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文化祭も終わり、残すところ大きな行事は、修学旅行だった。
月一の実家詣での際に、望美は祖母に、「来月は修学旅行で東京へ行きます」と告げた。あまり顔を見ずに済むように、食事の下ごしらえをしながらである。
祖母はフライパンを使う手を止めた。
予想通りの反応に、望美は笑いそうになる。付け合わせの野菜の皮剥きに集中している素振りで、耳だけ傾ける。
行くな、とは言われないだろう。祖父母にとっては体裁が大事だ。孫息子を亡くした今(よほど近しい人間以外は、自死だということは知らないものの)、残された孫娘を冷遇していると知られれば、何かと勘ぐられてしまう。
それに、積み立て金だってすでに支払い済みなのだ。行かなくたって、全額戻ってくるわけではない。金持ちのくせにケチだ。ケチだから金持ちなのかもしれない。
祖母は深々と溜息をついた後で、「あまりはしゃぎすぎないように」と言った。
「それから、小遣いはなしだからね」
わかっています、と言葉にはしなかった。小さく頷いて、出来上がった食事を運ぶ。自分の食事は後回しで、祖父母が食卓についている間、望美は母に食べさせなければならない。
一応ドアをノックするものの、当然、反応はない。
「お母さん、入るよ」
返事を待たず、入室する。
今日の母は、機嫌がよかった。古いアルバムを開き、楽しそうにしている。ホッとして、小さいテーブルにトレイを置いた。
「お昼ご飯だよ」
咀嚼する力も弱くなった母のため、リゾットである。野菜は徹底的に細かく刻み、肉はあまり入っていない。トマト味は母のお気に入りで、いつもなら匂いを感じ取ったらすぐに、「ごはん!」と、食いついてくるのだが、今日はアルバムの方が大切らしかった。
望美は彼女の手元を覗き込んだ。てっきり兄の写真だけが収められているのかと思っていたが、母が指さし微笑んでいるのは、赤ん坊の望美が転がっている写真だった。
淡いピンクのロンバースを着て、眠いのか、目を細めて不細工な顔をしている。自分でなければ、赤ちゃんらしくて可愛いと思うところだが、いくら記憶にない頃の話とはいえ、自身を可愛いと言うのは憚られた。
母の目は優しかった。赤ん坊の写真を指でなぞっては、「女の子は可愛いわよね。いろんなお洋服を着せたいわ」と、夢見る少女のように言う。
どうやら、今日の彼女は若い頃に戻ってしまっているようだ。望美だけでなく、良亮のことも知らない、赤の他人の幼子だと思い込んでいて、「可愛い。私も産みたい」と楽しそうにしている。
お母さん、と呼びかけるのは、母の幸福なひとときを邪魔することになる。
「梓さん、お昼ご飯だよ」
母の名前を、生まれて初めて呼んだ。母にも名前があることを、強く意識する。
夫に離縁された娘を、祖父は「できそこない」「おい」と呼び、祖母は「あんた」と呼ぶ。誰も、母の名を口にしない。
なんだか照れくさくて、目を合わせずに再び昼食を促すと、ようやく母はこちらを向いた。
写真の赤ん坊が成長した姿が目の前にあるというのに、彼女は「あら、おいしそうね」と、リゾットに視線が釘付けだ。
機嫌が悪く、暴れて手がつけられないときは、きっと望美だけじゃなく、祖父母や通いのヘルパーもみんな、人間ではない化け物に見えているのだろう。翻訳できない叫び声は、聞いているだけで胸が苦しくなる。
今の自分は、母にはどんな風に見えているのか。エプロンをしているから、新しく雇った家政婦か。それとも、女子高生気分だから、友達が遊びに来たとでも思っているのか。
ベッドサイドの椅子に座り、ふぅふぅと冷ましてから、口元に運ぶ。
「あらやだ、自分でできるわ」
そう言いつつも、されるがままだ。
「おいしい?」
「うん」
夢中で咀嚼する母は、年の割に可愛らしい。兄が死んでからの不摂生で、頬はこけてしまっている。
鏡を見る度に思う。誰とも知らない父親に似ているのだろう、と。街中でうっかり、同じ顔をした男に会うことはない。母が男漁りをしていたのは、この街ではない。
亡き兄、良亮も父親似だった。母方の遺伝子は、男のものと混じると消えてしまう儚いものなのかもしれない。兄妹ふたりとも、祖父母どちらにも似ていない。
母に似ていたらなあ、という気持ちと、それから似なくてよかったという気持ちは半々だ。
娘の存在を完全に消した母が、望美の顔を見てパニックに陥ることがない分、こうなっては似なくてよかった気持ちの方が、わずかに勝つかもしれない。
リゾットが半分なくなったところで、望美は一度、食器を置いた。
「ねぇ、梓さん」
「んー?」
彼女が自分を思い出すことは、もうないだろう。それでも、少しでも母に自身のことを考えてもらいたいと思うのは、娘としてのエゴだろうか。
「あのね、今度東京に行くんだけど、お土産、なにが……」
発狂のトリガーが、そのセリフに含まれていると、望美は気がつかなかった。
なにが欲しい?
最後まで尋ねることはできなかった。サイドボードに置いた器を、狂乱した母親が、薙ぎ払ったのが、手に直撃する。中身がぶちまけられて、熱い、と手を引っ込めるも、じわじわと痛みを発した。
「あず、おかあさ」
「東京? 良亮、りょうすけ……りょうちゃん、どこ? りょうちゃん! りょうちゃんを私から奪う気!? 渡さないわよ、泥棒猫!!」
母の目には、先ほどまでの穏やかさは一切ない。宿っているのは、狂気と憎悪だ。開いていたアルバムを、望美の方に向かって投げる。手当たり次第に掴んだものを投げつけてくるため、しゃがみこんで顔をかばうので精一杯だった。
「何をしているの!」
暴れている音を聞きつけて、祖父母が慌ててやってくる。
母を一目見た瞬間、「今日は落ち着いていたのに」と落胆し、望美にはきつい視線を向ける。
「どうせ、お前が余計なことをしたんだろう」と。
痩せ細った母を、同じく枯れた祖父が押さえつける。ギリギリの攻防戦を、望美はただ、呆然と見つめていた。祖母が電話で救急車の要請をしているから、このまま連れて行かれて、入院になる。
「あんた、出て行きなさいっ!」
元凶となった望美が視界に入ると、母親は余計に暴れ回る。祖母はキンキンと高い声で、望美を追い出しにかかる。この場にいなくていいのなら、むしろありがたかった。
這々の体で逃げ出した望美は、急ぎ足でバス停へと向かう。喧噪はもう、遠くなった。
おそらく母は、「東京」という言葉で、兄の死に引き戻されたのだ。
大学のときから、兄は東京でひとり暮らしをしていた。母の目の届かぬ場所で、自死を選んだ。彼の住むアパートの惨状を望美は知らないが、母は確認している。その記憶が蘇ったのだろう。
これまでの経験から、おそらく一度入院すると、一ヶ月は出てこられない。
来月は、行くとしても病院だ。あの家に帰らなくて済むと思うと、少しだけ清々した。
「あー……おなか空いた」
結局、食べ損ねた。買い食いするのももったいないし、寮に戻って、食堂で何か残っていないか聞いてみよう。
空腹と同時に、手の甲が痛んだ。リゾットをかぶったせいで、赤くなっている。痛みすら忘れてしまうくらい、母の狂気に飲み込まれていた。
刻々と近づいてくるサイレンの音から、望美は早足で遠ざかっていく。
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