<<はじめから読む!
<19話
バイトを早めに切り上げて、雪彦は幹也の家に戻ってきた。堂々と合鍵を使い、中に入る。冷蔵庫にすぐに食べられる食糧が入っていることや、雪彦が看病のために泊まることは、置手紙にしてきたから、驚きはしないはず。
眠っているかもしれないことを考慮して、呼び鈴を鳴らさずに、部屋も合鍵で開けた。電気がついているので、どうやら起きているようだ。少しは復調したのだろうか。肩から力を抜いて、靴を脱いだ。
「あ。お帰りなさい」
ひび割れた声に、雪彦はどう応えるべきか悩んだ。ここは幹也の家であって、自分の家ではない。「お帰りなさい」ではなく、「いらっしゃい」がふさわしい。だが、訂正しなかった。そわそわと期待に満ちた目で見上げられた雪彦に、許されたのはたった一言。
「ただいま」
それこそ家族であればなんでもない、普通の挨拶だ。なのに、幹也はとても嬉しそうに笑った。
「熱は下がったのか?」
額に貼った冷却シートは、すでに用をなさなくなっている。よれよれになったシートをはがして、幹也の額に触れる。まだだいぶ熱いし、顔も赤い。一日や二日で治りそうもないと判断した。明日は土曜日だから、月曜日までに回復すればいいのだが。
「せっかく起きたんだし、身体拭いてパジャマ着替えろ」
「え……」
もじもじと、今更何を照れているのか。この間、ほぼ全裸みたいな状態で尻を叩かれて、パンツを汚したのはどこのどいつだ。
雪彦は恥じらう幹也をスルーして寝室に向かい、下着とパジャマを取りに行った。相変わらずのTバックである。赤も黒も、この間のことを思い出してしまうため、グレイのパンツを手に取って、リビングに戻る。
「ほれ。脱げ」
「うー……はい」
男を脱がせる趣味はない。熱めの湯を張った洗面器にタオルを入れて、硬く絞る。パジャマを脱いで、上半身をさらした幹也に、背中を向けるように言った。
「痛かったら言えよ」
「いや、むしろ痛い方が」
病人が何を言ってやがる。雪彦は黙殺した。温かいタオルで汗を拭いていくと、幹也の口からホッと息が漏れる。この間のことを思い出してしまった雪彦は、一瞬手を止めた。不審に思われないように、すぐに再開したが、少し強く擦ってしまい、結局幹也を喜ばせる結果になってしまった。
「前は自分でやれよ」
タオルを絞って渡し、雪彦もシャワーを借りることにする。
「Tシャツとかは自由になんでも使ってください。あ、パンツは未開封のがタンスに……」
「パンツはコンビニで買った!」
未使用とはいえ、あんなパンツを穿けるか!
身体を拭いてパジャマを着替え終わった幹也は、「蒸れなくて快適なのに」とTバックを推奨するが、雪彦は決して騙されない。
「本音は?」
「叩かれるのに、布は一枚でも少ない方がいい」
喋っていると、こちらの方が熱が上がりそうだ。薬を飲ませて冷却シートを貼り直し、ベッドへと誘導する。寝そべった幹也の上に布団をかけて、ポンポン、と叩いてやると、赤い顔の彼は、嬉しそうに笑った。
「こうやって、誰かに看病してもらうのって、嬉しいものなんですね」
「……そうか」
雪彦は言って、頭を撫でてやった。たぶんこの大きな子供は、愛情のこもった手を知らない。「君は何も知らない」と、暗に非難する早川の目を思い出した。
「早く治せよ……治ったらまた、その……」
成り行きでなったご主人様というポジションだが、もしも自分が本当の主人になったとき、幹也の孤独を救うことはできるのか。
語尾がごにょごにょと消え去るも、幹也はきちんと聞き取っていて、楽しそうに目を光らせた。
「それはそれは、早く治さないと」
ぐふふ、と不気味に笑う彼の脳内で一体何が行われているのか。知りたくなくても、近いうちに知ることになる。だから今、追及することはない。
雪彦は「おやすみ」と声をかけて、寝室を退出した。
>21話
コメント