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「ありがとうございましたー」
十八時が近づいてくると、そわそわする。
退勤時間直前に、おかしな客に当たりませんように。
願いながら、ホットスナックの補充をする。 この時間帯は、部活終わりの学生や塾通いの小学生など、腹を空かせた子どもが来店することが多い。切らすと喚き散らす要注意人物までおり、スタッフは皆、注意深くストックを管理していた。
もちろん、一生懸命に働いた望美だって、空腹だ。寮までは徒歩五分ほどだが、その間すら耐えがたいときもある。
今日はたまたま、そういう日だった。
唐揚げにアメリカンドッグ、それから最近始まったばかりの肉まん。湯気だけでもおいしそうな匂いがして、空腹中枢を刺激する。
制服姿での買い食いはよくない。近隣のお節介な人間が、「なんたることか!」と、電話でクレームを入れてくる。だが望美は、寮で一度着替えているから、何の問題もない。
帰ったらすぐに夕飯なのに、でも……。
うーん、と悩みつつレジに立っていると、大きな荷物を持った人がやってくるのを、気配で感じた。
「いらっしゃいませー……」
配送手配だ。サイズを測ったり、伝票のチェックをしたりとやることが多く、いまだに慣れない。
それでも、給料をもらっている以上はやるべきことはやらねばならない。望美は笑顔で顔を上げ、迎え入れる。
「これ、荷物を東京に送りたいんですけどー」
頭の悪そうな、語尾が伸びる声はざらついている。けれど望美を驚かせたのは、それが見慣れた修道服姿の女から発せられたことだった。
彼女たちは、学園外でも決して、修道服を脱がない。特に頭は、神に一生を捧げると決めたそのときから、決して公にしない。
望美の通う学校では、「マスールのヴェールを取るべからず。中を見た生徒は、退学に処す」と、まことしやかに噂されている。
突如現れた若い修道女に、たまたま店内にいた若い男性は、釘付けになっている。アニメの世界にしかいないと思っていた、聖なるシスター。しかもキョウカは美貌の持ち主である。見るからにそわそわしている。
「あの?」
ハッとして、望美はおどおどしつつ、「伝票はお持ちですか?」と尋ねた。
首を横に振るので、元払いの配送用伝票を渡した。ボールペンも持っていない様子だったので、それも。
キョウカが記入している間、他の客はレジに来なかった。入店音も一度も鳴らなかった。 彼女の手元を覗き込む。爪は短くなってこそいるが、丁寧に磨かれて、ツヤがあった。マスールを志望する前は、もっと長くて、きれいなネイルが施されていたに違いない。
細いタバコを扱っていそうな指だった。長い指全体で取り扱うのだ。中指と人差し指で挟み、ライターで火をつける。真っ赤な唇にくわえて笑うのが似合う女だ。
ちなみに、字はお世辞でも美しいとは言えなかった。
かろうじて読める字で、望美は初めて、彼女の名前を知った。
和泉鏡花。苗字はさすがに、「泉」ではなかった。
サイズを測り、希望の到着日時を聞く。いつでもいいと言うので、指定なしだ。
送料をもらい、これで終了。ミスがないか確認して、「ありがとうございました」を言いかけたところで、鏡花がそわそわしていることに気がついた。
「他になにかございますか?」
自分が務めている学校の生徒だとは気づいていないだろうから、望美も普通の客として接する。
彼女の目は一点を見つめている。何を見ているのか確認するまでもなく、鏡花は「三十二番」と、短く番号だけ告げた。
コンビニバイトに入って一番苦労したのは、タバコの販売用番号を覚えることだった。
人気の銘柄だと、しょっちゅう聞く番号もある。けれど他の客とは違い、顔を見知った人間に注文されると、偶然の符丁にどぎまぎした。
三十二番は、よく知っている。兄が生前吸っていて、オーナーが二十五日にくれるものだ。
挙動不審になりつつも、かしこまりました、と取り出そうとしたところで、ふと思い至る。
「マスールなのに、タバコなんて買っていいんですか?」
清く正しくの禁欲が、修道生活の本質だ。キリストの血を表す葡萄酒があるから、酒はまだわからなくもないが、タバコは厳禁だろう。
鏡花は望美の指摘に、ハッとした。目が正気に戻っている。ほのかに赤くなった頬で、「そ、そうね。そうだったわ……」と、伝票の控えをポケットに突っ込んだ鏡花は、店を出ようとする。
だが、何かに後ろ髪を引かれたのか、彼女は振り返った。見送る望美と、ばっちり目が合う。
「マスール……?」
しまった。
望美の学校は、フランス発祥の修道女会が運営している。だから、マ・スール。英語で言うなら、マイ・シスター。学校関係者以外でマスールと呼ぶ人間はいないのだ。普段の癖が出てしまった。
「あなた、あそこの学校の生徒?」
戻ってきて、カウンター内の望美に、ぐいっと顔を寄せる。思わず両手を上げてこれ以上近づいてこないようにガードし、顔を背けた。
「うーん……見たことある……気がする!」
「……バイトの申請は、きちんとしています」
隠すのは不可能だ。鏡花は望美が寮生であることにも、気がついている。許可が出ているから、何もうろたえることはないのだと自身に言い聞かせ、望美はすでに時計が十八時を回っていることに気がついた。
「吉村さん、もう出ていい、よ?」
代わりにレジに入る大学生バイトが来て、望美と相対する修道服の女に目を丸くする。望美はふたりに慌ただしく一礼ずつ会釈すると、バックヤードに引っ込んだ。
助かった、と思ったのは、一瞬だった。
着替えを終えて裏口から出た望美を待ち受けていたのは、鏡花だった。
表と違い、店の裏は路地に面しており、お世辞にもきれいとは言えないし、街灯もまびかれている。利用客が捨てていったゴミやタバコの吸い殻が落ちている。
寂れた裏通りそのものを背景に、淡いグレーの修道服は非常に目立った。端的に言えば、場違いだった。
「マスール。何か用ですか?」
「どうせ帰る場所は同じでしょ? 一緒に帰ろうと思って」
あたしと帰るのは、嫌?
