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その日以降、菜々は帰ってこなかった。
寮母にも生徒指導の教師にも聞きづらく、望美が彼女の処遇を尋ねたのは、鏡花だった。彼女は自分の味方だ。菜々ともよく話をしていて、仲がいい。
鏡花は菜々がタバコを持っていたことには驚いていたが、吸っていたとは考えていないようで、彼女の下手な言い訳を全面的に信じている。
しかし、それは大人たちの中では少数派で、どうにかして菜々の喫煙の事実を証明しようと躍起になっている。持っているだけより、使う方がより罪深い。
彼らは自分たちの生徒に、罪を犯していてほしいとでもいうように、尋問を続けている。
菜々がいるのは、通称「独房」と呼ばれる部屋だ。一般的な部屋の半分以下、机とベッドでギチギチの部屋は、病気の人間を隔離するのに使うことが多いが、元々は反省室である。
本来の用途のため、菜々はそこに入れられている。スマホはもちろん使えないし、食事も食堂ではなく、部屋の中で摂る。外に出られるのは、トイレと入浴のときだけ。それも大浴場は不可で、シャワー室のみだ。もちろん、他の寮生が部屋を訪ねることは禁止されている。
「スール和泉、お願いです」
味方であろうとしてくれている鏡花は、望美の依頼を断ることができなかった。
夜、学習時間にあてられている時間に、望美は独房へと向かう。
鏡花には、寮母を引きつけてもらっている。聖書についての質問や議論を投げかければ、寮母は若い宗教者を無碍にすることはできない。しばらく時間を稼げる。
望美の提案に、鏡花は苦い顔をしていた。結局のところ、彼女の出家は衝動的なものであり、哲学的思索や鮮烈な宗教体験、そもそも敬虔な信仰があったのかどうかも怪しい。
カトリックの家に育ったから修道院を選んだだけで、仏教の家に育っていたら、尼寺へ行っていた。そんなものだ。
ノックを三回、「はぁい」と間延びした返事は、いつもとは違い、生気が感じられないものだった。だいぶ追い詰められているのだとわかり、望美はそっと扉を開ける。
「吉村さん? なんで……」
急いで扉を閉めると、望美はその場で立ち尽くした。向かい合わせで座る場所はないし、ベッドに二人並んで、というのも違う気がする。
後ろ手にドアの取っ手を強く握り、外から開けられないようにする理由もあった。反省室は、籠城を防ぐために内側からは施錠できない。
鏡花がどれだけ稼いでくれるかわからない。時間は限られていた。
望美は単刀直入、本題を切り出す。
「どうして、私をかばったの?」
タバコが入っていることに気がついたのは、彼女が以前話していたように、ボーカロイドの本を読んでみたくて、望美の机をいろいろ探していたときだろう。
だが、わざわざ自分の机の引き出しに放り込んでまで、望美をかばう理由は、菜々にはないはずだ。それだけじゃない。修学旅行のことも。
「私のせいで、粟屋さんが退学になったりとかしたら……」
「まあ、退学はたぶんないけどねぇ。吸ってる証拠出してから言えっての!」
話を誤魔化そうとする彼女に、「粟屋さん」と、一段声を低くして呼びかけた。
へらへらしていた菜々は、望美の視線を受け止めて、「あーあ」と言った。ベッドに座った彼女は、こちらを見ない。
顔を見てする話と、顔を見てできない話があることを、望美も知っている。だから、何も言わなかった。
「初対面のときさ、あたし、嫌な奴だったじゃん?」
コースが違うと、隣のクラスという認識は薄いし、合同で何かをすることもない。一年時に、望美が粟屋菜々という生徒を知ることはなかった。
望美が実家を追い出されて入寮したその日が初対面だった。忘れもしない。
菜々は立って出迎えることもなく、ベッドの上で漫画を読んだまま、言った。
『せっかくひとり部屋だったのにな』
完全に、聞かせるための独り言だった。歩み寄ろうという気持ちは最初から踏みにじられた結果、二度と望美の心に戻ってこなかった。
修学旅行が終わるまで、ふたりの関係は冷え切っていた。
「あの後すぐ、後悔したんだよね。なんかワケありなんだろうって」
家は函館にある。親の転勤にしては、時期が中途半端すぎる。家族を頼ることができない望美の事情は、同室であっても、詳細は知らされない。
それでも、寮母や教師が何かと気を遣う姿から察するものはある。
「そうしたらさ、愛理が言ってるの、聞いちゃったんだよね」
菜々はゆっくりと振り返った。泣きそうな顔をした彼女の目には、優しさが宿っていて、見つめられた望美の方が泣きそうになる。
「吉村さんのお兄さんが、自殺したらしいって。それでいろいろあって、家にいられなくなったんだって」
田舎というほど田舎でなく、けれど都会とはとても呼べない街。子どもの口には上がらない情報も、大人の間では回る。
あそこの息子さん、首をくくったんだってよ。東京の有名な大学を卒業したらしいのに、もったいないね。
優秀な長男のことを、母や祖父母が自慢したから、その話も多くの人に迅速に回った。
