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鏡花に対して講釈をたれるという、後ろ向きで陰湿な読書ははかどらない。
「全然進んでないじゃん」
机に向かって船をこいでいたら、菜々が文庫を覗き込んで爆笑した。
びくん、と肩が跳ねる。完全に眠気が去った。
ムッとした望美は、「わかってる」と言い放ち、本を閉じた。
菜々にはこういうところがあって、いわゆる距離なしだ。以前、誠とやりとりをしているときにも、こっそりと後ろから画面を見て、「えっ、うっそイケメンじゃん。彼氏? そんなわけないか。紹介して!」と、しつこかった。
望美が無になると、反応がないのを「つまんない」と詰り、菜々はベッドに横になって雑誌を読み始める。
なんなんだろう、この人は。
一ミリも仲良くないのに、むしろ望美のことを嫌っているはずなのに、しょっちゅう絡んでくる。
これ以上、同じ空気を吸っているのも嫌になり、望美はノートパソコンを準備して、談話室に逃げた。
一昔、二昔以上前は、この部屋は寮生で賑わっていた。それぞれの部屋にテレビはなく、ここで見るしかなかった。
人気のあるドラマのときには、マスールの「勉強はどうしたんですか!?」という叫び声をBGMに(要は無視して)、ほぼ全員が集っていたという。
だが、中高生が携帯電話やスマートフォンを持つのが当たり前になり、ネットがあればそれでいい、テレビを見ないという寮生も多い。談話室のテレビは誰も使っていないことが多く、だからこそ、部屋ではやりづらい作業を行うには適している。
望美が使用しているノートパソコンは、兄の遺品のひとつだ。
入っているソフトも、ブラウザに登録されたお気に入りも、兄が愛用していた頃のままになっている。自機として利用する場合、初期化しなければならないことはわかっていたし、やろうとした。
でも、できなかった。兄が生きていた痕跡は、もはやこの中にしかない。兄がひとり暮らしをしていた東京のアパートは引き払っているし、実家の兄の部屋なんて、もう何年もまともに使っていなかった。
兄はシステムエンジニアとして企業に務める傍ら、ネットでとある活動をしていた。
ボーカロイド。機械の歌姫。
兄は昔、ピアノを習っていた。
『ピアノが弾ける男の子って、素敵でしょう?』
母の理想のためだったが、望美とは違い、音楽自体は好きだったらしい。兄の部屋には、CDがきれいに整理整頓されていた。
ピアノをやめ、自分で演奏することから離れた兄が出会ったのが、ボーカロイドだった。
顔だけじゃなく、声も出さなくていい。機械だから、人間では到底不可能なリズム、音域の楽曲ですら歌わせることができるそのソフトに、兄は夢中になった。
良亮の死の真相が知りたくて、ノートパソコンの中をあれこれ調べていたときに見つけたのが、作りかけの楽曲だった。
『鏡仕掛けのMIRA』。一番のBメロまで作られて、肝心のサビがない曲を、望美はなんとか完成させようと躍起になっている。
これは、兄の遺作だ。歌は普通の文章以上に、感情が込められたもの。肉声ではなく、機械で合成された音声であっても、それは同じだ。遺書以上に、遺書のようなもの。
幸い、歌詞についてはテキストファイルも発掘された。望美がすべきことは半分になった。曲を完成させ、兄名義のアカウントで動画をアップするのである。
ヘッドホンをしての作業は、勝手がわからずに行き詰まりがちだった。公式サイトや、実際の利用者のブログと編集画面を何度も行き来して、どうにか操作方法は理解した。
しかし、望美には圧倒的に不足しているものがあった。
耳元で流れるメロディが、人に聴かせるに足るものかどうかの判断ができない。
味音痴の料理人がいないのと同じで、音痴は作曲家にはなれない。
確認のために最初から再生すると、兄が作っていた部分までは、ちゃんとした曲になっている。
だが、望美が引き継いだ箇所にさしかかると、途端にへにゃへにゃとした、迫力のないものになる。使っているソフトは同じなのに。 今日も今日とて、修正を諦めた望美は、「良亮」とフォルダ分けしたブックマークから、動画投稿サイトをクリックした。ログインしたままになっているのは、兄のアカウントである。
