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孝之は店長にもきちんと説明をしてくれたらしく、店で顔を合わせたときには、「これからはもっと気をつけようね」とだけ言われ、二重に説教を受けることはなかった。紫郎も頭を下げて謝罪した。
秋田のことをことさらに糾弾しなかったのは、孝之や店長がきちんと理解してくれているならそれでいいと思ったからだ。あまり事を荒立てたくない。
「っ!」
孝之のことを考えていたら、駅ビルのポイントアップキャンペーンの掲示物で指を切った。血すら滲んでこないが、こういうのが地味に痛い。絆創膏なんてものを持ち歩いているはずもなく、紫郎は仕方なく、そのまま作業を続ける。
指先がジクジクと痛む。連動して、心臓の音が大きく、早く聞こえてくる。興奮しているときのように。
孝之をオカズにして抜いてしまってから、彼と顔を合わせていないのは、不幸中の幸いだった。どんな顔をして会えばいいのかわからない。彼の恋愛対象が男だからといって、甘ちゃんの新入社員に欲望の対象にされたと知られたら、嫌だろう。
「横山くん、難しい顔してどうしたの」
「あー。指、切っちゃって」
あるあるだねぇ、と清水店長は笑い、エプロンのポケットから絆創膏を取り出した。
「ほら、あげる」
「ありがとうござ……」
礼を最後まで言えなかったのは、それがドラッグストアでいつでも買うことのできるシンプルな奴ではなく、キャワイで作ったファンシーなネコ柄のものだったせいだ。幼稚園のときだって、こんなのを貼ったことはない。
「これを貼れと……?」
「いやならいいけど、私、手持ちこれしかないのよ」
純然たる好意である。清水の目に逆らえず、紫郎は指に絆創膏を巻いた。利き手だったので、上手に貼れない。
「あ、そうだ。せっかくだからSNS用に写真撮らして」
全然好意じゃなかった!
マルフィ新宿店の最新投稿が、ごつい男の指に可愛いネコちゃんの絆創膏が貼られた写真になったのは、それから十五分後のことだった。
そんな風に、孝之と会えずに過ごすこと、一週間。
彼が忙しい身だということは、わかっている。本社研修で集まったときも、彼は急なトラブルでやや遠くの店舗に向かっており、会えなかった。
様々な店舗に散り散りになった同期たちとの話も弾んだ。そのときに、孝之の話も出た。
自然な流れだったと思う。誰も彼もが、大きな失敗をしたり、店での人間関係に悩んだりしたときに、孝之の世話になっていた。
本来なら、エリアマネージャーや人事部の社員が介入すべき場面であっても、新人の店舗研修の責任者は自分だからと、ずいぶん無理して動いている様子である。
特に、河合孝之推しを公言している山本は、なぜか手帳に、彼が毎日どんな動きをしているのかを記録していた。正直怖い。
紫郎と違って、同期や先輩社員と手広く交流をしている彼女は、「今日どこそこの店にいたよ」という情報を得やすいのだった。
彼女によると、新人研修が始まってから、孝之はほとんど休みを取っていないらしい。まだ三ヶ月。あと半分、店舗研修が残っている。
このままだと倒れちゃう! あの恵まれたムチムチ肉体の質量が減るのは耐えられない! と、本気で心配しているのか怪しいことを言っていた。
彼の心労の一端を担ってしまった紫郎としては、若干尻の座りが悪い話だ。今後もまた、しょうもないことで面倒をかけないとも限らない。もちろん、これまで以上に注意をして仕事に励んでいるが。
何かできることはないか。しかし紫郎は新入社員で、勝手に動いたら、逆に迷惑になりかねない。
そこで思い出したのが、先日助けてもらった礼を、形にするということだった。謝罪も礼もたくさん言ったが、何度したって言い足りないくらいなのだ。それに、もらったハンカチを口外できない目的で使用しているという後ろめたさもある。
……そう、使用「している」なのだ。一時的な気の迷いではなく、あれから何度も、孝之の写真とハンカチで抜いている。学生時代の、今よりちょっと丸さのある輪郭の写真ではなくて、社内報やらなんやらの、現在手に入る孝之の写真で興奮してしまっているのだ。
お詫びの気持ちを込めて、何かプレゼントを買おうと決めた紫郎は、休みの日に銀座まで出た。
勤務地の新宿にもたくさんの店があり、百貨店もあるが、店の同僚に見つかりたくないという気持ちがあった。
それに、社長の甥で昔から一流のものに慣れ親しんでいるに違いない孝之への贈り物なら、銀座に行けば間違いないだろうと思ったのもある。
まぁ、少々苦い思い出はあるが。
ママ活で訪れた場所は、極力視界に入れないようにして、紫郎はデパートへと向かった。
「うーん……?」
さて困った。経験値が少なくて、何を買えばいいのか、皆目見当もつかない。
