<<はじめから読む!
<(13)
本社ビルに着いた瞬間、紫郎はほっと一息ついた。
何せ、車内は地獄の空間であった。誰も喋ろうとしなかった。一番下っ端の自分が騒ぐわけにもいかず、かといってスマホを見るわけにもいかない。
助手席に座っていた紫郎は、運転している孝之が、時折ルームミラーで秋田の様子を観察していることに気がついた。だからといって、彼は何も言わない。
後部座席に座った秋田は、落ち着かない様子であった。貧乏ゆすりをして、爪を噛む。一応は美人で通る容姿の彼女は、いつも無駄に自信満々だったが、今は頼りない。
用事があるのはふたりだが、話をするのはひとりずつであるという。先に呼ばれたのは紫郎だった。
待合室代わりの小会議室から出るとき、取り残された秋田をちらりと振り返った。今にも逃げたそうにしているが、残念ながら、孝之の部下がガッチリと扉の前を固めていて、それは叶いそうもない。
連れていかれたのは、人事部の人間が利用する面談部屋だった。通称を取調室という。刑事ドラマで見る、あのくらいの狭い部屋の中央に、机がひとつ。そこにはすでに、人事部長の姿があった。
「横山紫郎、連れてまいりました」
丁寧な口調の孝之に、「ごくろう」と部長は言った。社長の甥である彼を、そんな風にぞんざいな扱いができるのも、人事部長の出自のせいである。
彼は次期社長である。今は人事にいるが、営業部門や商品管理部門など、さまざまな部署を回り、そのどれもで結果を出してきた、やり手の社員である。
社長の息子がこんな風にスーパーマンなものだから、キャワイも安泰だ、と同期との飲み会で話が出たこともある。
孝之とは対照的に、彼は全体的に硬い雰囲気だ。眼鏡の奥の目は眼光鋭く、隠し事があれば、なんでも見抜いてしまいそうな怖さがあった。
最終面接の場に彼もいたが、社長は柔和なのに、息子はおっかないものなのだなあ、と感じたのは、記憶に新しい。
「座りなさい」
「は、はい」
指示通りにした紫郎が座るやいなや、質問をぶつけてくる。
「なぜここに呼ばれたのか、理由はわかるか?」
ここで、「NO」と応えたところで、事態が好転するわけもない。むしろ、察しの悪さを減点される可能性すらあった。
紫郎は胸が苦しくなりながらも、「はい」と応えた。
「その、私がママ活をしているという噂の件……ですよね?」
眉すら動かさない彼は、紫郎の隣に立ったままの孝之に、顎をしゃくった。
「人事部と協力して、噂の真偽を調査しました」
仕事ができる者同士の空気感が、皮膚でピリピリと感じられた。じっと耳を傾けて、彼らがどう判断をしたのかを、確認する。
「まず一点。この写真についてですね」
タブレットに表示されたのは、実母とのツーショット写真だ。見たくない。目を逸らした紫郎を意に介することはなく、写真の一部を拡大していく。顔ではなく、彼女の着ているワンピースだ。
「これは若い女性に人気のあるブランドですが、プチプラが売りです。類似デザインの服は、三〇〇〇円でおつりが出ます。また、ブランドものと思しきバッグですが、こちらもロゴの位置が本物と異なります。おそらくコピー品でしょう」
バッグを切り抜いた写真と本物の写真を見ると、ロゴがあるべき場所にない。本物だと思って使っていたにしても、偽物だとわかって使っていたにしても、いずれにせよ母親の無教養が恥ずかしい。
「なのでまず、この女性はいわゆる『ママ活』の相手にはなりえません。ママ活というのは、金持ちの道楽ですからね」
「それは……いや、含蓄のある分析をありがとう」
孝之は一礼し、淡々と続ける。
「社内で出回っているこの写真ですが、オープンなSNSでは確認が取れませんでした。社内のネットワークでのみ、広まっているようです。しかし、本日、この写真を根拠に、彼に連絡先を渡そうとする女が現れましたので、もう一度確認させます」
自分のことを話しているのに、口を挟む隙がない。優秀な弁護人が隣について、何もかもをよいように取り計らってくれている。
呆気に取られて見上げた紫郎と、孝之の目が合う。すると彼は、微笑んだ。研修の日は一度も合わなかった、逸らされた目が、紫郎を見つめている。
大丈夫だよ、と言い聞かせるみたいに。それだけで、嫌な風に音を立てていた心臓が凪いでいく。
