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MIRAと鏡花が同一人物であるという疑惑を抱いて以降、望美は鏡花のことを徹底して避けた。菜々を助けるべく、相談して動かなければならないのに、一切言葉を交わしていない。
彼女の方は、何かを話したそうにこちらに近づいてくることもあるが、気づかなかったフリをして、望美はその場を足早に離れる。
あれほど親身になってくれたのは、菜々に頼み込まれたということと、生来の鏡花の性格、それからマスールとして、年長者としての義務感に他ならない。
彼女は、コラボ予定だった作曲家の妹が望美であることを知らないのだから。
思い返せば、兄の遺作は『鏡仕掛けのMIRA』だ。彼がもしも、本当にMIRAと仲がよかったとしたら、本名を鏡花だと知っていて作ったとしても、不思議ではない。
自分を助けてくれた、優しい鏡花。兄を死に至らしめたかもしれない、MIRA。
ふたりを同一人物だと確定させるのが、怖い。何も聞きたくない。知りたくない。自分がどうなってしまうのか、望美には想像がつかない。
そうこうしているうちに、とうとう菜々が戻ってきた。彼女と仲のいい生徒が署名を集めてあれこれしていたようだが、望美のところには来なかった。
結局、喫煙の証拠は見つからず、厳重注意といくつかの罰則を受けることに決まった。親が帯広から呼ばれて三者面談を行ったりしたし、二学期末のテストを受けられなかったから、冬休みは補習にレポート、追試験を受けなければならず、帰省はできない。
冬休みと学年末の試験で頑張れば、留年は防ぐことができると聞いて、望美は少しだけ安心した。勉強面ならば、力になれる。
しかし、年明けすぐに菜々と望美は別室になることも決定していた。大人たちが、勝手に気を回したせいだった。
どうせ春休みには、受験に専念すべく望美はひとり部屋をあてがわれるのだから、それを待てばいい。自分は何も気にしていない。
望美の主張を、寮母も教師も聞き入れなかった。
菜々は勉強の合間に、徐々に荷物の整理を始めた。寮長の監督下に置かれること、すなわち、愛理と同室になることが決められているせいか、表情は暗い。
今となっては、菜々の気持ちが痛いほどよくわかる。明るく誰にでも優しいようで、相手の本質を見ようとせずにレッテルを貼る「いい子ちゃん」に、望美もまた、嫌悪感を抱いた。
「ねぇ、ボーカロイド弄らせてよ。約束でしょ」
独房から出てきた菜々は、すぐにでもボーカロイドで遊びたがったが、望美に心の余裕がなく、「問題集一冊終わったら」と言っていた。普段発揮されない集中力で課題をこなした彼女に請われ、望美はノートパソコンを引っ張り出す。
菜々は、MIRAについて尋ねなかった。
自分の集めた情報を見て、望美が何を思ったのか、気になってはいるだろう。それでも、何も言わなかった。
MIRAを探している理由も、探し出して何をするつもりなのかも、一切聞かない。
教則本を隣に置いて、菜々はパソコンを弄り回す。「壊さないでね」と声をかけるべきかどうか、悩んだ。
謎に「アップルパイうまい」と歌わせてはしゃいだり、黙りこくってメロディーを打ち込んでいる菜々を視界の端に入れながら、望美は何もすることがなく、仕方なく問題集を開いた。余計なことを考えないようにするには、数学の計算問題が一番だった。
しばらくおとなしくしていた菜々が、「ねぇ」と声をかけてきたときには、すっかり数字の海に飲まれていた。
「どうかした?」
彼女はノートパソコンの画面を見せてくる。フリーズでもしたのかと覗き込めば、それは保存されていた『鏡仕掛けのMIRA』の譜面だった。望美が弄くり回す前の、純粋に兄が遺した状態のままのものである。
「この曲って、お兄さんの?」
てっきり、菜々が望美のことをからかおうと言ってきたのだと思った。音痴だからこんなの作れないよねえ、など。
頷く望美は、菜々を観察する。彼女の表情はちっともにやにやしたものではなく、むしろ深刻なことを言うべきか悩んでいるという顔だ。