首を傾げる鏡花に、望美は脱力した。何も言わずに歩き始めると、あとを小走りについてくる。
走って逃げだしたら、彼女はどうするんだろう。
こちらは私服で、スニーカーだ。全力疾走するマスールは、絵面としては非常に面白い。きっと、注目を集めるだろう。写真を撮られて、SNSにアップされるかもしれない。
もちろん、やらなかった。そこまでして逃げたいわけじゃない。ただ、いつもひとりの帰り道をふたりで歩くのが、こそばゆいだけだ。
一緒に帰ろうと言ったわりに、鏡花は自分から話をしなかった。いつも寮内で囲まれているときは、寮母に「もっと静かに」と、生徒と一緒に注意をされるくらい、うるさい。
自分から話題を提供するタイプじゃない望美は、居心地の悪さを感じていた。
知りたいことがあるのなら、どうぞ。
胸を開いて、彼女は望美の話を待っている。そう感じた。
聞きたいことは、ある。
喫煙者なのか。禁煙中じゃないのか。そんな状態でよく出家しようと思いましたね……。
けれど、望美の口をついて出たのは、もっとどうしようもない言葉だった。
タバコのことを問い質せば、それは脅迫と受け取られる。
そうまでして、彼女にやってもらいたいことなどない。出家理由は気になるが、秘密にしておきたいことなのだろう。暴く趣味はない。
「マスールの名前って」
「うん?」
「文豪と同じですよね。字は違うけど」
本当に、どうしようもない。言われ慣れているだろう指摘に、鏡花は目を丸くした。
「へぇ、そうなんだ」
普通に高校まで勉強をしていれば、現国の時間に必ずぶち当たる名前だ。森鴎外、夏目漱石。教科書に本文が掲載されている作家に比べるとマイナーかもしれないが、名前くらいは習う。
けれど、鏡花は初耳だという顔をする。あれ? となった。そして、「この人は、まともに学校に通っていなかったんじゃないか」と、思い当たる。
同級生は言わずとも、四月に担任が変わる度に言われ慣れていそうなものだが。
そういえば、鏡花の眉は極端に薄い。今どき、こんなに細くするなんて、ヤンキーとしか思えない。
望美の通う学校は、おとなしい格好の生徒の方が圧倒的多数だ。寮生は私生活も寮則に縛られている。
本当のことを言えば、望美にはギャルとヤンキーの区別がついていない。バイト先にも別の学校に通う生徒が働いているが、髪は明るいし、耳にピアスがバチバチに開いている。 向こうもこちらも話が合うわけないと自覚しているため、業務連絡しかしない。
あの同僚は、はヤンキーとギャル、どっちだろう。
交流のない人種だと確信した瞬間、望美は身構える。逆に、鏡花は目を好奇心に輝かせた。
「で、そのイズミキョウカって、どんな話を書いているの?」
その問いに、望美は緊張を保ったまま、国語便覧の内容を思い出す。
「『高野聖』とか、『外科室』? とか……」
「それってどんな話?」
重ねて問われ、望美は虚を突かれた。
勉強の成果として、代表作のタイトルは知っている。だが、実際に読んだことはない。読もうと思ったことすらない。授業でやった『舞姫』『こころ』くらいしか、あの時代の文豪の小説は、読んだことがない。
どんな話なのかと尋ねられても、望美は答えを持っていない。
歩みを止め、押し黙ってTシャツの裾を握りしめる望美を見て、鏡花はそれ以上、何も言わなかった。
「さ、早く帰ろう。お腹減ったでしょ?」
言葉どおり、彼女の腹が鳴る。マスールも人間で、空腹を覚える。当たり前だ。
照れ笑いして先を行く彼女の後を追いながら、望美は猛烈な羞恥を感じていた。
名前やタイトルを知っているだけなのに、鏡花のことを見下した。
知らない、答えられないことは、望美にとっては非常に恥ずかしいことだったのだ。
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