「しかし、出どころはもう押さえてありますので、ご安心ください。こちらはすでに、彼の母親にコンタクトを取り、話を聞き出しております」
そこで孝之は言葉を切り、ポケットから何かを取り出した。それが録音機器であると紫郎が理解したのは、彼がボタンを押し、母親のささくれた声が再生されてからであった。
『……そうだよ、これは私の息子だよ。まったく、可愛くないったら。いい会社に勤めているくせに、ケチなんだ。写真? ああ、紫郎の連絡先を教えてくれた人がね、仲のいい写真を撮って、送ってくれって頼んできたんだよ。紫郎の同僚らしいね。なんか、イタズラでもしようとしてたんじゃない? 金をくれるって言ってたからやったけどさあ、こんなんじゃねぇ。何の足しにもならないわよ』
恥ずかしくて真っ赤になる。これが身内だなんて、孝之に知られてしまった。
『え? こんなにくれるの? じゃあ、教えてやるよ。写真を送れって言われたメールアドレスをね。ほら』
録音はそこまでだった。
「ということで、横山を貶めようとした人間の連絡先も突き止めました。この後、呼んでまいりますので、思う存分尋問をなさってください」
孝之は人事部長に頭を下げると、次は紫郎に目を向けた。
「河合、統括……」
「横山くん。最後にもう一度聞きます。本当に、私に誓って、ママ活などやっていませんね?」
普通、そこは「会社に誓って」「神に誓って」という場面であろう。けれど、紫郎にとっては抜群に効果があった。
神様なんて不確かな存在よりも、確かに存在し、紫郎のことを見守ってくれるこの男にこそ、宣誓を聞いてもらいたい。
まっすぐに彼を見つめ、それから人事部長へと移す。
「河合統括に誓って、私はママ活と呼ばれる援助交際や、不倫などの道徳に欠けた行いは、しておりません」
許されるかどうか、ドキドキしていた紫郎に向かって、人事部長は「そうか」と、一言だけ言った。
彼の指示に従って、紫郎と孝之は部屋の外に出る。孝之は手ぶらであった。紫郎のピンチを救った証拠の数々は、次に行われる尋問の攻撃材料になる。
取り調べ室には、秋田が連れてこられていた。ガクガクと震え、紫郎を見ると「助けて! 私は何もしてないって言って!」と、縋ってくる。
驚きのあまり固まりかけた自分を、孝之は全身で庇った。前に出て、手を広げて秋田からガードしてくれる。
「あなたが何をして、何をしていないのか。それは彼ではなくて、人事部長の元で明らかになることです。やめなさい」
背中に庇われている紫郎から、孝之の表情は見えない。秋田の驚愕と絶望に染まった顔から判断するしかないが、きっとかなり怖い顔をしていたのだろう。
まだどこの配属になるとも決まっていない新人を、どうしてこの人は、こんな風に守ってくれるのか。
理由がわからないまま、紫郎は彼に連れられ、その場を後にする。
一度だけ振り返った秋田の背中は丸くなって、震えていた。
「大丈夫?」
孝之によって椅子に座らされ、「ちょっと待ってて」と言って出て行った彼が戻ってきたとき、手に握られているのはミネラルウォーターと緑茶のペットボトルだった。
どちらでも好きな方を飲むといい、と勧められて、遠慮なく水をもらう。孝之は選ばれなかった方の蓋を開けて、一口飲もうとして、結局三分の一くらいを一気に飲んだ。彼も、紫郎に負けず劣らず緊張していたらしい。
そう指摘すると、「当然でしょ」と、心外である! とムッとされた。
「可愛い部下の将来が、僕にかかっていたんだからね」
と。
改めて、紫郎は孝之に深く頭を下げて礼を言った。
どうやって紫郎の母の連絡先を知り、会いにいったのかと問えば、彼が私財を使って興信所を雇い、所在を突き止めたのだという。
本来ならば人事部のみで調査をするところ、独断で動けたのは、社長の甥、つまりは人事部長のいとこであるから、許可を得ることができたのだ。
どうしてそんなに自分のことを目にかけてくれるのかわからずに狼狽えるばかりの紫郎に、孝之は笑う。きれいな微笑み方だった。慈愛とイタズラっぽさが同居する、完璧なスマイルである。
「そりゃあ、入社前からの知り合いだからね。困っていたら助けたいよ、普通に」
知り合い? 普通に?
