パパは求めておりませんので(3)

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 戒めのハンカチは、事あるごとに挫けそうになったり、人を恨みそうになったときに握り締めてきた。

 ……まさか孝之が社長の甥で、店舗統括マネージャーだとは思わなかった。

 彼と会ったのは一度きり、二年も前の話だ。しかも紫郎は、あの頃とだいぶ見た目が違う。

 それまでチャラチャラと遊んでいる風だったのが、コンタクトを辞めて眼鏡に戻し、髪の色も黒にして、真面目になった。孝之には及ばないが、ジムに通うようになり、身体を鍛えた。

 会社運営に携わる立場の人だ。日々、いろんな人と顔を合わせて仕事をしている。たった一度、軌道修正を手伝った大学生のことなんて忘れていてもおかしくはないのに、孝之は自分のことを覚えていた。

「お疲れ様です。お先です」

 紫郎が店舗研修を行うことになったのは、マルフィ新宿店。マルフィは、平均単価五百円の安価な雑貨店である。シンプルかつ大人カワイイをコンセプトに、首都圏を始めとして徐々に店舗数を増やしている。

 新宿店は駅ビルのテナントとして入っていて、一、二を争う売り上げを誇る。店長も有能な人物で、アルバイトスタッフもきびきびと働いていて、一番下っ端の紫郎は毎日揉まれている。

 研修中はシフト勤務で、日によっては遅番で出勤することもある。今日はオープンから十七時半までだった。

 駅ビルの関係者出入口から出た紫郎は、そのまま事務所へと向かう。

 日報は帰宅後、家で作成して送信しても構わないのだが、近隣の数店舗合同で使っている事務所までは、歩いてすぐだ。日勤の際は、事務所のパソコンで報告をしてから帰宅するのが、紫郎のルーティーンとなりつつある。

「お疲れ様でー……」

 小さなオフィスビルの三階、階段を上がってすぐの扉を開けて、紫郎はその場で固まった。ここにいるはずのない人が、長い脚を持て余し気味に組んで座っていたせいだ。

「ああ、横山くん。お疲れ様です」

 孝之は新人全員の名前をしっかり覚えているのか、それともやらかした過去を知っている紫郎のことだけを覚えているのか。どうか前者であってほしいと願うも、確かめる術がない。

「あの、パソコンを、使っても……」

「もちろん。どうぞ」

 他の社員はすでに帰宅したり、他の仕事で外に出ているのか、ふたりきりである。

 本社でふんぞり返っていてもおかしくないはずの人だ。研修中の新入社員のフォローは、彼の部下が各店を回っていて不自由なくいっていると聞くのに、いったいなぜ、こんなところに。

「ひとりひとり、様子を見て回ってるんだよ。僕は全体の責任者だからね」

 ちらちらと窺いつつ、テンプレートを呼び出して報告書を作っていると、突然心を読んだかのように言われたものだから、驚いてここまで書いた文章を全消ししてしまった。

 紫郎は手を止めて、孝之を見る。悪い意味で特別扱いされているわけではない。そうわかったところで、不安は消えないものである。

 目の前の男は、紫郎が過去に犯した罪を知っている。それを社長に告げ口することが、容易な立場でもある。任命式後、すんなりと店舗研修に入ることができたからといって、今後も言わないでいてくれるとは限らない。

 もしも自分が大きなミスをやらかしたら? もしもこの人の不興を買うようなことをしたら? 簡単に切り捨てられる未来しか見えなかった。

 今このときを逃したら、孝之とふたりきりになれる機会なんて、そうそうない。

 紫郎は意を決して、「あの」と、孝之に話しかけた。

「うん?」

 首を傾げると、前髪がさらりと落ちる。少し髪型が変わっただけで、やり手の上司に親しみやすさが生まれたことに、紫郎の緊張も少しだけほぐれた。

 立ち上がって、頭を下げる。

「あの、学生時代に俺がやってたことについて、会社には言わないでください。お願いします。なんでもしますから」

 こういうときの頭を上げるタイミングって、何秒後だったっけ?

