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<26話
湖にいつまでもいるわけにもいかない。わずかながら観光客が現れ始めた頃、早見は「帰るぞ」と言い、日高の着ていた洋服のフードを被せた。
ここでは項を守らなくてもいいのに、結局いつもの癖で、ハイネックの物やフード付きの物を選んでしまう。早見は日高の頭を押さえつけたまま、足早に湖を去ろうとする。
なんだか連行されている気分になって、湖を少し離れたところで、日高は彼の手を振りほどいた。
普段、早見は日高の家事の腕や、読書スピードが早くなったこと、ゲームのテクニックに至るまで褒めてくれる。
これまでの人生で、オメガというだけで正当に評価されたことがほとんどなかった日高の自尊心は、次第に回復していたのだが、こういう扱いをされると、落ち込んでしまう。
自分はまだ、一緒にいるのを見られることさえ恥ずかしいような人間なのだろうか。
「すまない」
早見は日高の苛立ちは読み取ってくれているようだが、自身への落胆については、おそらく気づいていないだろう。
頭を下げられても、日高は何も言うことができず、彼を置いて家に帰ろうと一歩踏み出した。
「……ん?」
そのとき、耳に悲しげな声が届いた。空耳かと思ったが、ダメ押しにもう一度。
――クゥーン。
早見と二人、顔を見合わせて、声の主の元へと駆け寄る。近づくと、キュンキュンと高い声が大きくなる。
茂みを掻き分けて、先に発見した早見は、大きく舌打ちをした。背後から恐る恐る窺った日高もまた、同じ気持ちだった。
捨て犬だ。洗えばふわふわもこもこのぬいぐるみのような毛並みであろう、犬種はおそらくプードル。ただし、日高の知るサイズとは違い、非常に大きい。
「おそらく、トイプードルのつもりで飼ったら、大きくなりすぎたんだろう」
よくあることだ。早見は吐き捨てた。
山ではあるが、近くに湖があり、人の出入りも多少はある。野犬化する可能性は低く、実際彼は、何度か同じように捨て犬を保護したことがあるという。
犬はリードで木にしっかりと括りつけられており、早見はイライラしながらほどこうとした。
「ヘッヘッ……」
犬は暴れたりせず、長い舌を出して、尻尾を振っている。人に慣れている様子だった。捨てられたということさえ、わかっていないのかもしれない。
つぶらな瞳と見つめ合って、日高は犬の背に触れた。
「お前も、捨てられたんだな」
呟いた声を、犬は理解しないが、早見は受け止めた。固い結び目と格闘する手を、ハッと止めて、日高と犬を見比べている。
ここにいるのは皆、捨てられた者ばかりだ。拾われた場所が、湖の傍という点も共通している。
早見が日高のことを無視できずに助けたように、日高はこの犬のことを、他人事だとはとても思えなかった。
ようやく緩んだリードを、自分から振りほどくように、犬は日高に飛びついてきた。
この場で誰に媚びればいいのか、彼(あるいは彼女)はわかっていない。家主は早見だ。日高に懐いたところで、彼の運命は変わらないのに。
臭いがするのも構わずに、日高は犬の身体を抱き締めた。早見を見上げるが、なんと言って説得すればいいのか、皆目見当もつかない。
じっと見ているだけの日高に、早見は深々と溜息をついた。ただし、不快を表すものではない。ただ単に、諦めた。それだけの吐息だった。
「まずは獣医だ」
早見はリードを手にした。ようやく犬は、誰がこの場で一番偉いのかを理解して、利口な様子で早見の足元にお座りした。ワン、と大きく一声。それから早見のズボンに頭を擦りつける。
服が汚れても、早見は犬を叱らなかった。頭を撫でて小さく、「それからトリマーにも」と言った。
>28話
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