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<25話
それから他愛のない話をして、そろそろ昼休みも終わり、再びカンファレンスルームに集合する時間になる。二人は食器を下げようと、席を立った。
「美味しかったですね」
「俺は醤油の味しかしなかったけどな……」
と、笑い話に夢中になっていたら、向かい側からやってきた人物に気づかず、雪彦は白衣姿の人物にぶつかってしまった。
「あ、すいません」
白衣姿だったため、相手がこの大学病院の勤務医であることがわかった。雪彦は軽く謝罪したが、もう一度ちゃんと謝っておいた方がいいだろうと、相手に向き直る。
だが、ぶつかった男が見ていたのは、雪彦ではなかった。背後に隠れ切れずにいる幹也に、嘲るような目を向けている。
知り合いか?
男は三十代前半。眼鏡をかけているが、これがまったく似合っていない。ただでさえ肉に埋もれて細く小さい目が、より矮小化して見える。でっぷりとした巨体は、雪彦の尊敬する先生とは違い、安心感は得られそうもなく、愚鈍さを強調している。白衣のボタンは、今にもはちきれそうだ。
背後をちらりと確認すると、幹也の目の奥には、怯えの色が見えた。身長も体力も、何もかも勝っているはずなのに、男の眼前に晒された幹也は、小さな子供のようだった。
「幹也じゃないか」
「……お兄さん」
甲高い声で偉そうに言う男に、幹也は信じられない呼称で呼びかけた。驚いて男を二度見した。
「どうやら大学では優秀らしいじゃないか」
どう考えても、優秀な弟を褒める口調ではない。
「別に、そんなことは……」
食堂中の注目を集めているのが、よほど気持ちいいのか、男は胸を張っている。腹を突き出しているようにしか見えない。
「だが、お前がいくら賢くても、所詮は愛人の子。病院を継ぐのは俺だ。来月の経営会議が楽しみだな!」
雪彦の知らない個人情報が、兄の口から勝手に公開される。どうりで似ていないわけだ。顔も、頭の中身も。こんな場所で、父の不祥事を堂々と喧伝するなど、あまりに愚かだ。
「なんといっても、お前は……だからな」
幹也の耳元に、兄は囁いた。はっきりと聞き取れたわけじゃない。ただ、雪彦の耳には、こう聞こえた。
「人殺し」と。
幹也はますます青ざめて、震えている。無視すればいいのに、幹也は年の離れた兄に強く出られず、大きな身体を萎縮させるばかりだ。
俺が守らなきゃ。
咄嗟に身体が動いた。一歩前に出て、男の腹すれすれまで迫る。ただでさえ鋭い目つきである。意図的に睨みつければ、期待以上の効果が表れる。
男は年下の雪彦の迫力に、一気に引いた。
「な、なんだよ」
ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。声音は平坦なまま、目の力は抜かない。
「お兄さん。俺たちそろそろ行かなきゃならないんで、失礼しますね」
そう言った後、雪彦は幹也の背を押して、さっさと食堂を抜け出した。
「お前がどこの誰でも、関係ないからな」
押し黙ったまま下を向いて歩いている幹也に声をかけると、彼はぎゅっと雪彦の服の裾を掴んだ。
まるで、迷子の子供がようやく頼れる大人を見つけたかのように。
「雪彦さん……今日、うちに来て」
そう請われて、雪彦が否を唱えることができるはずがなかった。
>27話
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