 新人研修のことを思い出そうとする紫郎の意識に混ざってきたのは、小さな笑い声だった。思わず頭を上げる。

「ああ、そっか。そうだよね、不安にもなるか」

 彼も立ち上がり、紫郎と相対した。孝之のピンと伸びた背筋を見ていると、紫郎も自然と姿勢を正していた。視線の高さはほとんど同じで、彼の目に吸い込まれそうになる。

「君が学生時代にしていたことを、僕は会社に報告するつもりはありません。奢ったのもプレゼントをしたのも、相手の好意によるものでしょう? それとも君は、騙して金品を巻き上げたの?」

 そんなことしません! と、大きな声で否定した。紫郎は慌てて口を押える。その様子がおかしかったらしく、孝之はまた、微笑んだ。それから咳払いをして、話を続ける。

「それに、会社に報告するとなると、僕の方がまずい立場になりかねないんだよねえ」

「どうしてですか?」

 親族のママ活を止めにいった。ただそれだけの話だ。社長に知られてまずいことなんて、ひとつもない。

 孝之は肩を竦めた。

「まずいでしょ。二十歳そこそこの若者をホテルの部屋に連れ込んだ、なんてことがばれたら」

「俺、男ですけど……?」

 一般的に、男同士でホテルの同室にいたからって問題は起こりえない。

 紫郎の考えは、孝之の爆弾発言によってすべて吹き飛んだ。

「だって僕、ゲイだからね。社長もご存じだから、若い男の子を、しかも同意なくホテルの部屋に連れ込んだとなったら、即クビ」

 ご丁寧に首切りのジェスチャーまでつけて、孝之は何でもないことのように言った。固まる紫郎に、「あ」という顔をする。

「最近の若い子は、こういうのあんまり抵抗ない子が多いと思ったけど、横山くん、駄目だった? ごめんね。大丈夫。見境なく襲ったりはしないから」

 彼は屈んで、下から紫郎の顔色を窺った。眉尻が下がって、本当に申し訳なさそうな顔をしているので、慌てて両手をぶんぶんと振って、彼の勘違いを否定する。

「あの、ちょっと驚いただけなので! 別にマネージャーのことを、どうこう思ったりはしません」

「……そう?」

 にぱ、という擬音が似合う笑顔を浮かべた孝之は、ゲイであることを会社全体に公表しているわけではない。

 社長を含めた親族には、見合い話その他おせっかいはやめろという意志表示で周知しているが、さすがに告白してきた女性全員に対して、懇切丁寧に自身のセクシュアリティについて説明する義理はない。

「じゃあ、なんで俺には明かしたんですか?」

 ついでだからと日報をチェックしてもらってから送信し、本社に戻るという孝之とともに、駅まで歩くことになった紫郎は、その途中で尋ねた。

 一昔前よりはずいぶんマシになったとはいえ、ゲイ当事者を取り巻く問題は、あれこれと転がっている。その中にはアウティング……「あいつはゲイだ」と、本人の同意なくばらしてしまうことも含まれている。

 孝之がゲイだと知った自分が、誰かに「実は」と明かしてしまう可能性は考えなかったのか、と聞けば、彼は紫郎の数歩先で立ち止まり、振り向いて自身の唇に指をあて、「内緒」のポーズを取った。

 日常生活で、子ども相手以外にやる人間がいたのか、という驚きとともに、妙に様になっているその姿に、ドキッとした。ちょうど、夕焼け空を背景にしてノスタルジーすら感じた。

「僕と君は、お互いの秘密を知っているわけだ。これでおあいこでしょ?」

 暗に「俺の秘密をばらしたら、お前のも口外する」と脅されているのだが、孝之の口調はどこまでも柔らかい。

 ほとんど反射的に、紫郎はコクコクと頷いていた。

 

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