モザイクタイルの指先

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手 短編小説

 へっくち、と亜里沙ありさはくしゃみをした。思わず赤面して、両手で口から鼻までを隠した。手袋の毛糸がチクチクする。

 ミトン型の手袋は、中学二年生にしては幼いデザインだ。じっと掌を見つめていると、次第に子供でしかない自分に腹が立ってくる。

 しゃがみこんで、部屋の主を待っていた亜里沙は、隣室の鍵が音を立てたのを聞いて、慌てて立ち上がった。

 まさか、セーラー服姿の少女がいるとは思わなかったに違いない。眠そうな目をした女性は、亜里沙を視界に入れて、ぎょっと目を剥いた。

 それからじろじろと頭のてっぺんから爪先まで観察され、亜里沙は居心地悪く、引きつった笑みを浮かべて一礼した。

 出勤時間が迫っていたのか、彼女はヒールの音を規則的なリズムで刻みながら、外階段を下りていった。

 大人というのは機械的なものなのだな、と漠然と思う。

 再びしゃがみこむと、ピンクの手袋で口元を隠しながら、小さく歌を口ずさんだ。寒さを紛らわせるためだ。

 コートを着ても、マフラーをしても、寒いものは寒い。冬はこの時間になっても夜が明けきらず、コンクリートから冷気が伝わってくる。

「まだかなあ……」

 部屋の主はいわゆる、「夜の仕事」に従事している。亜里沙の両親は、それを快く思っておらず、彼女は血縁者なのに、一家とは疎遠だ。

 まあ、理由は他にもあるに違いない。彼女は中学から家を出て、寮暮らしをしていたのだから。

 丸くなった亜里沙の耳に、自分の鼻歌以外の音が聞こえた。揺らめくリズムは、あっちへふらふらこっちへふらふらと、興味の赴くままに動く子供の足取りのようだ。

 なんとなく、イメージが違う。亜里沙の知る彼女は、あまり出しゃばらない穏やかな人だ。決して愉快な人ではない。

 亜里沙は立ち上がり、彼女を迎えた。

「おじいちゃんのお葬式以来だね、叔母さん」

 あのね、家出してきちゃった。

 照れを含ませて笑うと、叔母の沙也加さやかは目を瞬かせた。そしてすぐに、「おばさんはやめて」と、怖い顔を作ったのだった。

 とにかく入って暖まりなさい、と悲鳴じみた声でせかされて、亜里沙は叔母の部屋に迎え入れられた。

 暖房はすぐには利かないので、コートは着たまま、ダイニングの椅子に座った。すぐさま沙也加は電子レンジで牛乳を温めて、亜里沙の前に出す。

「牛乳嫌い」

 家で好き嫌いを言おうものなら、祖母の説教が待っている。

 亜里沙、お前は一応、この東野ひがしの家の長女なんだから、我儘を言うのはみっともないよ……。

 その割に、祖母は弟のことは溺愛し、甘やかしている。まだ小学一年生の弟は、亜里沙にとっても可愛い。しかし、彼のいたずらもすべて、姉の自分がしっかり見ていなかったせいだ、と責任を押しつけられるのは、嫌な気持ちになる。

