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<4-1話
千尋の部屋に向かうまでに案の定、二人ともびしょ濡れになった。Tシャツの裾が絞れそうなほどの、見事なまでの濡れ鼠だ。玄関先で靴とともに靴下まで脱いだ千尋は、靖男を待たせておいてタオルを二枚持ってきた。
「今お風呂沸かしちゃうから」
濡れるとやっぱり寒いからね、と微笑んだ千尋はいつもどおりだったけれど、靖男の心中はいつもどおりとは言い難い。アダルトDVDを見るという自分の快楽のためだけに千尋の家を訪れるときとは、少し違う緊張感があった。
外ではまだ雨が降っている。窓の外を眺めた千尋は、今日は泊まっていった方がいいかもな、と独り言のように言った。自分に向けられていると気づいたのは、千尋が自分を注視していたからだ。
「ああ、まぁな」
泊まる、という単語になぜか反応をしてしまいそうになる。大勢の飲み会で雑魚寝することはあっても、面と向かって「泊まる?」なんて聞かれることは、男同士の間柄ではそう多くはなかった。
「洗い物は置いておいて。乾燥機までかけちゃうから」
十分に温まって風呂を出ると、着替えが置いてあった。下着は新品だ。千尋がバランスの悪い体型でよかった。身長に見合う体格であったならば、パンツはずり落ちるわシャツはぶかぶかだわ、みっともないことになっていただろう。
着てみると案の定ぴったりサイズで、おそらくこの服は買ってはみたものの、丈が短くて箪笥の奥にしまわれていたものなのだろうな、と漠然と思った。
リビングへ向かうと、キッチンからはいい匂いがした。顔を覗かせると、タオルを肩にかけた状態で千尋は調理に励んでいる。
千尋は靖男があがってきたことに気がつくと、振り返った。そのときに髪の毛の先から雫が滴り落ちた。彼は靖男に野菜炒めを渡すと、冷蔵庫の中からチューハイを差し出した。
「とりあえずそれで飲んでて。俺、風呂入ってくるから」
すぐ出てきて他のもの準備するから、と言いながら千尋はくしゅん、とくしゃみを一つ。靖男を優先的に風呂で温まらせておいて、自分は髪の毛を拭くのも適当で、それで風邪をひいたら馬鹿だ。
彼の肩にかかっていたタオルを取る。驚いている千尋の頭にふわりとタオルをかけてやった。背伸びしないと届かないのが悔しいけれど、なんとか手を伸ばして彼の髪の毛をがしがしと拭いた。
「ゆっくりでいいから! ちゃんとあったまってこいよな」
そう言った靖男に対して、千尋は微笑んで「うん。そうする」と言い切らないうちに、またくしゃみをした。
浴室へと向かう千尋を見送って、靖男はやはりなんとなく落ち着かない。ちびちびとレモンチューハイを飲みながら、千尋の作った野菜炒めを食べる。
耳をすませば浴室からシャワーのかすかな水音が聞こえてくる。シャワー音はすなわち、脳内でセックスと直結する。まるで女が出てくるのを待っているような気持ちになる。風呂場にいるのは男だというのに。
自分の咀嚼音と浴室からの水音だけが聞こえる部屋に、突然電子音が響いた。自分のかと思ったが違う。きょろきょろと辺りを見渡すと、千尋の携帯電話が明滅していた。
誰だろう。親とかだったら緊急の可能性もあるから持って行ってやろう。そう親切心を出したのが、間違いだった。
表示されていたのは一番見たくなかった名前。佐川先輩、と出ているのを見た瞬間に、腹の奥が冷えた。
>4-3話
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