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道中の食事や買い物は、すべて誠が奢ってくれた。
せめて喫茶店での飲食代くらいは自分の小遣いから出すと申し出たのだが、彼は望美が、将来のためにアルバイトに励んでいることを知っている。
「ここは俺に甘えなさい」
強く言われ、頭をぽんぽんされては、望美には、小さくなって礼を言う以外にできることがなかった。
誠は、車の中以外では仲のよい兄妹間のスキンシップを超えることはしなかった。制服姿の女子高生を連れ回す成人男性という立場の危うさをわきまえている。
こっそり着替えを持ってくるべきだった。セーラー服はとにかく目立って仕方がない。
私服だったら、どんな場所に連れていってもらえただろう。
「望美ちゃん、高校卒業後はどうするつもりなの?」
と問われ、「大学には行きたいです。でも」と、実家の援助は望めないことを詳しく話す。
私立にはとても行けないから、国公立一本。浪人もできない。決まっているのは、そのくらいだ。
「東京に出てくるなら、俺が力になるからね」
そう言ってもらえて、嬉しかった。頷くと、にっこりと微笑まれる。
楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、望美は「そろそろ」と、ホテルに戻らなければならないことを告げた。
夕飯をごちそうしてもらったのはファミレスだが、地元にはない、ちょっと高級なチェーン店である。インターネットで美味しいという情報は知っていたから、オニオングラタンスープを頼んだら、評判通りだったので、大満足だった。
「まだ大丈夫でしょう?」
渋谷駅の傍のパーキングに車を止めていた。望美はそのまま電車で品川駅に戻ろうとしたが、誠が食後の散歩に誘ってきたので、「じゃあ、少しだけ」と付き合うことにする。
日が落ちると寒さが増し、ブランケットをストールのように巻きつけた状態で歩く。特徴的な制服が隠れて、好都合だった。誠も、今や周囲の目を気にせずに望美の肩や腰を抱く。やはり、手慣れている。
好きです。また会いに来ます。頑張って、東京の大学を目指します。
言いたいことはたくさんあったけれど、なかなか言えなかった。誠も無言で、都会の夜に冷たい息を吐くだけだ。
触れられた箇所が熱くて、ぽーっとしてしまう。
だから、気がついたときには遅かった。
「あの、誠さん」
土地勘がない望美であっても、周囲の空気が明らかに変わったのがわかる。若者の集団が消え、スーツ姿で歩く男性の姿も、ハイヒールでひとり歩く女性の姿もなくなった。この辺りに住んでいるのだろう、犬を抱いたマダムの影もない。
歩いているのは、ぴったりと寄り添う男女。女が男にしなだれかかり、男が女の腰を抱き、密着する。
そう、自分たちと同じように。
「ねぇ!」
止まろうとした望美の意志に反して、誠はそのまま進もうとする。まるで、目的地が決まっていると言わんばかりに、強引に。ドライブの行き着く先は「ここ」だなんて、聞いていない。
「誠さん、私、帰ります!」
このまま流されてはいけない。抵抗するが、誠の力は強かった。手首を掴まれ拘束され、望美は顔を顰める。
お兄ちゃんなら、私をこんな風に扱ったりしない。
昼間の甘い空気、初々しいデートの情景は、太陽が沈むと同時に消え去った。優しい兄だった誠は、野蛮な男に成り下がった。経験値の足りない望美は、彼の変貌の予兆を悟ることができなかった。
女性の扱いに手慣れていると思ったときに、もっと警戒すべきだった。お姫様扱い、彼女扱いだと喜んだ自分を殴りたい。
「まだ大丈夫でしょ? 泊まるんじゃなくて、休憩。ホテルまで車で送っていくから、ね?」
怪しげなネオンが光るのは、ラブホテルの看板だ。非常にわかりやすく、いやらしいことをするための場所だと示されている。映画やドラマで見たことのある、未経験の女子高生にとっては、薄汚れた場所。
「望美ちゃん、俺のこと好きだろ? 東京と函館じゃ、滅多に会えないんだから、修学旅行の思い出つくろうよ。な?」
メッセージのやりとりで惹かれていた、今日会えるのを心の底から楽しみにしていた男の顔は、こんな風だっただろうか。たったの数分で、これまでの信頼はすべて崩れていく。
好きでした、と認めるのも癪で、望美は必死に抗う。
「嫌ですっ。だめ……! 私、帰りますっ!」
身を包んでいたブランケットを脱ぎ捨てて、彼の手を拒もうとしたが、失敗した。