 だいたい、亜里沙が長女だというのなら、弟は長男だ。いずれ東野家の会社や財産を継ぐのは弟なのに、どうして自分ばかり厳しくされなければならないのだろう……。

 指先を温めるだけの道具に成り果てていたマグカップが、取り上げられた。沙也加の顔を見上げると、「砂糖は入れる?」と、別のカップが目の前に置かれる。

 香ばしいコーヒーの匂いを胸いっぱいに吸って、亜里沙は首を横に振った。

「ブラックで飲めるなんて、大人だね。私は、こうしないと」

 沙也加は亜里沙から取り上げたホットミルクの中に、インスタントコーヒーをひとさじだけ入れた。さらに砂糖も追加してから口をつける。

「あ~。朝イチで飲むコーヒーは、美味しいね」

 しみじみと言うその姿は、まだ三十前だというのに、無性に年寄りじみていた。いや、祖母ですらこんな風に唸り声を上げないだろう。

「コーヒーっていうか、ほとんど牛乳だよ、それ。さやちゃんは子供だね」

「一グラムでもコーヒーが入ってれば、コーヒーだよ。知らないの?」

 今度は子供じみた言い方で主張する沙也加に、亜里沙はけらけらと笑った。いつの間にか部屋は温まっていて、寒さに縮んでいた筋肉も心も、ほぐれていた。

 その後、シャワーを浴びてメイクをすべて落とした沙也加は、様変わりした状態でリビングへと戻ってきた。

 あまりの別人ぶりに、亜里沙はコーヒーを飲むのを忘れて、凝視してしまう。

「なによぉ」

 麻婆豆腐でも食べたかのようにテカテカと光り、腫れぼったくなっていた唇は、すっかり自然な薄さに戻っている。夜の蝶の名残があるのは、長くくるりと上向いた睫毛だけだ。そこだけ取れないということは、マスカラではないのだろう。

 すっぴんになった沙也加は、年齢不詳の童顔だ。二十八歳という実年齢よりも下にも見えるし、もっと上だと言われても、納得してしまう。

「化粧ってすごいんだなあ、と思って」

 他意はなく、亜里沙がただ感心しているのは、口ぶりから理解したのだろう。沙也加はにやにや笑った。

「してみる? 亜里沙、化粧映えすると思うんだけどな」

 亜里沙は首を横に振る。

「やらない」

 描くのは自分の顔じゃなくて、真っ白なスケッチブックがいい。どんな奇抜な色の組み合わせでも、キャンバスならば載せることができるが、顔には限度というものがある。

 沙也加は無理に進めなかった。

「自然にやりたくなるときが来るかもしれないし。ま、来ないかもしれないんだけどね」

 眠そうに欠伸をすると、「それで? これから学校行くの? 制服着てるけどさ」と尋ねてくる。

「行こうと思ったんだけど、行きたくなくなっちゃった」

 両親が聞けば、激怒するだろう。けれど、沙也加は興味なさそうに、「じゃあ好きにしてていいよ。私は仮眠取るから」と、ベッドに潜り込む。

「うん。ありがとう」

 とろりとした目で沙也加は亜里沙を見つめ、

「二時間したら起こしてね」

 と言った。

 沙也加は水商売だけでなく、昼間も仕事をしていることを、亜里沙は知らなかった。

 二時間後に目を覚ました沙也加は、帰ってきたときとは違うメイクを施し、ジャケットとパンツを身に着けた。

 どこへ行くのか、と問いかけた亜里沙の声は、不安を滲ませていたのかもしれない。沙也加はぐしゃぐしゃと亜里沙の髪の毛を乱して、「仕事よ」と笑った。

 フレックス制のシステムエンジニア、という中学生には見当もつかない職業を述べて、沙也加は黒いパンプスに足を入れる。

「今日は夜の仕事ないから、十時前には帰ってこれると思う」

「はい」

 デッサンでもしていれば、時間はあっという間に過ぎていく。教科書を忘れても、鞄の中にスケッチブックだけは忘れない。

 新しいページを開けて、4Bの鉛筆を手にした亜里沙は、視線を感じて玄関に目を向けた。

「さやちゃん、遅刻しちゃうよ?」

 沙也加は、はっとして「行ってきます!」と言った。だが、一度振り返って、早口に「明日の昼も休むから、学校行く気にならなかったら、いっぱいおしゃべりしようね!」と亜里沙に告げ、慌ただしく出て行った。