ぽてさらP。兄のアップロードした楽曲は、ボーカロイドの女の子のイラストが一枚映し出されるだけの、紙芝居レベルにすらなっていないものだ。動画とは、とても言えない。イラストは、誠が知り合いに頼んで描いてもらったらしい。
再生回数は……兄の名誉のために、望美はあまり見ないことにしている。
そのかわりといってはなんだが、コメント欄は頻繁にチェックしていた。最新順に並んでいる動画の感想は、一年以上前のものがトップに来ている。今日も増えていない。
良亮はいなくなっても、彼の作ったものは残っている。誰の目にも止まらずに、ひっそりと。
動画を再生する。ヘッドホンの中で鳴り響く、機械の女の子の歌声に、望美は目を閉じた。
この動画に感想を投稿した人は、誰もぽてさらPが死んだことを知らない。望美は曲を聞き流しながら――もう何十回も、何百回も聞き返しているから、頭には入ってこないのだ――、SNSをぽてさらPの名前で検索する。
目を皿にして、探す。兄が自殺した理由を。彼を苦しめた何か。望美はそれを知りたかった。
誰かに誹謗中傷を受けていた? ネットで活動していたんだから、そういうこともあるかもしれない。
けれど見つかるのは、兄自身の「動画投稿しました」という短い告知文だけだった。仲良くしていた人物も、特に見当たらない。
『最近、ぽてさらP見ないよね。何してんだろ』
なんて声もない。ネット上ではいろんな曲が流行り廃り、弱小作曲家に注目は集まらない。
ぽてさらPが死んだことを知らない人たちの元に、新曲をリリースする。
この行為は、望美にとっては贖罪、そして意趣返しだ。
良亮の苦しみを知らず、のんきに高校生活を送っていた。最も頻繁に連絡を取り合っていたのは、自分だ。母でも、祖父母でもない。妹を蔑ろにする大人たちと、兄は距離を置いていた。
メッセージの端々に、苦悩の跡を見て取ることができなかったのは、自分の落ち度だ。
彼が最後に作りたかった曲を完成させれば、許されるまではいかずとも、兄に顔向けができる。そして、兄の死をもたらした連中に突きつけ、驚かせてやる。
そう決意して、音楽が苦手な望美は、ちょこちょこと時間のあるときに作曲もどきをしている。完成はまだ見えない。
歌詞に目をやる。最初はこの言葉の中に、彼が死んだ動機が隠されているのではないかと、夜通し読み込んだものだ。
暗号かもしれないと、ローマ字に変換して一個ずつずらしてみたり、あれこれと試した。しかし、何の意味もなかった。
気にかかるとすれば、タイトルにもある『MIRA』だ。
兄のアカウントのブックマークを確認する。
MIRAというのは、「歌ってみた」動画をアップしていた、いわゆる歌い手だ。
洋楽やJポップを始め、人間には難易度の高いボカロ曲にも精力的に挑戦していた。顔出しなしで、兄よりもよほど有名だった。赤い髪で鋭い目つきの、中性的な女性キャラクターがひとり歩きしていた。ファンから贈られたイラストを動画にも使っていたから、本人も気に入っていたのかもしれない。
すべて過去形なのは、兄の死の少し前から、MIRAの動画も止まっているからだ。こちらはぽてさらPとは違い、フォロワーがたくさんいた。活動停止から一年が経過してもなお、MIRAの動画をSNSで紹介したり、活動再開を熱望するファンがいる。
活動停止した時期が同じだからなんだ、という気もする。けれど、彼女にあてたであろう兄の詞は、何やら意味ありげだ。
彼女の歌は、もう何度も聴いた。力強く歌い上げる、少し嗄れている歌声。低音から高音まで、一気に駆け上がる音階は、気持ちがよかった。音楽素人の望美にも、才能があることはわかった。
望美は関連動画のサムネイルに飛び、ボーカロイドによるもの、人間によるもの問わず、動画を延々と見続けた。人気のあるもの、ないもの、いろいろだ。
これから自分が手がける楽曲の参考になるかといえば、ならない。音楽センスのない望美が、流行っている曲の分析なんてできるはずもないし、新鮮なハーモニーと不愉快な響きは紙一重で、後者に寄ってしまうのは、目に見えていた。
ぼーっと曲を動画を見ていると、急に音が遠くなった。ヘッドホンを取り上げられたのだ。