実家の近所に済んでいる生徒も、同じクラスにいる。愛理はおそらく、そういう人間から噂を仕入れたのだろう。
教師たちが気を遣って周りに何も言わなくても、自分の事情はすべて、筒抜けだったのだ。
「あとからマスールに呼ばれて、言われたんだ。詳しくは教えてくれなかったけど、吉村さんに変わったことがあったら、すぐに教えてくれって。なるべく力になってやってほしいって」
けれど、初対面で印象最悪なことをしてしまったこともあり、菜々は望美の友人になることができなかった。何度話しかけても、望美の心は完全に閉じてしまっていたから、それ以上の進展はなかった。
「それをずっと後悔してて……タバコを見つけたとき、とにかく隠さなきゃって思った」
「そこまでしてもらう義理は、ない! 修学旅行のことだって……!」
声が震えるのを抑えるために力を入れたら、語尾に怒気が籠もってしまった。普段なら諍いの種になってしまいそうなところ、菜々は静かだった。
「あんたにはなくても、あたしにはあんの。タバコからも、変な男からもあんたのことを守れたら、何もできなかった自分が許されるような気がした」
一度言葉を止めて、菜々は息を吐きだす。
友達になれるような気がした、と。
「だからって……」
菜々は呆れた顔をつくって、しっしっ、と獣を追い払う手振りと同時に、「ほら、時間がない」と言った。確かに、鏡花による足止めも限界かもしれない。
「悪いと思ってんならさ。こっから出たら、ボカロ、弄らせてよ」
そんな簡単なことで、彼女が自らかぶった罪を雪ぐことなど、できやしない。
かぶりを振る望美に、「え、貸してくんないの? 吉村さん音痴だから、使いこなせてないっしょ?」と、あくまでも冗談っぽく彼女は言う。
「それから、あたしのスマホの中に、あんたが探してるMIRAの情報、ちょっとだけ集めたの入ってるから、それ見て」
「そんなことまで……」
もう、菜々には頭が上がらない。一生彼女の奴隷として過ごすのでもいいと思った。
彼女は望美とMIRAの間にある確執を、知らない。姿を消した歌い手を探して、何をしようとしているのかも、知らない。
それでも必死になっている望美を見て、手伝いを申し出てくれた。いらないと何度断っても、彼女なりに調べ続けてくれていた。
感謝をすることしかできない。謝ることしかできない。
流れ落ちる涙を、立ち上がった菜々は、その指先で拭ってくれた。彼女の目にも涙が浮かんでいる。
触れた指は震えていて、先の見えない独房での生活を思いやる。
「……あなたを退学になんて、絶対にさせないから」
「だから、ならないって。つか、余計なこと言わないでよ? せっかくあたしが引き受けたんだからさ」
望美は菜々をひとりで残していくことに、後ろ髪を引かれながら、独房を出た。寮母の部屋の前を通り、扉を叩く。
「はい?」
「吉村です。スール和泉、こちらにいらっしゃいますか? 相談があって……」
菜々に力になってやれと言った寮母だ。望美が鏡花にあれこれと話をすることを、よしとするだろう。
案の定、あっさりと解放された鏡花は、心なしか顔が青くなっていた。
「話はできたの?」
「はい……私、あの子の力になれるように頑張ります」
望美の決意を頷きひとつで受け入れて、彼女はじっとこちらを見つめた。
「泣いたの?」
頬に残る涙の痕に触れられて、望美はドキリとした。菜々に触れられたときは、何も思わなかったのに。
タバコと赤いマニキュアがよく似合うと思った大人の指だからかもしれない。
望美は彼女の親指の三連星に意識を集中することで、心を落ち着かせた。
鏡花と別れ、望美は自分の部屋に戻ってきた。
菜々のスマートフォンは部屋に戻され、引き出しの中に保管されている。さすがに充電は切れてしまっていて、彼女のベッドに放置されている充電ケーブルに繋いだ。
完了するまで待てずにそのまま電源を入れ、望美は菜々の残した手がかりの確認を始めた。
動画チャンネルやSNSは望美も何度も確認した。しかし、菜々はもっと突っ込んだところまで探していたようだ。
歌い手として名が知られるようになる前、MIRAは同じ名前でブログをやっていた。バンドのボーカルとして、ライブハウスでの活動がメインだった時代だ。
ブログそのものに、彼女の素顔がはっきりとわかるものはなかった。ライブの告知写真は、ステージメイクが施された状態だ。それに印刷したチラシを取り込んだものだから、拡大しても、不鮮明な箇所がある。
誰かに似ている気がする。心臓が早鐘を打つ。
望美は、菜々が見つけてくれたブログをどんどん遡っていく。
そして、見つけた。
「まさか……」
運命のいたずら、とはこのことを言うんだろうか。
菜々が見つけてきたブログの画像、飲み会のグラスを持つMIRAの手が、はっきりと映っている。
さっき見たばかりの、親指の付け根にある、特徴的な三つのほくろが。
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