もつれてセーラー服があらわになったところで、リボンを捕まえられた。強く引っ張られると、リボンは無事だが、襟元のパーツのスナップがぷちんと弾け飛び、鎖骨が露わになる。
「きゃあ!」
下着すら見えていないこの段階であっても、恥ずかしいものは恥ずかしいし、誠の行っていることは暴力だ。
いかがわしい夜の街で見る彼の目は、妙な光にギラついていた。優しい男はどこかに消えてしまった。メッセージの中だけで完結していればよかった。優しいお兄ちゃんのままで、終わらせておけばよかった。
「望美ちゃん。大丈夫だよ。俺は、君のことが好きだから……」
ね? と、首を傾げているのがおぞましい。
もしかして、彼が優しい態度を取っていたのは、こうすることを最初から狙っていたからだろうか。
決して美少女ではない自分であっても、女子高生というタグを付けて歩いていれば、魅力的に映るらしい。
そういえば、コンビニに来る三十代くらいのサラリーマンも、いやらしい目をして「よかったら」と、電話番号のメモを渡してきたっけ。
LINEのIDじゃなくて電話番号なあたり、より痛さが増した。すぐにメモを破り捨て、店長に報告をした。以降、その客が来たときは、バックヤードに隠れている。
誠も、あの男と同じだ。どうしようもない、「男」という生き物なのだ。
スッと冷めていく。身体が動かなくなったのは、彼の愛の言葉を信じたからではない。自分の愚かさが産んだ結果だと思うと、馬鹿馬鹿しくなった。
自暴自棄。そう、その通り。一回、痛い目を見た方がいいんだ。私のことなど、誰も心配なんてしない。処女なんて遅かれ早かれ、いつかは失うものだし、たいしたことない。
抵抗をやめた望美に、誠は満足そうに微笑んだ。裏に隠された薄汚い欲望を、彼はもはや、隠そうとしない。
肩を抱き、そのまま建物の中へ入っていこうとするが、諦めたとはいえ、腹をくくったわけではない。
「やっぱり、嫌……」
すると激高した誠が、「妹が女子高生だっていうから、良亮なんかと付き合ってやったんだぞ」と、本音を愚痴ってきた。
自分だけではなく、兄についても彼は、利用していただけだった。兄は誠を親友だと信じて、自分の楽曲のあれこれを相談し、協力を仰いでいた。
きっとこの男は、人のいい兄を最低限の労力で搾取してきたに違いない。
「なのに、いつまで経ってもはぐらかしやがって」
ああ、自分は兄に、守られていたのだ。
優しい兄は、流されなかった。誠の本性をしっかりと見抜いていたのだ。
そうまでして守ってくれたものを、自分自身のことだからといって、簡単に捨てていいはずがない。
「ま、死んじまったから、もう邪魔は入らないがな」
「最っ低!」
触れる手を強く叩いて逃げ出す望美を、そうはさせまいと誠が覆い被さってくる。もう遠慮はいらない、と。すでに一度同意したのだから、暴行には当たらないと判断して、大胆にも望美の腰に抱きつき、もう片方の手で胸を揉みしだく。
「やっ!」
助けて、という悲鳴を誰も聞きつけてはくれない。聞きとがめる人間はいても、痴話喧嘩だと思われて、彼らは望美から視線を外す。 ラブホテルの中に入ってすらいないのに、彼らには、望美が嫌がっているのはそういうフリのように見えているのだと、絶望する。
誠のことを、あんなに爽やかで格好いいと思っていたのに、今は醜い化け物にしか見えない。
もうダメだと諦めて、再度委ねようとした瞬間、
「うちの生徒に何をしているんですか?」
と、鋭い声が飛んできた。
誠が怯み、動きを止める。その隙に逃げればいいのに、望美も動けなくなっていた。
声の主は、ごく短い髪の若い女性。うちの生徒というからには、学校の先生だが、一緒に来た教師ではない。服装もラフで、セーターにデニムだ。
生徒にとっては楽しい学教行事でも、教師にとっては仕事だ。男性教師はスーツだし、女性も準じた服装のはずで、こんな服は着てこない。
睨みつける視線。男は女よりも強いと、望美を従わせようとしていた誠だが、邪魔に入った女性相手には、一歩引いた。「生徒」という単語から、教師相手には分が悪いと踏んだのだろう。
苦笑いとともに、「何もしていませんよ」という顔で、誠は這々の体で逃げていった。
「あの」
彼女は持っていたカーディガンを、望美に着せかけた。そのとき、親指の三連星を見て、ようやく望美は、目の前の女が誰なのかわかった。
「スール和泉?」
助けられたことよりも、マスールのベールの下がどうなっているのかを図らずも知ってしまったことへの動揺が勝ったのは、現実逃避の一種だった。
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