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別に、秋田のアドバイスを聞き入れたわけではないが、一理あるとも思ったのは事実である。
一回こっきりだと念を押して、母親に会う。その後は、どこで野垂れ死のうと知ったことではない。
そう考えてしまうくらい、電話は昼夜問わずに鳴った。気がおかしくなりそうだった。清水店長にも、「顔色が悪いよ」と指摘され、とうとう早退を促されるほどであった。
いい加減、決着をつけなければならない。
意を決して、こちらから電話をかける。出ない。
あれだけかけまくってくるのだから、暇で暇で仕方なくて、いつだってすぐに出られる状態なのかと思っていた。全然出やしない。
十五コールで、ようやく出た。
『ごめぇん、寝てたぁ』
と、甘えた女の声を作っているので、どうやらこちらが息子だと気づいていないらしい。番号も見ずに出ることに、紫郎は信じられない。
「母さん? 俺だけど」
『あら、紫郎』
途端に低くなる声に、やっぱり会う約束をするのなんてやめようか、と一瞬考えた。ぐっとこらえて、「一回だけ!」と自分に言い聞かせた。
「俺と一緒に出かけたいって話だけど、一回だけなら都合つけて行けるようにする」
記憶の中の母は、気まぐれだった。
明日は動物園に行こうね、と約束をした。わくわくと早朝に起きて「おかーさん、ぞうさん」と起こしたら、「うるさいわね」と、邪見にされ、そのまま昼まで起きなかった。
運動会や親子遠足などの行事も、前日は「行くに決まってるじゃないの。お弁当作って持ってくからね」と言っていても、結局来たことなんて一度もなかった。
だから今回も断ってくれ。いや、この電話では断らなくてもいいから、当日になって「やっぱり気が変わった」であってくれ。そうしたら、一回だけって言ったんだから、もう次はないと、はっきりと拒絶してやる……。
『え? ほんとにぃ? じゃあねえ、来週の日曜日は?』
と、残念ながら、完全に乗り気である。当日のドタキャンに一縷の望みを賭けるしかない。
がっくりしつつ、一方的に告げられた待ち合わせ時間と場所をメモして、紫郎は通話を切った。
これでしばらく、電話攻勢には遭わなくて済む。そう信じたい。
約束の日曜日、待ち合わせは銀座駅。何の因果か、また銀座であった。
先日は、孝之と出会いラッキーだったが、今日は憂鬱だ。待ち合わせ時間まであと十分あるが、すでに帰りたいし、どうか気まぐれを発揮して、すっぽかしてくれと祈る。
十五分待っても来なかったら、今日の約束はなかったことにしようと密かに決めていた紫郎だが、残念ながら、五分後に母親はやってきた。
「お待たせぇ、紫郎ちゃん」
うふ、としなを作って笑う女を、母親だと認めたくない。
若作りの化粧、店に来る十代から二十代の女性客が着ているような、ペラペラのワンピース。普通は下にそれ相応のインナーを身に着けるものだと思うのだが、母はブラとショーツの上に直接羽織っていた。白い薄手の生地から透けて、吐き気がする。
腕を組もうとするのを振りほどいて、「どこ行きたいって?」と、足早にその場を離れる。
「銀座とくれば、ショッピングに決まってるじゃないの」
「……先に言っておくけど、俺は新社会人で、そんなに稼ぎはないんだからな」
父親と一緒だったときと同じように、湯水のごとく使われたら困る。
クレジットカードは持っているが、家賃や光熱費などの、固定費の支払いがメインだ。普通の買い物はいつだって現金払い、デパートの高級品を買うことができるほどの金は、持ってこなかった。
案の定、紫郎の財布をあてにしてきた母は、「えぇ~?」と、口を尖らせた。小さな女の子がやれば可愛い仕草だが、この年齢の女がやると、不気味以外の感想が思い浮かばない。
吐き気は暑さのせいだと言い聞かせる。飲食店に入るだけの分しかないと改めて伝えると、母親の目が据わった。
「何よぉ。本社勤めなんでしょう? なら、普通よりは稼いでるんじゃないの?」
と。
おや、と紫郎は眉をぴくりと動かした。
「どうしてあんたが、俺が本社勤務だって知ってるんだよ」
久しぶりに再会した新宿の街で、紫郎の勤め先を知るために、後をつけたはずだ。しかし行先は、駅ビルの中の店舗である。本社からの研修生であることは、どこにも書いていない。
息子からのツッコミに、母は視線をさまよわせた。やましいことがあります、と言っているようなものだった。
