない。
ざまあみろ、とは思わなかった。私の手の痛みはすでに引いていたからだ。雪子はしばらく、口内炎の痛みに悩まされるだろう。そう思うと、少しかわいそうだ。
食事を終えると、またすぐに自室に籠った。母がちらりとこちらを見たような気がしたが、放っておいてくれるらしい。
今度はバリケードを作ることなく、ベッドに寝転んだ。スマートフォンを手にして、武史とのやり取りを見返す。新しいメッセージは来ていなかった。
この中には、二人の思い出が詰まっている。何を書けばいいか悩んだ、初めてのメッセージ。初めてデートで行ったときの写真も。初めてのキスの後の照れくさいやりとりも、全部。
好きだなぁ、と改めて思う。好きだったなぁ。こんなにも武史のことを愛しいと思うのに、もう彼は私のことなど、嫌いになってしまった。ぐす、と鼻を鳴らした。
それからふと思い立って、幼い頃からずっと撮りためているフォトアルバムを、本棚から取り出した。
いつも雪子と一緒だった。遠足のときのお弁当は、クラスが違っても二人で約束して食べていた。雪子の初恋の人も知っているし、勿論私の初恋の人を雪子も知っている。中学の卒業式では、周りが呆れるくらい、二人でわんわん泣いた。
大好きな友達だった。離れてからも親友だよね、と言葉には出さなくても、思っていた。冷静になってみれば、何も殴ることはなかったのではないか、とも思う。
でも、私には止められなかった。大好きな二人が、険悪になるよりは良好な関係であった方がいいに決まっている。だが、それは私を介した関係になっているときだけだ。私が仲間はずれになるのは、どうしても許せなかった。
本当は、わかっていたのだ。魅力的な武史が、同じく魅力溢れる雪子に惹かれるのは、当たり前だということを。
雪子は可愛くて、頭もいい。中学時代は何度も告白されていた。一度付き合ってみなければ相手のことはわからない、という持論の彼女は、よほど生理的に嫌じゃなければ、頷いた。
そしてすぐに別れてしまっていた。男をもてあそぶ悪女、と陰口を叩かれて落ち込んでいたこともある。
『顔が好きなら好きでいいけど、見せびらかすために付き合うのは、ちょっとね』
美少女には美少女の悩みがあるらしい。その悩みについて、私は共感することはできなかったけれど、共有することはできた。
そんな男と長く付き合ったら時間の無駄だよ。ユキのことちゃんと見ないなんて、むかつく。
そう言って、何度となく雪子のことを慰めた。誰にでも分け隔てなく優しいようで、「内緒ね」と、私を親友として特別扱いしてくれた雪子は、きっと彼氏にも、特別な姿を見せただろう。そういうところを評価せず、顔ばかり褒めていて、何が彼氏だ……。
……そうか。そういうことだったんだ。
ようやくわかった。がばりと起き上がって、頬をぱしん、と叩く。これは自分自身に対する罰だ。
『俺のことを好きな理由はなんでもいいけど、別に、言う必要ないだろ』
私は武史に対して、当時の雪子の彼氏たちと同じことをしていた。大学生の彼氏がいることは、ステータスだった。大学の名前ばかりに囚われて、彼が本当は言い回られるのを迷惑に思っていたのに、気がつかなかった。
自分に都合のいい情報を利用して、彼の心に気がつかなかった。雪子は二度目に武史に会ったときに、すぐに察したというのに、これでは彼女失格だ。
また涙が出てきた。でも理由は、さっきとは違う。恨んだり、悔しさのあまりに溢れるのではない。自分が情けないせいだ。
私が馬鹿なせいで、二人を傷つけてしまった。もう修復など不可能で、ただこうしてぽろぽろと泣く以外にできることが、思いつかない。
しばらくそうしていると、控えめなノックの音がして、慌てて目を擦った。
「恵? もう寝ちゃった?」
いつもなら、階下から大きな声を張り上げる母親が、部屋の前までやってきた。起きてるよ、と平静を装って、返事をする。
「梨。買ってきたんだけど。食べるなら、下りてきなさい」
扉を開けることなく、母が階段を下りていく足音が聞こえた。
「……」
すっくと立ちあがって、私はしずしずと階段を下りた。カレーの痕跡はもうどこにも残っていなくて、テーブルには梨が入ったビニール袋が置いてあった。
今、スーパーまで行って買ってきたのだろうか。冷蔵庫に入っていたわけじゃない。触れても冷たくなかった。
「あんた梨、好きだもんね」
「……うん」
もしかして、私を慰めるために?
母は慣れた手つきで、梨の皮を剥いている。私は席について、袋の中から梨をひとつ取り出した。
「おっきい」
今まで食べてきた物よりも、大振りの果実に驚く。きっとすごく高かったのだろう、
黄色と茶色の中間の色をした、大きくて丸い果実は、まるで満月みたいだ。ぼんやりと眺める。
グレープフルーツのようにくっきりとした黄色ならば、太陽のような果物だと思うだろうけれど、梨の色合いはどこか優しく、曖昧だ。触れるとりんごと違ってざらざらとしていて、そんなところも月みたいだと思う。
「ほら」
みずみずしく濡れた果実が、山盛りになって、皿に盛りつけられている。
母は自らひとつ取って、頬張った。
「美味しいよ。これが今年最後かもしれないからね。残りはまた明日、剥いたげる」
「……うん」
しゃくり、と音を立てて梨を、母の想いを噛みしめた。水っぽい甘さが広がる。食感も味も、やっぱりどこか、優しい。
「お母さん」
「ん~?」
母は趣味の裁縫を始めており、生返事をした。あれ、そういえば母はいつから、針仕事のときに眼鏡をかけるようになったんだろう。
「……ありがとう」
呟くと、母は手を止めて、ゆっくりと顔を上げて、私を見つめた。何を言っているんだろうね、この子は。そういう表情を浮かべた。
私はもうひとつ、梨を手に取って、頬張った。果汁の甘さは、母の愛なのだと知った。生クリームやチョコレートのように主張しすぎることのない、控えめな味。私が反発しないように、干渉しすぎずに見守ってくれる、月の優しさだ。
テーブルの上に置かれた小型の月は、ナイフで切り分けられて、最終的には私のお腹の中に納まってしまう。空の月が満月から新月へと変わっていくのと、同じで、なくなってしまう。
「ごちそうさま」
食べ終わったときには、怒りは静まり、穏やかな気持ちになっていた。皿を片付けようとした母を制して、私は自分で皿を洗う。
流れる水で手を冷やしながら、まずは謝ろう、と決めた。許してくれるかどうかはわからないけれど、きちんと自分から話をしようと決めた。
武史との関係は終わってしまうかもしれないけれど、もやもやを残さずに、しっかりと終わらせるのがお互いのためだ。雪子とは、仲直りをしたい。
部屋に戻ってスマートフォンを手に、深呼吸をした。それから震える指を叱咤して、まずは雪子に、電話をかけた。
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