よく、お詫びの品として取り沙汰される有名な和菓子屋の羊羹などは、さすがに大仰すぎる。
そもそも孝之が甘いものを好んで食べるかどうか、紫郎はよく知らない。彼がものを食べる姿を、一度も見たことがない。本社研修などで顔を合わせた際も、その手にあるのは水のペットボトルだった。
和洋問わず甘味を避けるとなると、せんべいの類か。いやそれとも、紅茶やコーヒー? 駄目だ、これも嗜好性が強くて、好みを外すとがっかりされてしまう。
いっそのこと、食事に誘うとかはどうだろう。しかし紫郎が知っているちょっといいレストランは、ママ活で相手に連れていってもらったところばかりだった。孝之もすぐに気がつくだろう。
はぁ、と大きな溜息が出た。デパートの中は、キラキラと華やいだ人ばかりだというのに。自分だけ、どんよりとした気持ちを抱えている。
消えものではなく、形に残るものでもいいかもしれない。例えば、彼がくれたみたいなハンカチやタオルなら、いくらあっても困らないし、最終的には雑巾がわりにでもして、捨ててもらって構わない。
地下の銘菓コーナーから、一階のファッション小物のフロアへ移動する。
化粧品売り場も同じ階にあるため、独特の匂いがして閉口した。学生時代、ママ活のときに嫌というほど嗅いだ匂いであった。なるべく息を止めて通過し、メンズの取り扱いコーナーへ向かう。
女性向けのものよりもラインナップはぐっと少なく、紫郎はどれがいいだろうか、と悩む。
店員が声をかけてきたが、自分で孝之のために選びたかったので、「大丈夫です。自分で選びたいんで。ありがとう」と、笑顔で断った。
お互いに気持ちよくやり取りをするためには、表情が重要であることを、研修期間で学んだ紫郎に、店員は微笑みながら、「どうぞごゆっくり」と、離れていく。
さて、どんなデザインのものがいいか。紫郎は孝之のことを思い浮かべる。
彼は愛社精神が強い。ジャケットの胸ポケットに刺さっているボールペンのうち、一本は自社製品のチープなものだ。もちろん、見るからに高そうなのも使っているが。持っているメモ帳も、同じデザインのものが店舗でセール中だ。
そういえばどちらも、猫のワンポイントがついていたな、と思い出した紫郎は、看板キャラクターが猫であるブランドのハンカチを手に取った。メンズもあるんだな、と感心する。
体格や顔に似合わず、可愛いものが好きだったりするのかも。
微笑ましい気持ちで、色違いで二枚買った。ブランドものとはいえ、受け取ってもらいやすい価格帯の品だ。一枚は普通のポリエステル生地で、もう一枚はハンドタオルにした。
ラッピングを待っている間は手持無沙汰で、スマートフォンを見ながら、この後どうするかを考えた。
家に帰るのも、なんだかもったいない。梅雨入り間近の六月、せっかくの晴れの日を有効活用したいものだが、どこへ行こうか。
「一番のお客様~」
よく通る声で呼ばれて、番号札と引き換えにハンカチを受け取った。紙袋に入れてもらって、次に本社に行くときに鞄に入れて持っていこうと決める。
今日は午後からの行動で、昼食は早めにとったため、少し小腹が空いている。喫茶店にでも入ろうか。上の階に向かおうとしていた、まさにそのときであった。
「あれ? 横山くん?」
聞き覚えがありすぎる、低く落ち着いた男の声。名前を呼ばれただけなのに、どこか蠱惑的に響いて、紫郎は慌てふためいた。
エスカレーターの近くで急に立ち止まりかけたため、他の客にぶつかられそうになると、「危ない!」と、手を強く引かれた。
学生時代、特に運動部に入っていたわけではない紫郎の体幹は、いくら鍛えてもたいしたことはない。踏ん張りもきかず、引かれるがままになって、ぽすん、と顔が柔らかいものにあたる。
それが彼の胸板であることに気がついて、あわあわと離れた。
「す、すみません!」
頬に熱が集まっている気がする。筋肉って硬いとばかり思っていたが、ふにゃん、という感触がした。女には遠く及ばないが、自分にはない触感に、紫郎は思わず、孝之の胸元に目をやってしまう。
彼はぶしつけな紫郎の視線には気づかずに、「急に声をかけて悪かったね」と、謝ってきた。
「あ、いえ。その、俺がぼーっとしてたのが、悪かったの、で……」
休日に孝之と遭遇した驚きが勝っていたが、冷静になると、彼はひとりではなかった。隣にいたのは、三十代前半くらいの男だ。
「孝之ちゃん。この子、何?」
しっとりとした声には、甘えた響きが載っている。ワインレッドのロングカーディガンに覆われた身体は線が細く、長く伸ばした髪も相まって、芸術家気質を強く感じさせる容貌だ。
「会社の新人くんだよ」
と紹介された紫郎を、じろじろと値踏みしてくる視線に、思わず固まって審査を受けることになった。
頭のてっぺんから爪先まで観察をされ、最終的には、にぱっと笑った。口を開けて笑うと、だいぶ印象が変わる。
「いいねいいね。可愛いんじゃない、孝之ちゃん」