「えーと、そうよ。あんた、いい大学に行ってたんでしょう? だから、本社勤務じゃないかなあ、って」
「ふーん」
信じたわけではないが、これ以上追及したところで、得られるものはない。今日一日限りの付き合いだ。ああそうだ、きちんと言い聞かせておかないと。
「俺と母さんが会うのは、今日が最初で最後だからな。もう、用事もないのに電話もかけてこないでくれ」
約束を反故にする常習犯のはずの彼女は、しかし、「はぁい」と、やけに素直に頷いたのであった。
気ままに動く母親の後ろをついていく。すれ違う常識的な人たちは、母のいでたちにぎょっとして、しかも連れがいるということに、ますます驚いている。おかげで視線が痛い。
「ねぇ、あれ……」
と、手当たり次第におねだり(ぞっとする単語である)をしてくるのを、値段を見もせずに却下する。
こんな女に、たとえうちの会社の経営する百円均一ショップの商品であっても、買ってやりたいとは思わない。
「母さん。俺は何も買わないって言ったよね?」
ことさらに「母さん」を大きな声で言ったのは、周囲に対するアピールだった。
自分が実母に振り回されている、かわいそうな息子であることを発信し続けないと、とんでもない勘違いをされてしまうかもしれない。おぞましい。
「はぁい」
ぶすくれる母は、一度は紫郎の話を受け入れても、またすぐに忘れて、あれが欲しいこれが欲しいと騒ぎだす。気の休まる暇はない。
もしもこれが、孝之とのデートであったのならば、こうやって振り回されるのも悪くはないのだろうけれど。
だが、妄想の中でさえ、彼は立派な男性であった。間違っても、年下の男にしなだれかかって「あれが欲しいなあ、横山くん」とはやらない。率先して金を出し、負担の少ないところでは、「じゃあ今回は、君に奢ってもらおうか」と、紫郎のプライドを尊重することも忘れないだろう。
何が悲しくて、休日にこんな女と出かけなければならないのか。
はぁ、と大きな溜息をついた紫郎に、
「ねぇ、あれを食べるのは駄目?」
と、母が言う。彼女が指すのは、少々お高めの値段のジェラートショップであった。飲食代は覚悟してきているので、そのくらいなら、と頷く。子どもみたいにはしゃいでケースに駆け寄っていく母の後を、ゆっくりと追う。
ああでもないこうでもないと悩むこと数分、ブラッディオレンジと抹茶ジェラートという、なんとも言えない色味のダブルをセレクトして、彼女はご満悦だった。
紫郎はイタリアンミルクとシチリアレモン。一方をバニラかミルクにしておけば、味が混ざったとしても、それほどカオスなことにはならない。
「なぁにあんた、バニラ? ミルク? どっちでもいいけど、面白みのない男ねぇ」
という評価は、痛くもかゆくもなかった。
イートインスペースは狭かったが、ちょうどふたりが座れるだけのスペースがあった。隣に座るのは厳しい、と遠慮しようとした紫郎の腕を強引に引き、座らせる。勘弁してくれ、と思ったが、今日だけの辛抱だと言い聞かせた。
「ねぇねぇ、写真撮ろう?」
「はぁ!? いいよそんなん……」
画面の割れたスマホ、しかもかなりの型落ち品を手にした母は、無理矢理紫郎と頬をくっつけて、二枚、三枚と写真を撮った。うっかりフラッシュを切り忘れていたようで、急な眩さに、思わず目を細める。
写真を撮り終えた母は、満足そうにジェラートを口に運んでいる。
まぁいいか、どうでも。この年になってまで、SNSはやっていないと思うし。連絡がトークアプリ経由ではなく、電話だったことからも、スマホ音痴であることがわかる。
夜まで付き合わされ、イタリアンを奢った。帰り際に、「また会いたい」と言われたが、断固として拒否した。
「一回だけって言っただろ」
「え~」
唇を尖らせた母は、息子相手に女を出してきて、気持ちが悪い。付き合いきれない。
現実逃避に、レストランで飲んだワインによって、ふわふわしているだけだろうと、「二度と会わない。わかってるだろ。あんたが俺を捨てたんだから」と、冷たく言い放ち、連絡先も消させ、駅で別れた。
電車に乗った途端、疲労感が増した。肩は女の情念がべったり貼りついているかのように、重かった。
明日からは、あの女に悩まされることなく過ごせる。
そう思うと、安堵の溜息が漏れた。
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