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<7話
両隣で居眠りをする友人たちと一緒のときは、雪彦も「まぁいいか」と流されがちだった。朱に交われば、なんとやらである。ヤンキーに囲まれているときは、自分もヤンキーになる。無気力なモラトリアム大学生と過ごしていれば、どんなに努力して入った大学であっても、漫然と過ごすことになる。
最前列で聴講することになり、隣にいる幹也は、静かに集中していた。横顔にはやる気が満ち溢れている。感化されて、雪彦もまっすぐ前を向き、板書を写し、口頭での説明もメモをする。すると、講師の語り口調やレジュメの工夫が見て取れて、哲学というのがなかなかに興味深い学問であることがわかり始める。
人の生き死にに関わる医者という仕事は、時に自らの力の及ばなさを痛感することもある。近い将来、直面するだろうこの事態に、雪彦はこの講師の話を思い出したいと感じた。
講義も終盤、関係のない話に脱線し始めたとき、雪彦のレジュメの端に、幹也は何事かを書き留めた。講師の顔からなるべく視線を逸らさずに、ちらちらと横目で窺う。書き終えた幹也は、音を立てずに指をぽんぽん、と叩いて示した。
『今日、うちに来ませんか?』
流麗な文字だった。思わず、「小さい頃習字とかやってた?」と、お誘いとはまるで無関係の質問を返しそうになる。ひらがなと漢字の大きさのバランスがよく、大人っぽい字だ。
その下に返事を書かなければならないことを、躊躇する。雪彦はお世辞にも、字が上手いとはいえない。まっすぐに書こうとしても、どうしても右肩上がりになる癖がある。
『いやだ』
結局、返事はひらがな三文字。
『なんで』
同じく三文字で返してくる。大人の字と子供の字が並んでいて、親子の交換日記のようだ。
『なんででも』
必要以上にガキのような言葉を書いてしまい、雪彦は赤面した。
だが、「お前の家になんか行ったら、どんなプレイをやらされるかわからないだろ」と、正確な理由を書くのは憚られた。
幹也は唇にボールペンを押し当てて、少し考える素振りを見せると、さらさらと禁断の呪文を書き込んでいく。
『ユキヒョウ』
卑怯者め。
雪彦はレジュメをぐしゃりと握りしめた。答えは聞かずともわかったようで、幹也は声なく笑う。
同時に、終業の時刻を告げるチャイムが、教室に響いた。
>9話
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