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『九九年七の月に、人類は滅亡するってみんなが言ってたのよ。なのに滅亡しなかったんだもの。参るわぁ』
小学校に上がったとき、母は望美に聞かせるように、独り言を言った。
最初、自分に話しかけられていると思わなかった。彼女が鏡台に向かって化粧をしており、望美に顔を向けているわけではなかったからだ。
母は占いや予言めいたものが好きで、すぐに信用してしまう性質だった。
実際、夜の店で働いていても思うように稼げないのは、年齢や容姿以上に、誰彼かまわず、うさんくさい占い師に紹介しようとするためだったと、望美は後になってから聞いた。 馬鹿みたいに高い鑑定料を、母はツケ払いにしていて、客を紹介することでそこから割り引いてもらう算段であった。捕らぬ狸の皮算用にも程がある。
母の言葉の意味がようやくわかるようになったのは、小学校の保健体育の授業で、子どもができる仕組み、産まれるまでにかかる時間について習ってからだった。
一九八〇~九〇年代にかけて、多くの人が、大昔のうさんくさい予言を信じて、あれこれとオカルトチックな儀式を行ったり、新興宗教が事件を起こしたりと、大変だったらしい。
恐怖の大王によって人類が滅亡しているはずだった、まさにその月の終わりに望美が産まれた。
妊娠中から、夫は妻の腹の中の子どもが自分の子じゃない可能性に気づいていた。産まれてすぐに検査をして、血の繋がりがないことが証明されたのち、母は離婚された。
人類が滅亡するのなら、腹の中の子は産まれない。そのつもりで好き勝手に男遊びをした結果の子どもが、望美だった。
誰からも望まれていない子どもなのに、「望美」と名付ける神経がわからなかったが、自分の名前は兄が考えたと知って、納得した。
「兄ちゃんは、妹ができて嬉しかったんだぞ」
と。
年の離れた兄だった。大学から東京に行ってしまい、なかなか帰省してこなかった。それでも、たまに会うときは手土産を欠かさないし、車で買い物に連れて行ってくれたり、本当に優しかった。
お兄ちゃん大好き、なんて、言う柄じゃない。いつまでも小さい子に接するみたいにされるのは嫌だった。最後に会ったときには、冷淡に接してしまった。
それを今になって、ひどく後悔している。
「それでね、お兄ちゃんってば、母の日にお金を貯めて、こんなおっきい花束をくれてね。お母さん、いつもありがとう、って」
指し示したサイズは、とてもじゃないが小学生のお小遣いでは賄えない、プロポーズの花束サイズだ。思い出は誇張され、美化されるのだと、望美は母の話に適当に相づちを打った。
兄の死後、心を病んだ母の思い出話には、望美の姿はない。
兄への偏った愛情は知っていた。
それでも一ミリくらいは、何らかの感情――たとえそれが負の感情であっても――を抱いてくれていると思っていた。ひとかけらもなかったことが、わかってしまった。
祖父母に命じられ、月に一度は寮から家に帰る。長期休みしか帰省できない他の寮生からは、その点も異様に映り、馴染めない原因にもなっている。
母方の祖父母は、端的に言えば金持ちだった。専業主婦だった母の慰謝料を肩代わりし、孫娘を見栄のために中高一貫私立校に入れてもびくともしない。
離婚の原因である望美に金をかける理由は、兄の説得があったからだ。
曰く、不義の子だと知れればいじめられるかもしれない。そこから望美が不良に走ったらどうする? と。
不確定な予測も、優秀な兄に言われると、不思議と信憑性が増した。祖父母は望美にも適度に金をかけた。制服は中古のものを買ったりしたが、概ね、普通の家の子どもと同じように自宅から通学していたのだ。
兄が生きている間は。
使った食器を洗う。ひょんなことから暴れ出す可能性のある母親の皿はすべて、プラスチック製の安全なものに変えられていた。流れる水の冷たさに、望美はぼんやりする。
兄が死んで、か細い関係で繋がっていた家族は、バラバラだ。
母は壊れ、祖父母はそんな娘を迷惑がって離れへと追いやり、ヘルパーをつけた。ひとり残った孫娘は、さすがに母親の介護をさせるのは外聞が悪いからと、さっさと寮に入れた。
