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『何かあったら、翡翠湖神社にいけばいい。あそこはオメガの神様を祀っている場所だから、宮司が何も聞かずに、保護してくれる』
そう教えてくれたのは、親友だった。自身はベータだから無関係なのに、日高のために役立つ情報を、いろいろ収集してくれる男だった。
彼は日高を助け出したときに、「俺がアルファだったら、お前を救ってやれたのに」と、泣いていた。
お前がアルファだったら、友人になんてなれなかったよ。
助けられたのはこちらのはずなのに、どうして自分が彼を励ましているのかと思ったら、笑えた。笑ってる場合かよ。友は日高を諫めたが、彼も泣き笑いしていた。
どうにか逃げ切って、再会を果たせればよいが……。
海には行ったことがあるが、湖となると馴染みがない。森を抜けた日高の目に入ったのは、黒く、果てのない水面であった。風が撫でつけたときだけ小さく波が立つ。
湖の中心に、小島が見えた。鳥居は何色だろうか。日高は小さな社殿を目指す。
ほとりに係留してあるボートのロープをほどくことができず、諦めて泳いで渡ることにした。服を脱ぎ、下着だけになる。
着衣したままで数百メートルの距離を泳ぎ切るほど、泳力に自信はない。むしろ、水泳は苦手な部類だった。
ポケットの二種類の薬は、悩んだ末に両方とも持っていくことにした。特にピンクの方は、日高の今後の切り札となるかもしれない。絶対に開かないよう、ぎゅっと右の拳に握りしめた。
意を決して、爪先から静かに入水した。昼間は汗ばむ程度の気温だが、初夏の夜はまだまだ肌寒い。
ブツブツと毛穴が一気に収縮したのを感じる。日高は震えながらどうにか泳ぎ出した。服は濡らしたくなかったが、片手で真っ直ぐ島に向かうことができるほど、器用ではなかった。
力泳すること数分、ようやく小島にたどり着いた日高は、裸のままで神社に走った。閉ざされた扉をドンドン、と叩いて声を抑えながら呼びかける。
「宮司さん! 宮司さん! いらっしゃいますか?」
返事はなかった。明かりもついていない。
宮司はこの島に住んでいるわけではないということを、失念していた。
こちらの岸にボートがないことが、不在を何よりも如実に語っているではないか。真っ赤になった拳を力なく下ろす。
そのとき、あたりがにわかに騒がしくなった。何台も自動車が停車し、男たちの声がする。
追いつかれてしまった。
日高は木々の後ろに身を隠すが、すぐに見つかってしまうだろう。
捕まるわけにはいかない。俺は、アルファのものになんかならない。
濡れたパーカーをかぶった。ズボンは泳いでいる最中に、どこかへ行ってしまっていた。
そっとその場を離れ、日高は追っ手たちのいる側とは真逆に移動した。湖面を覗き込むが、映し出されるものはない。ただ、闇が広がっているだけだ。
自分の顔が見えないことに、日高は少しだけホッとした。
悲しくもないのに、どこか涙に濡れて見える。アルファに絡まれる度、「物欲しそうな顔をしているお前が悪い」と責め立てられる。
そんな呪わしい瞳を、人生最期に見ることがなくてよかった。
喧噪は次第に大きくなる。深呼吸してから、日高はゆっくりと、水の中へ沈んでいく。
顔も見たことのないアルファに売られるくらいなら、いっそのこと。
どうせ、オメガの自分は、この世では幸せになれない。
ああ、そもそも、幸せってなんだろう。この短い人生で、幸福を感じたことなんて、あっただろうか。
走馬灯というやつか。過去の記憶は、一瞬で過ぎ去りゆく。
願わくは、そう。
浮力と生への執着に逆らい、日高は湖へと沈んでいく。目を閉じて、肉薄する死を受け入れる。
拳の中の薬を握りしめたまま。死体が上がったとき、真相がしっかりと白日の下にさらされるように。日高が最期にできる、唯一の復讐だ。
もしも次に生まれ変わることができるのなら、ベータになりたい。
いいや。
アルファもベータもオメガも、存在しない世界に生まれ変われたのなら……。
>3話
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