驚いて見上げれば、鏡花であった。
望美のヘッドホンを持ったまま、彼女はぐっと眉根に力を入れて、怖い顔を作っている。
「もうお風呂の時間、終わるよ?」
ハッとしてディスプレイの時計を見れば、もう二十二時近い。慌ててノートパソコンを閉じて、部屋に戻ろうとしたところで、「待って」と、鏡花が覗き込んでくる。
うわ、ばれた。
こういう文化は親しんできたかそうじゃないかで、受け入れられるかどうかが決まる。
鏡花は今でこそ清楚な修道女見習いだが、中身は違う。
喫煙歴も堂に入った元ヤンだ。二十代半ばで、コンビニでの注文に慣れた調子だったということは、きっと未成年の頃から……。
笑われる、馬鹿にされる。そういう反応が嫌で、菜々のいる部屋を出て、わざわざ談話室の隅にいるのに。
望美の心配は、しかし、あっさりと打ち消された。
「懐かし~」
鏡花ははしゃいだ声をあげた。女子高生に囲まれた生活を送っていると、マインドも似てくるものだろうか。一般的な女子高生よりも陰気な望美は、ふとそんなことを思った。
「初音ミクじゃん。ボカロ、いろんな曲あっていいよね」
「えっ……好き、なんですか?」
修道服は着ていても、不良少女の面影を強く残す鏡花の口から、「初音ミク」という言葉が出てくるとは思わなかった。恐る恐る尋ねた望美に、「うん、わりと」と、屈託なく彼女は答える。
「カラオケにも入ってるからね。よく歌ったよ」
歌った?
「聖歌は、口パクなのに?」
望美がこぼした疑問に、鏡花は目を見開いた。
とっさに取り繕うことができるほど、望美の舌は上手に回らない。
「えっと、その……」
「気づいてたんだ?」
イメージ通りのサバサバした口調の鏡花は、気にした様子がない。
望美は肩の力を抜き、頷いた。
「私も口パクだから」
「なんで?」
「お、音痴なので」
恥ずかしい秘密を明かし、頬を赤らめた望美とは対照的に、鏡花は「そう」とだけ言った。それから気を取り直し、
「ほら、お風呂お風呂! お湯落としちゃうよ」
と、望美を追い立てた。
大浴場以外に、シャワーブースもあるのだが、温度と湯量の調節が難しく、生理中以外は使いたくない。
望美は今度こそノートパソコンを閉じて、一度部屋に引っ込んだ。
自分の部屋に入るときでも、寮生活ではノック必須だ。ひとり部屋でない以上、お互いに気を遣わなければならない。
だが、一年経っても、望美の頭からは時折そのルールが抜け落ちてしまう。
扉を開けると、ガタン、と大きな音がした。何事かと思えば、菜々が立ち尽くし、こちらを見ている。
「粟屋(あわや)さん?」
彼女の立ち位置が問題だった。壁にぴったりくっついて二段ベッド。その奥が菜々の机で、ドアを入ってまず目に入るのは、望美の机だ。
菜々は、自分の机ではなく、望美の机のすぐ傍に立っていた。
「何してるの?」
引き出しの中には、見られたくないものがある。
まさか、さっきの大きな音は?
確かめるのも恐ろしく、強ばった顔のまま、望美は菜々にじりじりと詰め寄っていく。
「ごめん! 勝手に辞書借りようとした!」
「辞書って……」
「英和は持ってるけど、国語辞典は持ってないもん」
望美の机の上には、一通り揃っている。ブックエンドの隣に置いてある国語辞典を、望美は「はい」と、手渡した。
「お風呂行ってくるから、使い終わったら、絶対ここに戻して」
言外に、「他の場所に触れてくれるなよ」を滲ませる。菜々は神妙な顔で、「うん。サンキュ」と言い、自分の机に向き直る。
現代文の教科書を取り出しているから、本当に国語辞典が必要だったのだろう。
緊張をにわかに解いた望美の耳に、寮内アナウンスが流れる。
『大浴場は二十二時半までです。利用する寮生はお急ぎください……』
「やばっ」
ノートパソコンを机の上に置き、望美は入浴セットを引っつかんで、部屋を飛び出した。
菜々の行動に引っかかった結果もあり、「そういえば、なんで歌うのが好きなのに、鏡花は口パクなんだろう」と疑問を抱いたのは、湯船に浸かって、息を吐き出してからのことだった。
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