あまりにも軽い言葉に、どういうわけか紫郎の涙腺が壊れた。突然、滂沱の涙を流し始めた紫郎を見て、孝之は慌てふためく。
「ちょ、どうしたの!?」
咎めるような口調だが、彼はハンカチを取り出して、紫郎の頬を拭ってくれる。目からは次々と涙が零れてきて、視界は不明瞭。
それでも、彼の手に握られたハンカチは、自分がプレゼントしたものであると、はっきりとわかった。
「信じて、もらえないかと思って……クビになるんじゃないか、って。目も、合わせてくれなかったし……」
しゃくりあげる紫郎を、孝之は「仕方のない子だね」という顔で、慰める。
「どちらか一方の言うことを聞くなんてこと、まっとうな会社ならしないよ。それに僕は、君を信じていたからね」
無視するような格好になったのは、いろいろな人間がいる研修の場で特別扱いするようなことがあれば、さらにおかしな憶測を招きかねない、という心遣いからだった。
ただの新入社員である自分には、過ぎた信用だ。特に、彼は一度実際にママ活をしていた自分を知っているのに。
「なんでぇ」とべそをかいた紫郎は、ハンカチで涙を拭いてくれている孝之の手首をぎゅっと握った。
「俺、なんてっ、何にもできないのに……こんなに助けてもらって、何にも返せないのにっ」
痕が残ってしまうほどの強さに、孝之は困惑している。
「そんなことは……」
「こんなことされたら、もっと好きになっちゃうじゃないですかあ!」
感情の収拾がつかなくなった紫郎は、どさくさに紛れて叫んだ。こんなに格好のつかない愛の告白もない。ぴいぴい子どもみたいに泣いているから、ひょっとしたらこの人は、冗談だと思うかもしれない。
いや、それじゃ駄目だ。言ってしまった言葉は取り消せない。一度「おじさんをからかわないで」と言われてしまったら最後、二度と意識してもらえない予感がする。
紫郎はまず、気合いで涙を止めた。はぁ、はぁ、と意識的に呼吸をして、落ち着ける。
片手で掴んでいた彼の手首を両手で引き寄せた。勢いで、涙を吸ったハンカチが落ちる。
「俺……あの、あなたにもらったハンカチがきっかけで、この会社、目指しました」
「……うん」
孝之は静かに耳を傾けてくれている。
「あの日止めてくれて、入社してからもいっぱい助けてくれて……俺、これからあなたにふさわしい男になりますから」
また少しだけ、涙が滲んで彼の顔がよく見えなくなった。見えない方がちょうどいいことも、あるかもしれない。
自分を拒絶する顔は、見えなければなかったことにできる。振られるのはまだしも、部下としても「気持ち悪い」と捨てられるのは、嫌だ。
「好きです。孝之さん。俺と付き合ってください!」
言った! 言い切った!
心臓は痛いくらいに高鳴っている。彼の手首を掴んだてのひらからは、じわりと汗が滲んでいるだろう。
「それは、勘違いじゃないかい? 君は、ゲイじゃないだろう」
同性愛者であるがゆえに、同類とそうではない人間とを判別する嗅覚も鋭い。確かに紫郎は、女性としか付き合ったことがない。
大人の顔で、彼は諭す。
男女で付き合い、結婚するのが当たり前の世の中で、どうしても男しか好きになれないんじゃなければ、こんな茨の道を選ぶ必要はないだろう、と。
そんな訳知り顔の大人の理屈なんて、紫郎の知ったことではない。何せこちらは、この間まで無鉄砲な学生だったのだ。分別だとか将来だとか、そんなものはひとまず無視する。今、孝之を好きだと思っている。これこそが紫郎にとっての真実なのだ。
「勘違いで、あなたをオカズに抜いたりしません」
「オカ……!?」
絶句した孝之が、ぴたりと動きを止める。その隙に片方の手を外し、ハンカチを拾い上げ、涙で曇った眼を拭った。
はっきりとした視界には、ほんのりとわずかに頬を赤らめて、顔ごと視線を逸らす孝之の姿が映った。
「……勤務中に、そういうことを言うのはいけません」
どう聞いても、どう見ても照れた様子の彼に、紫郎は「脈アリでは!?」と、このまま押すことも考えたが、場所も場所なので諦めて、渋々孝之を解放したのだった。
>(15)

コメント