「こら、はしゃぐなよ」
孝之と彼が並んでいる姿は、様になっていた。ネイビーのサマージャケットを羽織った孝之が、掘りの深い彫像のような美しさだとしたら、男は二次元的な、まさしく絵に描いたような美貌である。
男は若く見えるが、三十代だろう。オーラが明らかに同世代とは異なっている。腕時計や指輪が高級ブランドの品物であるのも理由だった。
「えっと、横山紫郎です。初めまして」
相手は、穴沢醍醐と名乗り、名刺をくれた。持ち歩いておくべきだった、孝之に呆れられるだろうか、と思いつつ、「すみません。名刺を持ち歩いていなくて」と言えば、きゃらきゃらと彼は笑った。その辺を歩いている女子高生と変わらない、明るい表情である。
もらった名刺の肩書は、デザイン事務所の社長になっている。アナザーワークス、という名前には見覚えがあって、
「ひょっとして、うちの製品のデザインを請け負ってくださっている会社の?」
と、尋ねると、「せいかーい」と、頭を撫でてくる。百貨店の中はそこそこ人が多くて、成人男性同士で何をしているんだか、という目を向けられる。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
「横山くんは、買い物かな?」
紫郎の持っている袋を見て、孝之はそんな風に、気軽な雑談を振ってくる。
どうしようか、と逡巡する。会社で渡そうと思っていたけれど、ここで会ったのもチャンスであろう。本社で会えるかどうかもわからないし、店に視察に来たとしても、長時間滞在するわけではない。プレゼントを渡す余裕はないだろう。
「あの、これ」
すっと差し出した紙袋に、パチパチと瞬きをする。その仕草がどこか可愛らしく、紫郎は視線を逸らしつつ、ぐいぐいと押しつけた。
「これ、河合統括にお礼としてさしあげようと思って……今日買ったばかりなんで、カードとか何にもないんですけど」
まんまるに見開かれた目で直視されると眩しい。新たなオカズになってしまうだろうが! と、理不尽な怒りの芽を踏みつぶした。
受け取った孝之は、嬉しそうに笑った。
「そんなに気を遣わなくてもよかったのに……でも、ありがとう。嬉しいな」
大きな両手で小さな包みを抱え込んだ様子に、ぐっと胸が掴まれる。今日の孝之がいつもと違って見えるのは、職場では比較的きちんとセットされた髪が、自然に落ちるがままになっているせいだと、ようやく気がついた。
目元を隠す前髪に手を伸ばして触れたくなった。実際に指がぱっと出てきて、孝之の髪をまとめたのでぎょっとした。もちろん、紫郎ではない。穴沢であった。
「もう、前髪邪魔でしょ?」
ぷんぷんと怒りつつ、彼は孝之の髪をまとめクリップで留めた。
「醍醐。これはちょっと……」
「うるさいなあ。僕これしか持ってないんだ。我慢してよ」
系列の百円ショップで購入できるものだ。前髪クリップという名前で販売されており、髪に跡が残らないのが特徴である。様々なメーカーが、いろんなマスコットキャラクターで作っているものだが、穴沢が取り出したのは、びっくり顔をしたトラ猫柄のクリップである。
用途としては、メイクのときに髪が邪魔にならないようにするものだ。でかけるときにつけるのは、若い女性であってもきつい。アラフォーに差し掛かった男がするものではない。羞恥心か、孝之の頬はほんのりと染まり、クリップを気にしている。
「ぐう……ッ」
心臓が痛い。急に唸り声をあげた紫郎に、「えっ、どうしたの。横山くん、お腹痛い?」と、孝之は慌てふためいた。
「いえ、なんでもありません……」
どうしてこんなおじさんが可愛く見えて仕方がないんだ! しっかりしろ、俺!
混乱の極みにいるふたりに、助け舟を出したのは穴沢である。
「とりあえずさあ、移動しない? 早めに着いとく予定だったでしょ?」
「え? あ、ああ」
腕時計に目を落とした孝之が頷く。何かふたりで用事があるのだろう。そう思うと、ズキっとした。
孝之はゲイだ。男が好きだ。どんな男性がタイプなのかは聞いていないが、あまりにも穴沢とふたりで立っている姿がお似合いで、この人が恋人なのかもしれない。
無意識に穴沢を見つめていた。視線に気がついた彼は、にこりと笑い、紫郎の手を取る。
「え、あ、ちょ」
「醍醐?」
「この子面白いからさあ、一緒に連れていこうよ」
紫郎の了承の返事を待たず、穴沢が腕を絡ませてくる。いいのか? 自分の彼氏の前で他の男と密着なんかして。案の定、孝之は慌てている。
「ね、いいでしょう?」
孝之だけでなく、自分にまで笑顔を振りまくのだから、たまったもんじゃない。
「……悪いけど、付き合ってくれるかな?」
そう吐き出した孝之に、紫郎は頷くほかなかった。
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