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紫郎の家は、そこそこ裕福だった。
父は弁護士をしていて、様々な企業と契約していた。母は働かなくても生活できていたし、美しい(紫郎はバケモノじみた顔しか知らないが)妻に好きなことをさせてやれることこそ、男の甲斐性であると、父親は信じていた。
普通の人間なら、ぽんと大金を渡されて、「好きに使いなさい」と言われても、遠慮が勝つ。
しかし、紫郎の母は怪物だった。
日々の小遣いはおろか、生活費まで遊興費に使った。鞄や服、化粧品のショッピングに始まり、エステに高級なランチ。徒歩でいける距離でも必ずタクシーを使う生活。
果ては紫郎の教育費にまで手を付けた母親が、ただの金食い虫であったなら、家計管理を父が行うことで、ある程度解決できたかもしれない。
若い男を愛人として囲い、彼に貢いでいたと発覚したのは、紫郎が小学生のときだ。阿鼻叫喚の地獄だった。
母方の祖父母は、自分たちが遊ぶための金は、娘の夫が援助してくれていたからだと知っていた。だから、両親の仲を取り持つようにと、紫郎に猫撫で声ですり寄ってきた。
それまでは、勉強はそこそこできても、男の子らしい活発さに欠ける紫郎のことを、ガミガミと罵ってきていたのに。
逆に、これまで可愛がってくれた父方の祖父母は、「あの女の息子」ということで、辛く当たるようになった。お前が悪いんじゃないが、お前を見ていると、どうしても腹が立つ、と面と向かって言われた。
父親は弁護士のくせに、自分の妻の浮気に対しては、無力だった。本当は、もっと慰謝料を取れたはずだ。使い込みと不倫、両方とも十分な離婚事由になる。
けれど、父は最低限しかとらなかった。愚かだと思った。情けをかけたところで、こういう連中は、感謝したりしない。どころか馬鹿にして、
「女はねぇ、好きじゃない相手とも結婚できるし、子どももつくれるのよ。金さえあればね。あはは。性欲と愛情は向けられないけどね!」
と、当時の紫郎にはわからなかった、しかし、一言一句忘れられない言葉を吐き捨てていった。父子家庭で成長するにつれて、母親だった女の価値観がわかるようになると、吐き気がした。
自分は、そんな女から生まれた人間なのかと絶望した。子どもは愛の結晶だと、学校の先生は言うけれど、そうじゃない子どもだっている。
大学生になって、友人に見せられたのが例のママ活アプリだった。彼は生活に困窮していたわけではない。「ババアはちょっとおだててやれば、いくらでも金出すぞ」と、小遣い稼ぎにママ活をしていた。
アプリ内で顔を隠し、加工された中年女たちの写真を見て、紫郎は幼い頃に自分を捨てた母のことを思い出した。
こいつらは、あの女と一緒だ。夫が一生懸命に働いた稼ぎを食いつぶし、若い男に性欲を向けて、金をつぎ込んでいるのだ。
もちろん、自分でたくさん稼いでいて、癒しを求めて若い男とお喋りをしたいという女性もいるのだろう。しかし、スクロールすれども出てくるのは、煩悩にまみれたバケモノばかりだった。
紫郎のママ活は、復讐だった。
母親は生活費や自分の教育費を、男に使っていた。もうあの女から直接金をとることはできない。どこにいるかすらわからず、一度も会いに来たことはない。養育費は初回から、踏み倒された。
このアプリを使用している女たちとは面識がないが、母親と同じだと思うと、腹が立った。
馬鹿な女は、痛い目を見るべきだ。そして自分は、貢がれる側として、少しくらいは取り戻してもいいのではないか。
よくない思考に陥ったのは、離婚後の父親が見ていられないほど荒れたせいでもあった。
自分の両親は、妻との間にできた孫息子を可愛がらなくなってしまったから、頼ることができない。幼い子どもを抱えて、父は徐々に壊れていった。
それだけ妻のことを、愛していたのだと人は言ったが、ならばその女の息子である自分も同じくらい愛せよ、と思ってしまった。
殴られたりすることはなかったが、父は息子の存在を、時折忘れた。ひとりで生活しているかのように、気ままに振る舞った。食事も出てこないし、明日学校で必要なものを言っても、どうにもならない日があった。
毎日がそうではなく、朝起きたら、普通に「おはよう」と言ってくることも多かった。
父を壊し、自分の穏やかな生活を脅かした女への復讐であったママ活の中で、紫郎はひとつだけ、ルールを定めていた。