 彼女の言うおしゃべりは、本当に「おしゃべり」の意味でしかない。

 学校に行きたくない理由や、家出をしてきた理由を、沙也加は自分から、問い詰めようとはしないだろう。

 亜里沙はほっとすると同時に、少しだけ寂しいと感じた。

 翌日、沙也加は一応、「学校行く?」と尋ねてきたが、その時点で遅刻は確定の時間だった。

 亜里沙が首を横に振ると、「じゃあ今日は、一緒に出かけよう」と楽しそうに、ホットミルクを口にした。

 準備をしているときに、沙也加はメイク道具一式を亜里沙に見せた。すでに沙也加自身は化粧を済ませていたので、意図がさっぱりわからず、首を傾げた。

 沙也加はピンクラメで彩られた唇を笑み曲げて、チューブとコンパクトを手にして、じりじりと亜里沙との距離を詰める。

「昨日、しないって言ったよね?」

 自然にしたくなるときが来るかもね、と言ったのと同じ口で、沙也加は化粧することを猛烈にプッシュしてくる。

「昨日と今日とでは、話が別。中学生がど平日の真昼間に出歩いてたら、補導されちゃうし、最悪、私が警察に捕まる。みせいねんしゃりゃくしゅ? のうたがいとかで?」

 沙也加も法律には明るくないので、テレビのニュースで聞きかじった罪状をあげて、「TPOに合わせるのも、大人になるっていうことなのよ」と、亜里沙に迫る。

 警察沙汰になるのは亜里沙も嫌だったので、しぶしぶ、

「あんまり濃いのは嫌だからね」

 と諦めたのだった。

 しばらくおとなしく、亜里沙はされるがままになっていた。化粧水などで肌を整えたり、日焼け止めを塗ることはあるが、フルメイクとなると、初めての経験だ。

「っ」

「あっ。ごめんね。手荒れ、ひどくて……」

 チューブから出したクリームを塗っていた沙也加の指先が、頬に引っかかった。ちくりとした一瞬の痛みに、亜里沙は声を押し殺すが、身体が強張るのは隠せなかった。

 荒れ果てた手を恥ずかしいと思っているのか、沙也加は早口だった。

「たまに、昔のバイト先で皿洗いしてるからさ。なかなか治らなくって」

「さやちゃんは」

 目を閉じてアイシャドウを施される。亜里沙の呼びかけに、沙也加は手を止めた。

「なんでそんなに、仕事ばっかりしてるの?」

 母の指先は、丁寧にケアされている。ささくれひとつない。爪も定期的にネイルサロンに通っていて、水仕事は絶対にしない。

 母の仕事は、自分を美しく着飾って、父の隣で微笑んでいることなのだ。家事は家政婦に丸投げしている。祖母の指もまた、同様である。

 そんな母と姉妹のはずなのに、沙也加の手は全然違う。自分の力で金を稼ぎ、身の回りのこともすべて行う。荒れ果てた手だ。

 亜里沙の手は子供らしく、白く柔らかい。どちらの手になるのかは、今のところわからない。

「さやちゃんだけ、どうしてそんなに苦労するの?」

 沙也加は答えなかった。唇に刷毛のあたる感触がして、亜里沙は口を噤んだ。

「できた」

 沙也加の声に、どんな顔にされたのかと、亜里沙は恐る恐る鏡を覗く。そして拍子抜けした。

「あんまり変わってなくない?」

「変えてもいいけど、怒るでしょ」

「間違いないね」

 納得した亜里沙に、沙也加は声を上げて笑った。口を大きく開けた笑顔は、母や祖母と似ているはずなのに、違ってみえる。

 強いて似た相手をあげるのならば。

「ね、ね。メイク、あたしのと寄せてみたんだけど、どうかな?」

 鏡の中、はしゃいだ沙也加の顔と、戸惑う亜里沙の顔が並ぶ。化粧の結果だけとは思えないほど、よく似通っている。

 亜里沙は言葉を選び、沙也加に返した。

「そうだね。叔母と姪ってよりは、姉妹に見えるかも」

 途端にくしゃりと、沙也加の顔が歪んだ。失敗したスケッチをぐちゃぐちゃにしたような、一瞬のうちに潰れた表情。だが、すぐに気を取り直して、彼女は「さ、そろそろ出かけよっか」と、亜里沙を急かした。

