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<(20)
生徒が使う部屋と、広さは大差なかった。違うのは物の少なさで、本棚には聖書やカトリックに関する本が並んでいるだけだった。
「吉村さん」
立ち上がって出迎えてくれた鏡花は、入室したのが望美だと知ると、ホッとした表情になった。最近避けていたのは、向こうにも伝わっていた。
「どうしたの、最近……」
「マスール、お話があります」
そう切り出すと、もはやこの部屋は告解室のようだな、と思う。望美はクリスチャンではないけれど、生まれそのものが罪の塊のようなものである自分が、ここで話をすることで許されるだろうか。
食い気味に言われた鏡花は、戸惑っていた。大事なことならば寮母や教師に話すべきではないかとやんわり提案されたが、「スール和泉じゃないと、ダメなんです」と言えば、すっと彼女が使っている椅子を差し出された。
寝る直前まで、マスールはマスールのままだ。修道服姿の彼女を、ささやかな月光が照らす。
それだけで、洗いざらいすべて、やったこともやっていないこともぶちまけたくなって、でも言葉は詰まって何も出てこなくて、望美はそっと、持ってきた封筒を差し出した。
「これは?」
首を横に振る。とにかく読んでくれという意思表示を正しく汲み取り、鏡花は封筒の中身を確認した。
彼女の表情は、みるみるうちに変化する。怪訝なものから青ざめたものへ。すべてを物語っていた。
ああ、予想は当たっていたんだな。
望美は兄の別の顔の輪郭が見えてきた気がして、口を開いた。
「それは、兄の遺書です」
「お兄さん、の……」
便箋を持つ手が震えていた。望美が、
「兄はボーカロイドで曲を作って、サイトにアップしていたんです。名前は、ぽてさらP」
と名前を出したことで、いよいよ耐えきれなくなり、便箋を放り出した。そのまま立っていられなくなり、ずるずると床にへたり込む。
「兄と、あなたは知り合いでしたか?」
淡々とした物言いの望美と、青い顔で震えている鏡花とでは、どちらが罪を抱えているのかわからない。
鏡花は首を横に振る。
「名前、名前しか……」
ああ、やはり。
望美は目を閉じる。
結論、兄・良亮は鏡花=MIRAのネットストーカーをしていた。
ノートパソコンの中に、それらしい証拠は見つからなかった。おそらく完全にデータを消去したか、あるいは別機を使っていて、パソコンごと処分したか。
粘着質なメッセージを送りつける一方で、兄の狡猾なところは、表ではSNSを使い、外堀を埋めていったところだった。
鏡花からの返信がない状態で、彼女のSNSの発言を引用する形で、「コラボ承諾ありがとうございました! MIRAさんにぴったりの曲、作りますね」と、公表した。
ここでMIRAが「違います。そんな約束はしていません」と反論したところで、無駄だ。人気のある歌い手だった彼女には、少なからずアンチもついていた。
『ぽてさらPが無名だからって、調子に乗ってんじゃない?』
そう言って叩かれるのは、容易に予想できた。
まして、当時の鏡花は恋人との間に子どもを授かったばかりの頃だった。これから活動をセーブしていこうと思っていた矢先、兄の虚言とネットストーキングに振り回されるのを嫌った彼女や周囲の人たちが、無視という手段を取ったのは、妥当だ。
「子どもがダメになって、歌うのをやめたから、もう大丈夫って……」
座り込んだまま、呆然と当時のことを述懐する鏡花は、落ちたままになっていた兄の遺書を再び拾い上げた。恐る恐る読み返していた彼女は、やがて、あることに気づく。
「……私が、歌うのをやめたから? そして姿を消したから?」
思い込みで『鏡仕掛けのMIRA』の制作を続けていた兄は、MIRAの突然の活動休止宣言を見て、どれほど衝撃を受けただろうか。
何度も何度も、MIRAへのコンタクトを試みては、はね除けられて、ダイレクトメッセージは既読にならない。動画サイトには別アカウントを使い、超長文でMIRAへの賛美と批難を書き込む。
ネットの世界から完全にログアウトした鏡花は、その後のストーカー――ぽてさらPのことを知らなかった。
きっと、「いっそのこと、死んでくれたらいいのになあ」と軽い気持ちで思ったこともあるだろう。けれど本気で、たとえ見ず知らずの迷惑男であっても、「死ね」とは願っていなかったはずだ。
鏡花は情の深い、優しい人だから。
凝視してくる鏡花の目を、望美は真正面から受け止める勇気はなかった。目を伏せると、頷いたように見える。
「許して……」
鏡花の目に、涙が浮かぶ。床に座り込んだままの彼女は美しく、哀れを誘った。
「お願い、許して。どうすれば、許されるの?」
告解をしに来たのは自分だったはずなのに、鏡花が許しを請うている。逆転した構図を、望美は笑う気にはなれない。
「罪滅ぼしを、したいんですか?」
頷く彼女に、望美は唇だけ動かして笑う。
贖罪は、とても自分勝手なものであると、今の望美は知っている。
今後の進学に不利な処分を受けた菜々も。
兄の弔いのためのタバコを集め続けていた自分のせいで、菜々は窮地に陥った。
鏡花が歌うのをやめたことが、兄の死の引き金になった。
なんて、自分勝手で愚かなことだろう。贖罪は常に、自己満足に過ぎないのだ。
だから、意味なんてない。少なくとも、私の兄への贖罪は。
「ねぇ、マスール」
鏡花と兄の罪を比べて、兄の方が重かったとき、望美がかけようと考えていた言葉がある。
望美は鏡花の頬を両手で包み込み、固定する。
涙を湛えた瞳は、続く望美のセリフを聞いた瞬間に、大きく見開かれた。震える声で、「なぜ?」と尋ねられても、望美自身にも、上手く説明はできなかった。
ただ、彼女には――そうしてほしかった。
歌をやめるのが子どもと恋人に対する贖罪だと思っていた彼女。けれどそのせいで、兄を殺してしまった彼女。
歌っても歌わなくても、誰かを傷つけることになるのならば、私は。
私は。
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