「そうだけど、何か気になるところでもある?」
少なくとも、歌い手を目指し、自分でも曲を作りたいと思っている菜々は、望美よりも知識があるし、感性も鋭い。曲に隠された何らかのメッセージに気づく可能性が高かった。
もしも、そんなものが残されていれば、の話だが。
菜々は少し言いづらそうに、身体を揺すった。
「あのね、これは……そう、憶測で言うんだけどさ」
彼女の指が、譜面を指す。実技で点を取る方法を早々に捨てているからこそむしろ、ペーパーテストのために楽譜はちゃんと読める。
「なんか気づかない?」
望美は兄の死後、何度もこの譜面を見ている。そのときに気づかなかったことに、今更気づくはずもなかった。
首を横に振ると、菜々が説明をしてくれた。
「この曲、ミとラの音が使われてない。♭とか♯すら」
指摘されてからもう一度注意深く確認する。 メロディーラインには、彼女の言うとおり、ミとラの音が使用されていなかった。途中まで作られた伴奏パートであるところのヘ音記号が使われた楽譜にも、その二音だけ存在しない。
「どうしてこんなこと……」
「これって歌い手のMIRAのための曲でしょ? それで『ミ』と『ラ』の音だけ使わないって……なんか、怖くない?」
言ってから、彼女は「あ」という顔をして、ごめんと謝ってきた。人の兄を捕まえて、変だの怖いだの感想を述べるのは失礼だと思ったようだ。
しかし、望美もまさに同じことを考え、恐怖していた。
MIRAに宛てた遺書を思い出す。
わざわざ罫線を引いて、画一的で無感情な文字が脳裏に浮かび、背筋が冷たくなる。
兄は、望美には優しかった。
けれど一方で、病的で偏執的な人間だったのかもしれない。
もしも自分がMIRA……鏡花だったとしたら。
曲を送られたら、嬉しい。一生懸命に練習をして、上手く歌えるようになろうとする。
でも、途中でこの曲の真の姿に気づく。
こんな曲を作る相手だ。何をされるかわからない。歌い手という活動が急に危険に思えてきて、やめることを考えるかもしれない。
望美はハッとして、机の引き出しを探った。いつでも取り出せるようにしていた、兄の遺書である。
じっと動向を見守っている菜々に、悩みな「これ……」と見せた。パソコンの中に残っていた『鏡仕掛けのMIRA』の歌詞も。
『鏡の中のMIRA。永遠の女神。一生をそこで過ごすのか。それなら僕も、君の元へ』
目を通した菜々は、唸りながら「ごめんだけど」と言う。正直なところが、彼女のいいところだし、望美は彼女のそうした部分に期待をして、遺書を見せたのだった。
「コラボの約束してたとして、この歌詞や曲を見せられたら、正直あたしも……逃げるかもしんない」
「そう……だよね」
MIRAは兄を一方的に裏切り、死に至らしめたと思っていた。好意を無碍にして、人ひとり殺したんだと糾弾する気でいた。
けれど、兄の楽曲を精査した結果、全面的に兄の味方をすることができなくなった。
もしかして兄は、MIRAに対して何らかのアクションを起こし、拒絶されたのではないか。そのあてつけに遺書を残し、命を絶ったのではないか。
ゾッとした。兄ならありうるという気持ちと、そんなわけないと否定する気持ちがせめぎ合う。
望美は返却された遺書を持ち、そのまま部屋を出る。
菜々は何も言わなかった。
おそらく彼女も、鏡花がMIRAである可能性に気がついている。鏡花とよく話をしていたから、彼女の指の特徴的なほくろの存在を知っているだろう。
寮の一階、鏡花の部屋の前で、望美は深呼吸をする。
確かめなければならない。
謝られるのか、謝るのか、扉を開ける前の現段階ではまだわからない。
ノックの音にわずかに遅れ、「はい、どうぞ」と、ハスキーな声が呼び入れる。
ああ、この声だ。
機械を通さずとも、歌っていなくともわかる。
MIRAの声に望美は肩を緊張させて、「失礼します」と入室した。
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