「ここ来るのに、こんな化粧する必要あったの?」

 亜里沙はてっきり、ショッピングにでも連れ出されるのだと思っていた。流行に敏感な沙也加は、地味な姪をきれいに着飾りたいのではないか。そのための化粧ではないのかと、勘繰っていたのだ。

 だが、沙也加が電車を乗り継いで連れてきたのは、郊外の動物園だった。スケッチブックを忘れるな、と言われたのは、こういうことか。

「んー? 嫌だった?」

 大きく伸びをして、亜里沙以上に……いや、平日の午前中から動物園にやってきた誰よりも、沙也加はワクワクしている様子だった。

「あたし、ずっと亜里沙とこういうところ、来たかったんだよね」

 そうしみじみと呟かれては、亜里沙は嫌だとは言えない。そもそも、動物園に来るのが嫌なわけではない。

「もっと小さい頃に、連れてきてくれたらよかったのに」

 亜里沙が初めて動物園に足を踏み入れたのは、小学校の遠足だった。クラスメイトは皆、家族で来園したことがあった。

 大人ぶりたい男子など、「動物園なんてもう飽きた」と斜に構えたことを言って、先生を困らせていた。

 亜里沙が家族で出かけたことがある場所といえば、一流ホテルでの食事会や海外でのバカンスばかり。

 羨ましい、と友人たちからは言われるけれど、亜里沙はむしろ、動物園や遊園地など、親子連れが当たり前のように出かける場所に行きたかった。

 中学生になった今は、もう諦めてしまっているし、子供っぽい願いなんて口にできないけれど。

「……連れてきてあげたかったのは、やまやまなんだけどね」

 先程とは一転、低く暗い調子でそうこぼした沙也加を、亜里沙はまじまじと見つめた。

 彼女が帰省する度、幼い亜里沙は「さやちゃん、さやちゃん」と懐いた。だが、沙也加はなかなか応えてくれなかった。

 一緒におえかきしよう、と誘っても、やんわりと首を横に振り、亜里沙がクレヨンを動かすのを傍らで観察するだけだった。

 それすら様子を見に来た母や祖母に邪魔されてしまうのだけれど。

 そんな彼女が、昔から亜里沙を動物園に連れてきたかったなんて、にわかには信じがたい。

 視線に気がついたのか、沙也加はぱっと笑顔を浮かべる。

「亜里沙は何描きたい?」

 空元気ということはすぐにわかったが、亜里沙にはどうすることもできない。

「ゾウかな」

 パンフレットもない小さな動物園の中で、一番大きな動物が、ゾウだ。入口近くのこの場所からでも、よく見える。

 沙也加は曇った表情を一切見せず、亜里沙の手を引いて、駆け出した。

 翌日、沙也加は昼の仕事に行った。一度帰宅して、すぐに支度をして夜の仕事に向かうという。

 留守番をしている最中、亜里沙はじっと二冊のスケッチブックを見比べた。ひとつは自分の使い込んだもの。もう一冊は、まだページがたくさん残っている沙也加のもの。

 ほう、と亜里沙は沙也加の描いた絵を見て、溜息をつく。

 サル山のニホンザルが、寒さに固まっておしくらまんじゅう状態になっている。ゾウは優しい眼差しを下々の人間たちに向けている、動物園の王様だ。ふれあい広場のウサギを、おっかなびっくり抱き上げた子供たちが、命の温かさと柔らかさに、笑顔になったその一瞬。

 少なくとも、美術部で真剣に絵と向き合っている自分と同じだけの技量だ。それを身に着けるべく、努力していた人なのだろうが、彼女が絵の勉強をしていたことを、亜里沙は誰からも聞いたことがない。