絶対に、性的な関係にならないこと。セックスやキスはおろか、ボディタッチも避けた。
だから売れっ子にはなれなかったけれど、適度にチャラついた見た目と、紫郎の生来の生真面目な性格はギャップを産み、そこそこの「ママ」はついた。
幼い頃の恨みつらみが金やブランド品になって晴れていくかと思いきや、全然嬉しくなかった。母の浮気相手の男は、むなしくはなかったのだろうか。その後、男と再婚したという話は聞かない。
今さらになって、復讐すべき本人が現れたところで、紫郎はどうもしない。くたびれた姿を一目見て、だいぶ留飲が下がった。そのくらいのものだ。
大人になった自分は、過去に囚われたりしない。もう、的外れな復讐はやめた。これからは前向きに、人生をやり直すのだ。
あの女には連絡先も教えていないから、これっきりのはずだ。わざわざ店までの道のりも、ぐちゃぐちゃに遠回りして撒いたはずだし。
安心しきっていた紫郎のもとに、母親から電話があったのは、それから一週間後のことだった。
知らない携帯番号から、何度もしつこくかかってくる。間違いに気づいていないのかもしれない。次にかかってきたら出ようと思っていたタイミングで、ちょうど着信した。
「もしもし?」
先ほどから、お間違いではないですか……続けようとした言葉は、喉の奥に貼りついて出てこない。
『あ、紫郎!? よかった、ようやく出てくれたわね』
電話で聞くと、より一層年齢を感じた。無理して若い声をつくっているのが痛々しい。
母さん、という呼びかけよりも先に「どうして?」が来た。
名刺を渡したわけじゃない。父と母が、今更連絡を取り合っているとも思えないし、自分の同意なく電話番号を教えるはずもない。どこから漏れた?
母は笑って、どーだっていいでしょ、と言った。電話の向こうがジャラジャラとうるさい。どうやらパチンコ店にいるらしい。せめて、店を出てからかけてこいよと余計に苛立つ。
「俺仕事中だから、切るよ」
こちらには用事などないし、向こうもパチンコの片手間に連絡を寄越したのなら、大した話はないはずだ。あったところで、聞く義務は紫郎にはないと思っている。
『あ、あ、もうちょっと待ってよ! ……ねぇ、今度一緒に出かけない?』
「出かけない。以上」
そして本当に通話を切ったのだが、以降も日を変えて、電話がかかってくる。いっそ着信拒否してしまおうかと思ったが、二度目の会話のときに、「着拒したら、あんたのいる店に火をつけるからね!?」と、脅迫された。
本気ではないと信じたいが、エキセントリックなところのある女である。何かしでかさないとも限らないし、「店」と言ったということは、あの日、尾行されていたのだろう。紫郎は自分の勤め先を開示していない。
いやはや、参った。
従業員休憩室でぐったりとうなだれた紫郎に、「あら、どうしたの?」と、話しかけてきた人物がいる。
がばっと勢いよく顔を上げる。わかっていたが、声の主は秋田であった。
どういう風の吹き回しだ? にわかに緊張し、眉根を寄せてしまう。表情を取り繕うことなんて、この女の前では関係ない。
「……秋田さんには、関係ないことですね」
「あらそう。プライベートってこと」
ただそれだけ言って、彼女はくすりと笑みを浮かべ、近くの席に座った。
もう俺と関わりたくないんだと思っていたけれど……。
最近はお互いに、存在を無視しあう形になっていた。好意はすでになく、理不尽なことで上から責められた、と向こうは逆恨みしている。
実際にひどい目に遭ったのは、紫郎の方なのに、秋田は「私が怒られる筋合いはない」と、本気で信じていそうだった。
「しつこい女に絡まれて大変、って顔してるわねえ」
なぜわかるのか。閉口した紫郎の反応は、何よりも雄弁な答えになってしまった。
「やだ。本当に女関係のトラブル? あはは」
馬鹿にしやがって、と奥歯を噛みしめた。人目のあるところであろうがなかろうが、反応したら負けだ。
秋田は長い髪の毛を耳にかけて、買ってきたコンビニパスタを食べ始める。
「いいこと教えてあげる。その手の女は、一回付き合ってあげたら、満足するわよ」
あんたとも、一回寝ておけばひどい目には合わなかった、ってか?
お断りだね、と内心で舌を出しつつ、紫郎はできる限り神妙な顔をつくって、食べたくもないおにぎりを口に放り込み、咀嚼した。
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