いざとなったときに追い出しやすいよう、最初から寮のある中高一貫校にわざわざ入れたのだと、直接言われた。
兄・良亮は、去年の秋、東京の自宅アパートで首を吊って死んだ。
その場に遺書はなかった。だから、本当のことはわからない。
警察は過労による鬱状態にあったのだとろくに捜査することなく、自殺だと結論づけた。
「ちょっと! 出しっぱなしになってるじゃない!」
金切り声に、感傷から引き戻された。ハッとして、「あ、ごめんなさい」と言いながら止めようとすると、手を強く叩かれた。思わず引っ込めた望美に代わり、祖母が水道を止める。
「まったく、あんたは本当に、何もできない子だね」
祖母と母は、よく似ている。望美を理不尽に貶め、その分良亮を褒めそやす。ぶつぶつと文句を言う彼女を、望美は肩を縮めてやり過ごす。
祖母の言葉の裏側にあるものはいつだって、「どうして良亮じゃなくて、あんたが生きているんだい」である。
じっと耐えていると、ふと言葉の嵐が止んだ。ゆっくりと顔を上げると、真顔の祖母と目が合う。
「あんた、高校までだからね」
「……」
「返事は!?」
「はい」
学費や生活の援助を受けられるのは、高校まで。
契約を交わしたわけではないが、そう決まっていた。不満はない。そのために、ずっとアルバイトをしている。奨学金も調べているし、学費免除になる大学についても教師に相談をしている。
これ以上、世話になるのは申し訳ない。家の恥が老後資金を食い潰すわけにはいかない。
そんな、殊勝な考えは一切なかった。もう世話になりたくない。だってこちらも世話をしたくないから。
洗い物を終えると、望美はすぐに実家を出た。泊まるなんてとんでもない。
「お邪魔しました」
自分の家なのに、他人行儀に別れの挨拶をした。一方的なものだ。「行ってらっしゃい」「またね」当たり前の挨拶は、この家では返ってこない。
「あ」
バスに揺られ、スマートフォンを取り出す。広告だらけのトークアプリのホームで、一番上にある名前に、声を上げた。静かな車内では思った以上に大きく響き、望美はきょろきょろ辺りを見回し、たまたま目が合った老婆に会釈した。
『2学期始まったっていうけど、どう? 忙しい?』
兄のように心配した文面をを送ってくるのは、兄の親友・誠であった。
地味な兄とは対照的に、明るくてスマートで、とにかくイケメン。どうやって知り合ったのかといえば、大学のゼミが一緒だったのだという。
誠と望美が初めて会ったのは、兄の葬儀のときだった。母や祖母は茫然自失としていた。葬儀屋の不手際を責める祖父の怒号が飛ぶ中、頼ることができたのは、「何かお手伝いさせてください」と申し出た誠だった。
兄の遺体はドライアイスで厳重に保護された後、函館に輸送され、葬儀を執り行った。誠は東京からわざわざ参列し、望美を助けてくれた。
それをきっかけに、今もこうして、時折メッセージでやりとりをする仲である。
『大丈夫です。バイトしないと、大学行けないから』
『それだけど、俺からおじいさんたちに言おうか? イマドキありえないよ。大学に行くなら自分で、なんて』
誠は優しい。優しいからこそ、彼をうちの家族のごたごたに巻き込んではならない。
望美がしばらく返信しないでいると、再び彼の方から送信してきた。
『2学期は行事もいっぱいあるんだろ? 無理しないで』
「行事、ねぇ……」
ありがとう、のスタンプを送りつけて、アプリの画面を閉じて溜息をつく。
夏休み前からぼちぼち準備を進めてきたが、九月末には文化祭がある。
学級委員を押しつけられている望美は、実行委員と協力してやらなければならないことが多く、すでに気疲れしていた。
十一月には修学旅行もあり、そこでバイトを休まなければならないから、文化祭準備期間中は、なるべくシフトどおりに働きたい。
それに、特待生としては学業成績もキープしなければならないから、大変だ。
とりあえず今は、考えるのはよそう。
思考を放棄した望美は、スマホを鞄の中に戻し、目を閉じるのだった。
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