 これをさらさらと、苦心することもなくスケッチしていた沙也加は、亜里沙の絵を見て、「上手じゃない!」と褒めてくれた。気分がよかったので、気取った口調で、

『中学では美術部だもん』

 と言った。

『……亜里沙は、どうして絵を描くのが好きになったの?』

 他愛もない世間話は、あまり交流のなかった姪との距離を少しでも縮めようとする、叔母の努力だ。それに亜里沙も、応える。

『小学校の卒業制作でね……』

 クラス全員で、卵の殻でモザイクアートを作った。色付けした殻を砕き、下絵に沿って貼りつけていく。そのときから絵は上手かった亜里沙が下絵を任された。

 少しずつ出来上がっていくその過程に、亜里沙は胸が躍った。完成した作品そのもの以上に、何かを自分の手で作り上げるということに、深い感動を覚えたのだ。

『もっと、たくさんいろんなものをこの手で作りたいと思って、だから美術部に入部したの』

 亜里沙の言葉に、沙也加は息を吐き出すように、そっと言葉を口にする。

『……お母さんたち、反対しなかった?』

 亜里沙は手を止めて、顔を上げた。

『した。した、けど……』

 どうしてさやちゃんが、そのことを知っているの。

 運動部なら、「東野家の娘が怪我をしたりアザを作ったりしたら、みっともない」と反対されるのもわかる。だが、美術部だ。家の中にも絵画や彫刻が飾られているような家庭環境なのに、反対される理由がわからない。

 吹奏楽部や茶道部を母と祖母はしきりに勧めたが、最終的には頑固な亜里沙の態度に折れ、入部届に保護者のサインを渋々書いてくれた。

「……そういうこと、なのかなあ」

 亜里沙の独り言は、誰もいない室内で、宙に浮かんだままだ。

 年が離れた母と叔母。寮生活をしていた叔母は、なかなか帰省しなかった。亜里沙が彼女と遊ぶのに、嫌な顔をする母と祖母。

 美術部入部を反対され、家で制作していると苦い顔をされる。それから、今回の家出のきっかけ。

 何よりも、沙也加の言動や表情。

 亜里沙は鞄の中から、普段つかっている鏡を覗き込んだ。沙也加とよく似た顔は、母よりも年が近い分、当たり前だと思っていた、けれど。

 亜里沙は時計を見る。沙也加が一時帰宅する予定の時間まで、まだあと三時間ほどあった。

 メイクを別物に変えて、派手なドレスに着替え、沙也加は出勤する。その後ろ姿に向かって、亜里沙は「帰ってきたら相談がある」と声をかけた。

 振り向いた沙也加と目を合わせない亜里沙の様子に、思うところがあったのだろう。沙也加は、「あんまり飲みすぎないようにしなきゃね」と言って、出て行った。

 亜里沙はほとんど眠れない夜を過ごした。どこから切り出したらいいんだろう。どうしたら、沙也加は味方になってくれるのか。そんなことを考えていたら、いつの間にか外は明るくなっていた。

