四月。気温の上昇とともに、新たな出会いに浮足立つ季節である。
学生であれば、例えば新たな友人が増えるチャンスであったり、そこから恋仲に発展する、という可能性もあるかもしれない。
先日の入社式をもって、晴れて株式会社キャワイの社員となった横山紫郎も、不安と同じくらい、出会いに期待をしていた。
本社採用となった同期の数は三十名ほど。キャワイは全国各地のショッピングセンターに、直営の雑貨店・ファンシーショップ・百円ショップを運営している会社だ。また、オリジナルの商品も作っている。
顧客ターゲットが二十代~四十代の女性ということもあって、同期には女性社員の方が多い。眼鏡のレンズに指紋がついていないかだとか、ネクタイが曲がっていないかだとか、そういうことが気になって何度も直してしまうのも、仕方がない。
「横山くん、おはよう」
「おはよう、山本さん」
ちょうど、新人研修で同じ班である女性社員が、隣に腰を下ろした。入社して一週間、紫郎たちはビジネスマナーと接客マナーを叩き込まれて、いよいよ店舗研修に臨む。今日はその任命式である。
本社の総合職採用である紫郎たちは、最終的には店で働く人々を動かす立場になる。
現場の実情との乖離は、店で接客をする社員・アルバイトとの軋轢を生む。そして働く人間の不満は、客にも伝わるものだ。
店舗研修で現場を知り、接客の何たるかを、新入社員は半年の間、叩き込まれるのである。
「男子は百円ショップの方がいい、みたいな話を聞いたけど」
「あー、まあ、ね」
女性向けグッズがメインの商売のため、社員のみならずアルバイトも、どうしても女性が多い。雑貨店やファンシーショップに配属になると、黒一点となってしまう可能性が非常に高かった。
紫郎自身はさほど気にしていないが、中にはそわそわと落ち着かない人間もいる。
「逆に、女子が多いところがいいと思ってる人もいるみたいだけどね」
私、あの人苦手。
山本が眉を顰めて見やった先には、大人しい女子社員に絡みにいっている同期の男がいる。短くツンツンに立てた茶髪は、入社式が終わって翌日には染められていたものだ。
同性であっても、あの男とはなるべく関わり合いになりたくない。女子社員であれば、なおさらだろう。
紫郎だって自分から絡みに行くのは嫌だったが、迷惑そうにしている子がかわいそうだった。
溜息をついて離席すると、誰もが見て見ぬふりをしているところに話しかけた。
「浅田。もうすぐ時間だ。自分の席に着いた方がいいんじゃないか?」
紫郎の登場に、浅田は気がそがれたとでもいうように、鼻で笑い、自分の席に着いた。彼の隣近所は男性社員で固められており、つまらなさそうにしている。
「横山くん、ナイス」
自席に戻ると、山本が親指を立ててくれた。いい子ちゃんぶりやがって、と浅田は毒づいているが、周囲はまっとうに、自分のことを評価してくれるのが嬉しい。
それから、他愛のない雑談を続けていると、進行の人事部の社員が会議室に入ってきたので口を噤み、前を向いた。
この広さで必要とは思えないマイクをテストして、いよいよ任命式である。
ありがたいお話を専務から聞き、背筋をピンと伸ばして座っていた紫郎の視界の端で、扉が開く気配がした。自然とそちらに視線が向く。
「あ~。遅れていた店舗統括マネージャーがいらしたので、さっそく始めます」
店舗統括マネージャー。つまりは、店舗運営にまつわる最高責任者だ。入社式の際には、地方支社の方のそれに参加していて、不在だったのだが。
この人が?
新人のものとは明らかに違う、上質なスーツが、ガッチリとした体形によく似合う。上半身、下半身ともに屈強そうなのに、腰だけが妙に細く見える。
統括マネージャーという地位に見合ったものを身に着け、しかもそれが自分に似合うことをよく知っている男は、微笑みを浮かべて、新人たちを見渡した。
前髪をさらりと撫でつけているが、ガチガチに固めているわけではなく、ふとした瞬間に、はらりと落ちる。
切れ長の瞳は一見冷たそうだ。これで細く吊り上がった眉だとしたら、お近づきになりがたいが、男の眉は太く、愛嬌がある形を計算し、整えられている。
一番の特徴は口で、むにっと肉厚なものであった。隣から、「リップ塗ったら映えそう」と、怖いもの知らずの呟きが発せられていたが、紫郎は彼女を咎めることをしなかった。
ただ、男から目を離せなかった。
「店舗統括マネージャーの河合孝之です。店舗研修期間中は、皆さんのフォローに入りますので、なんでも相談してください。よろしく」
簡潔な挨拶と洒脱な雰囲気に、緊張していた新入社員たちは肩の力を抜いたが、紫郎だけは逆に、身をこわばらせていた。
――なんで、この人がここにいるんだ。いや、だからこそあのとき、このハンカチを……。
紫郎はポケットの中のハンカチを取り出し、ぎゅっと握り締めた。
男が使うには可愛らしい、猫の柄のハンカチは、この会社のオリジナル商品であった。自分の趣味で買ったものではない。
ひとりひとり名前を呼ばれ、孝之から辞令を受け取っていく。顔色で、どこのどういう店舗になったのかがなんとなくわかるが、紫郎はそれどころじゃなかった。冷や汗が流れていく。
――いや、まだわからん。覚えているのは俺だけかもしれない。ほら、だってあのときとは俺、全然違うから!
「横山紫郎……横山?」
「うぁっはい!」
余計なことを考えていたせいで、紫郎は一度の呼び出しで返事ができず、しかも声がひっくり返った。女子たちにクスクス笑われて、浅田はにやにやと馬鹿にしてくる。顔が赤くなった。
キビキビと、というよりもカチンコチンになりながら、歩みを進めて孝之の前に出る。右足と右手が同時に出ていやしないか、心臓の音がうるさくて、紫郎は彼の顔を正面から見たくないのに、どうしても見てしまう。
万が一、この人が俺のことを覚えていたとしたら……。
途端に、クビを言い渡されるビジョンが浮かんだ。身震いをする紫郎の顔をちらりと見て、孝之は頼れる上司の顔で、「横山紫郎。マルフィ新宿店での研修を命ずる」と、紙をぺらりと渡してきた。
名前を見ても反応しないということは、俺の勝ちだ! 忘れられている!
内心で喜んだのもつかの間。
「……シロくん、元気そうだね?」
と、孝之は誰にも聞こえない声で、今となっては誰も知らないはずのニックネームで紫郎のことを呼んだ。
無理矢理笑みを作って、「ええ、はい、まぁ」と応えたときには、「終わった……俺の社会人生活、もう終わりだ……」と、燃え尽きていた。
こんな出会いは求めていなかった。横山紫郎、二十二の春であった。
>(2)


コメント