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待ち合わせのホテルのティーラウンジに入った瞬間、紫郎はくしゃみをした。
炎天下からエアコンの利いた場所に入ったせいではなく、嗅ぎなれない匂いに、過敏になったせいだった。
もちろん、悪臭などではない。むしろいい匂いなのだが、とにかく高級そうで、「花」ということしかわからなかった。茶髪にピアス、ラフな格好の紫郎は浮いていたが、構うものかと入店する。
待ち合わせ相手の名前を告げると、彼女はまだ来ていなかった。席に案内されて、メニューを渡される。
大学二年生の紫郎は、たかがコーヒーにこの値段? と、ビビった。コンビニのコーヒーと何が違うっていうんだ。セブンのコーヒーが世界で一番美味いだろ。
支払いはすべて相手持ちだ。だからといって一番高いものを……なんて、さもしいことはしない。
紫郎はアイスティーを頼むと、スマホで今日までの彼女とのやり取りを眺めた。
そろそろ潮時……いや、まだ引っ張れるか?
待ち合わせ相手は、四十代前半の女だった。恋人ではない。親でもない……が、「ママ」という呼称を使う関係性だ。
アプリを通じて知り合った、有閑マダム。暇を持て余している彼女とのショッピングに付き合ったり、お茶や食事をしたりするだけで、小遣いがもらえる。セックスをするわけじゃない。無論、そういうニュアンスの誘いはあるが、鈍感なフリをしてすべて断っている。
コンビニやファストフード店で丸一日バイトをするよりも、ずっと多くの金をもらえるし、食事も全部タダ。さらには気まぐれに、ブランド品のプレゼントまでもらえたりする。紫郎のポケットに入っているキーケースはヴィトンで、彼女からのプレゼントだった。
これまでに何人もの女とママ活をしたが、彼女は現在、一番の太客である。
紫郎の、ちょっと背伸びをしてやんちゃな格好をしているところが可愛いと言って、スキンシップが激しいのが、とにかく鬱陶しい。
それでもブロックしたり、会うのをやめないのは、ひとえに彼女がよき金蔓だからである。
これまでは、銀座をぶらぶらとウィンドウショッピングしたり、高級なレストランに連れていってもらったりした。直接ホテルのラウンジで待ち合わせるのは初めてで、こうもあからさまな体の関係へのお誘いもないだろう。
もちろん、既定のお金をいただいたら、さっさと逃げるつもりである。ババアとセックスなんて、誰がするか。
届いたアイスティーの中の氷が、ストローで混ぜる度に涼しげな音を立てる。
ティーラウンジは上品な人たちが小声で話していて、場違い感が半端なかった。下はジーンズだが、特に止められなかったので、ドレスコード的な問題はないのだろう。紫郎の気分が落ち着かないだけだ。
無意識にストローを齧っていると、急に陰が差し、待ち人がようやくやってきたことを知る。
顔を上げた紫郎の、ママ活仕込みの愛想笑いはすぐに固まった。ひくひくと唇の端が震える。
どちらさまですか、と声に出すのも憚られた。いつもの女ではなく、見知らぬ男がやってきた理由なんて、ひとつしかないからだ。
つまり、ママ活がバレたのだ。
「君がシロくん? 初めまして……ママじゃなくてごめんね?」
パパはお呼びじゃなかったかなぁ? と、とぼけたことを言うが、目は笑っていない。
逃げても無駄であることは、彼との体格の差から明らかだ。身長はさほど変わらないが、ひょろりとした紫郎とは対照的に、にこにこ笑っている男は屈強だった。
紫郎は取り繕うこともごまかすことも諦めて、うなだれた。
三十代前半から半ばと思われるその男に連れられて、やってきたのはホテルの客室である。
高級ホテルの、しかもセミスイートルームだ。初めて入るが、物珍しさにきょろきょろする元気もない。
「横山紫郎くんね……結構いい大学に通ってるのに、既婚者とデートしたりホテルに行ったりするのが悪いことだって、わからなかったの?」
学生証を検めて、まるで子どもを教え諭すような言い方に、ついカッとなった。
ホテルなんて、初めて来た。セックスはおろかキスもしていないのに、不倫だと一方的に詰められるのは、理不尽である。
けれど証拠はひとつもなくて、紫郎はおそらく、この男に慰謝料を請求されたりするのだろうと思うと、自暴自棄になった。
「……だろ」
「うん?」
俯いたままでは、紫郎の殺しきれなかった怒りは届かなかった。聞き返してくる男に、紫郎はソファから立ち上がり、食ってかかる。
「若い男に欲情してる、キモいババアの相手してやってんだ! その対価をもらって何が悪いんだよ」
アプリを通じて紫郎にママ活を持ちかけてくるのは、四十代から五十代、親と同じかそれ以上の女ばかりだ。
初めて会ったときから、大抵の女はセックスを匂わせてくる。アプリの規約では、デートをする以上の行為は禁止されているが、申告しなきゃバレないし、わざわざ報告する奴もいない。
誘いはのらりくらりと躱してきたし、これからも逃げる自信はあった。何もなかったにしても、年増女から意味ありげな目で見つめられ、手をなぞられたりするのは、本当に気持ちが悪かった。
「そういう風に見られるのが嫌なら、これを機にやめたらどうだい?」
男は冷蔵庫から高そうなミネラルウォーターを取り出し、グラスに注いで差し出してきた。