 そろそろ沙也加が帰ってくる。亜里沙は制服に身を包み、ポットのお湯を沸かした。続いて小鍋に牛乳を入れ、じわじわと温める。

 コーヒーとホットミルクができたところで、タイミングよく沙也加が帰ってきた。

「ただいま」

「お帰り」

 やってきたときと同じ、セーラー服を着た亜里沙をじっと見つめ、沙也加は向かい合って座る。

「相談って?」

「ん」

 コーヒーを一口含み、カップを置く。

「あのね、私が家出した理由なんだけど」

 家出前日、亜里沙は母・祖母と大喧嘩した。

 中高一貫校とはいえ、外部のもっと上の高校に進学する生徒もいる。進路調査票には、内部進学希望か、外部進学希望かを書かなければいけなかった。

 亜里沙が外部進学希望に丸をつけた用紙を出すと、親の顔色が変わった。

『美大に進学したいから、高校も美術・デザイン学科があるところに行きたい』

 自宅から通える高校は、顧問と一緒に探した。パンフレットを二冊取り出して、親に渡す。両親が心配するから、女子校の方を受験したいと相談するつもりだった。

 冷静に親を説得しようと思っていた亜里沙だったが、母と祖母は違った。テーブルに置いたパンフレットはいきなりびりびりに破られ、ヒステリックに反対された。それが理論的なものだったなら、亜里沙が「大学からでいい」と譲歩することもできた。

 しかし、母は蔑んだ。

『美大なんて、人間のクズが行くようなところよ!』

 その一言が、亜里沙には許せなかった。顧問の美術教師のことを、亜里沙は尊敬していた。すぐさま部屋に閉じこもり、翌朝早くに、家出を決行したのだ。

「お母さんやおばあちゃんが反対しても、私は絶対に、美大に行ってもっともっと絵の勉強がしたい。この気持ちは、間違ってる?」

 間違ってないよ、と言ってくれるのを期待していた。けれど、黙って話を聞いていた沙也加は、亜里沙が欲しかった言葉をくれない。

「間違ってるかどうかはわからないけれど、亜里沙はまだ中学生だから、勝手なことはできないよ」

 淡々と告げる沙也加に、悔しさが込み上げてくる。

「なんで」

「お金を出してくれるのは、全部親だから。親が納得しない道には、進めないんだよ」

「なんでさやちゃんが、そんなこと言うの!? 私の……私の!」

 本当の、お母さんなんでしょう?

 振り絞った言葉に、沙也加は目を丸くした。皿のようになったそのまなこからは、涙がじわり滲みだし、はらりと落ちていく。

「気づいて、たの?」

「お父さんと血が繋がってないことは、前から」

 亜里沙の容姿には、父の要素がひとつもなかった。母の子ですらないとは思わなかったがが、沙也加の子だとすれば、弟との扱いの差が激しかったのも、わかる。

 亜里沙は十四歳。そして沙也加は、二十八歳。

 沙也加が語ったことは、およそ亜里沙の推測どおりだった。

 彼女が亜里沙を身籠ったのは、中学二年生。くしくも、今の亜里沙と同じ年のときだった。

「当時は私も美術部だった。その年に赴任してきた先生は、大学を卒業したての若い男の先生で……恋をしたわ」

 沙也加も若かったが、相手の教師も若い男だった。先生という呼称に酔いしれていたが、実感は伴っていなかった。

「少女漫画や映画みたい、ってすぐに盛り上がった。馬鹿みたいに」

 何度めかの行為で、沙也加は妊娠した。つわりは軽く、腹もほとんど出なかった。少し太った? と友人に言われる程度だったので、沙也加自身にも、自覚はなかった。

 妊娠が発覚した時点で、産まなければならないところまで来ていた。

「先生は、十六になたら結婚しよう、だから安心して産んでくれって言って、家に謝罪と説得に来たの。中学生の教え子の誘惑に乗るような馬鹿な人だったけど、誠実な人でもあったのよね」

 恋人とのエピソードがいくつか思い浮かんだのか、沙也加は静かに、くすりと笑んで言葉を切った。

「でも、ダメだった。家族全員に罵倒されて、心が折れちゃったのね。結局、あの人は学校を辞めて故郷へ帰り、私たちは別れることになった。だから、お母さん……侑加ゆか姉さんが、美大を嫌悪するのあ、私とあの人のせい」

 沙也加は極秘裏に子供――亜里沙を産んだ後、全寮制の中高一貫校に編入した。亜里沙は当時、子供がいなかった姉夫婦の子として届けられた。

「本当は、もっと一緒にいたかった。でも、どこからバレるかわからないから、ダメだって言われたの」

 涙をティッシュで拭きとると、化粧をしたままだった沙也加の顔は、ピエロのようになった。笑いながら泣く道化師は、亜里沙の胸をぎゅっと締めつける。

「私があなたの、きちんとした親だったとしても、きっと反対はするわ」

 叔母さん、ともさやちゃん、とも彼女のことを呼べなかった。どう呼べばいいのか、わからなかった。

「だって、絵で食べていくことができる人間なんて、一握りだけ。自分の子に、そんな茨道、進んでほしくない」

 きゅ、と亜里沙はスカートを強く握り込んだ。美大に行きたい、美術系学科のある高校に行きたいと思うばかりで、具体的な将来については、あまり考えていなかった。

「でも、それでもやるんだって言われたら……認める。認めるしかないじゃない」

 沙也加は鞄の中から、銀行の通帳を取り出した。亜里沙の名義になっているそれを、開けと目で言ってくるので、亜里沙は手に取った。

「……これ」

 そこには、数百万単位の貯金があった。日付を見ると、亜里沙がまだ二歳の頃から少しずつ積み立てられている。

「昼も夜も働けるのは、いつか亜里沙の力になりたかったから。高校の間は、耐えなさい。耐えて、実力をつけるの。これだけあれば、美大専門予備校にも通えるんじゃない?」

 沙也加は亜里沙の頬に、そっと触れた。荒れた指先は相変わらず引っかかったけれど、亜里沙は身動きを取らず、産みの母の手を受け入れた。

 卵の殻のモザイクは、触れるとざらざらして、卵の角が爪の間に入ると、とても痛かった。それと同じ感触に、亜里沙はじわりと涙が込み上げてくるのを感じた。

「私は、あなたの味方。そして侑加姉さんもね」

 沙也加はスマートフォンの画面を開き、亜里沙に見せた。母からのメッセージに、ぽろりと涙が落ちる。

『あの子が落ち着くまで、私の心が落ち着くまで、よろしくお願いします』

 妹宛とは思えぬ丁寧な言葉遣いは、大切な娘を託すことができる唯一の相手を尊重したからだろう。

「おかあさん……」

 呼んだ母は、目の前の沙也加ではなく、育ての母だった。どうしても、沙也加を母と呼ぶことはできない。

 亜里沙の心情を理解しているのだろう沙也加は、小さく頷いた。声を上げているせいで、口の中にまで入り込んでくる亜里沙の涙には、彼女への愛情と、感謝と、少しの罪悪感が混じっている。

 そんな味がした。

 泣き止んだ亜里沙は、沙也加の家を出ていく。

「また、遊びに来るね」

 帰ってくる場所ではないアパートの部屋を、亜里沙は瞼の裏に焼きつけておくべく、ぐるりと一周見渡した。

「いつでも」

 顔を洗い、着替えた沙也加はすっきりした顔をしているが、目元は腫れている。おそらく自分も、同じような顔をしているのだろう。

「まずは自力で頑張るよ、さやちゃん」

「うん。頑張れ」

 そう言って突き出してきた拳に、亜里沙も軽く握った手を合わせた。

 亜里沙の鞄の中に入っているのは、沙也加のスケッチブックだ。自分が使っていたものは、沙也加にあげた。

 一番最後のページには、沙也加が描いてくれた亜里沙の顔のスケッチがある。亜里沙は逆に、彼女の顔を描いた。

 沙也加が描いた亜里沙は、今の亜里沙じゃない。いきいきとした笑顔を浮かべている大人の女性だ。

 今度は家出じゃなくて、こんな風に笑えるようになって、沙也加のところに行きたい。できれば、母と一緒に。

 強く決意して、亜里沙は掌を朝日に向かってかざした。

 きっとこの手は、絵を描くためにボロボロになっていく。それでも構わない。

 モザイクタイルのような指先も、石膏像のような滑らかな指先も、どちらも美しいのだ。

【終】

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