そういえば、ラウンジで注文したアイスティーを、半分以上残したままだった。勿体ない、と紫郎はソファにどっかりと腰を下ろし直すと、水を呷った。味の違いはよくわからない。
「あんた、あの人の旦那さん?」
それにしては若い……まあ、あのババアが年下趣味なんだろう。
紫郎の予想とは異なり、男は首を横に振った。
「ううん。彼女は、僕の姉の旦那さんのお姉さん。広い意味では親族だけどね。彼女の旦那さんはまだ、君のことを知らないよ」
姉から相談を受け、紫郎の「ママ」を説得したうえでこの場に姿を現したという男は、「そうだ。名乗ってなかったね。僕は孝之っていうんだ」と、呑気に自己紹介をした。
そっちはこちらのフルネームどころか大学名まで把握しておいて、下の名前しか名乗らないなんて、不公平だ。
「わかったよ。ババアのことは、今この場でブロックすりゃいいんだろ」
スマホを取り出し、アプリを開く。ブロックボタンをタップしようとしたところで、スッと画面上に手が差し出され、中断した。顔を上げると、孝之は真剣な眼差しでこちらを見下ろしていた。
「ママ活自体をやめなさい、と言ってるの」
「あんたには、関係ないだろ」
「危険だよ。現にこうして、彼女はホテルの部屋を取ってた。ここで本当にセックスする羽目になっていたかもしれない。それとも、したかった?」
ぐるりと室内を見回した。ロマンティックでゴージャスな装飾に、眩暈がする。
ママ活デートのときに彼女が着ていた洋服も、二十くらい若い女が着ていそうなフリフリのワンピースだったから、根っからこういうのが好みなのだろう。
セックスのための部屋を予約していた、と聞いて紫郎は少しだけ狼狽えたが、それでもこちらは男である。
「女、しかもババアが男を力づくでレイプできるわけないじゃん」
ケラケラと乾いた笑いを上げた紫郎が動きを止めたのは、男があまりにも真面目な顔をしていたからだ。
年相応に整った顔から、呆れた溜息が吐き出されると、なんだかすごく悪いことをした気持ちになる。ママ活なんかよりも、ずっと責められるべき罪を犯したかのような。
孝之は、着ていたサマージャケットの胸ポケットから、錠剤のシートを取り出した。
「それは?」
「君のママ活相手が持ってた薬。睡眠薬」
は、の口のまま固まった。シートをよく見れば、一錠はすでにない。
まさか。
紫郎はテーブルに置いた水のグラスと、孝之の顔を交互に見つめた。「そうだと言ったら?」と、冷たく言われてパニックになる。
ホテルの部屋と睡眠薬を用意しているなんて、レイプする気満々だった女も怖いが、今は目の前の男だ。
どうして俺に、薬を盛った!?
指を喉奥まで突っ込んで、吐き出せばまだ間に合うか? こんな、何を考えているかわからない男の前で寝こけるなんて恐ろしいことはできない。
身ぐるみを剥がされるか、ママ活相手の旦那を連れてきてふたりがかりでボコボコにするつもりか、それとも一番考えづらいことだけど、彼が自分をレイプしようとしているのか。昨今は、男同士でも性被害に遭うことも珍しくない。
慌てている紫郎に、孝之は近づいてくる。指を突っ込んでおえおえしていると、覆いかぶさってきた。絶体絶命のピンチだ。
しかし、思ったようなことはされなかった。孝之は紫郎の指を口から引き離し、涎でべたべたになった口を、持っていたハンカチで拭った。
「嘘です。薬は入れてないよ。ちょっと懲らしめてやろうと思っただけ」
「は……へ?」
彼の言葉がぐるぐる回り、ようやく頭に到達すると、どっと脱力した。隣に座った孝之は、ごめんごめんと頭を撫でてくる。子ども扱いするなよ、と叩き落とすこともできたけれど、なんだか心地よくて、紫郎はされるがままになっていた。
「お金に困ってるの?」
首を横に振る。
「なら、やめなさい。今回は未遂で済んだけれど、女の人相手だからって、無事に済むわけじゃない」
「はい……」
女であっても、無理矢理に性交に持ち込もうとする人間がいると思うと、怖くなった。アプリの向こう側の顧客の人間性なんて、担保されていない。
うなだれた紫郎が立ち直るまでの間、孝之はずっと傍についていてくれた。鼻を鳴らして、「すんませんでした」と、女にもらったブランド物を返そうとしたが、必要ないという。
彼女の旦那は相当の高給取りで、小遣いの範囲内でやっていたことだ。外様の自分が口を出すことではない、と。
「もしも、本当に困ったときには」
ホテルに備えつけのメモ帳に、さらさらと彼が書きつけたのは、連絡先であった。
「僕に連絡しなさい。僕は独身だし、まあまあ稼いでるし、君の話を聞くくらいはできるからね」
まじまじとメモを見ながら、紫郎はうっかり、思ったことを口に出してしまう。
「……パパ活は、いいんですか?」
ぶは、と噴き出した孝之は、「駄目だねぇ! それじゃあ割り勘でいこっか。お友達ってことで」と言った。こんな高級ホテルを予約したりしないと、と。
ハンカチを洗って返すと主張したが、「いいよ。そんなに高くないものだし。これを見て、馬鹿な自分を思い出して反省するくらいがちょうどいいだろ」と笑われた。
こちらからすぐに連絡しやすいきっかけを初手で折られ、結局紫郎はその後、孝之に連絡を取ることはなかった。
そのハンカチが、キャワイのオリジナル商品であったことから、紫郎は就職活動で、この会社を受けたのであった。
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