母は、料理上手な人だった。専業主婦として、持て余した時間を、すべて夕食の支度に使ってしまうような人だった。
だから私の家の食卓には、ほとんど毎日、誕生日とクリスマスがいっぺんにやってきたようなごちそうが並んでいた。
なんでもやってみたい年頃の私が、「お母さん、お手伝いする!」と、台所に行くと、包丁を持ったまま、目を吊り上げて、「いらないいらない! 座って待ってなさい!」と怒鳴るほど、台所を自分の聖域であり、それは私が成長しても同じだった。
食卓に渾身の料理を並べると、猫なで声で、その味について尋ねてくる。母は私が、一通りすべての料理を口にして感想を述べるまで、箸をつけようとしなかった。
『美味しい?』『また食べたい?』『こないだ作ったのと、どっちがいい?』
そう聞かれる度に、とびきり美味しいはずの料理が、砂を噛んでいるような味気ないものに変わっていった。
そういうとき、父は必ず、不在であった。最後に食卓を三人で囲ったのは、いつのことだっただろうか……。
「ねぇ、美味しい?」
そして今、私はあの頃の母と同じ質問を、夫に投げかけていた。彼は新聞からちらとも目を離さずに、「ああ、旨いよ」と答える。出汁巻き卵を咀嚼している様を、私は溜息を隠しながら、見守った。
太陽が昇るのとほぼ同時に起きて、朝食とお弁当を作る。娘の分と夫の分は、おかずを変える。特に娘の分は、同級生がうらやむほど、可愛らしいキャラ弁にする。冷凍食品や出来合いの惣菜は使わない。夕飯の残りもそのまま入れず、リメイクするのが私の信条だが、夫も娘も理解することはなかった。
七時になる頃、私は娘を起こしに行く。
「美優。起きる時間よ。早く」
お気に入りのうさぎのぬいぐるみは、景気よく足元に飛ばされていた。肌寒くなってきたのに、美優はぱんぱんのお腹を出して、眠っている。
「美優ー」
「んー。……やー、ねむいぃ」
寝汚いのは誰に似たことやら、美優は朝起きるのに、必ず駄々をこねる。その間に夫は出社準備を終えて、「行ってくる」と玄関から声を張り上げる。
「いってらっしゃーい」
負けじと大声を出す。わざわざ見送りに行っていたのは、新婚の頃だけだった。
布団から出ようとしない美優の身体を持ち上げて、食卓へと運んだ。その間もぐずぐずとしているので、「美優!」と少しきつく言う。
「やーだぁ! 幼稚園いかない! ご飯いらない!」
ぎゃんぎゃん泣き始めた娘は、両腕をめちゃくちゃに振り回して、テーブルの上の料理を、すべて台無しにした。
泣きたいのは、ママの方だ。
ぐっと堪えて、何も食べずに登園させるわけにもいかないと、シリアルに牛乳をかけて、テーブルにどん、と置いた。
※※※
「クッキングダム? 何それ、知らない」
朝の戦闘の後を隠蔽して、優雅なランチタイムを終えたママ友が、スマートフォンを片手に話を始めた。
彼女たち曰く、「お料理SNS」だそうで、料理上手な主婦たちがレシピを紹介したり、それを作った人がコメントをしたりして、交流を図るものだそうだ。
あまり人付き合いが得意ではない私は、彼女たちがはまっているSNSの類(たぐい)に、登録したことはない。
だいたい、スマートフォンでぱしゃぱしゃと何枚も写真を撮影して、それを加工、コメントを付けて写真を自分のアカウントにアップロードする……という一連の動作をしなければ、目の前の料理を食べないというのは、作った人に対して失礼だと思う。今日の場合は、私に対して。
決してママ友との会話では、おくびにも出さないけれど。
「そうそう。美優ちゃんママ、すっごい料理上手だからさ。やってみたら?」
今日のビーフシチューも最高だった! と、仲間内で一番若い里香(りか)ちゃんママが言う。そのギラギラした長い爪では、思うように料理はできないだろうな、と思った。
「人気のユーザーは、運営からレシピマスターに任命されて、クッキングダムが発行する本にレシピを載せてもらったりとか、もっとすごいと、テレビにも出れちゃうんだよ!」
彼女が告げたお昼のバラエティ番組は、私も時々見る。タレントやモデル相手に料理を教えている人って、プロの料理研究家じゃなくて、普通の主婦だったのか。
「美優ちゃんママなら、まだ若くてきれいだし、アイドルみたいになるかもね」
私よりよほど若い里香ちゃんママにそう言われると、なんとなく腹が立つけれど、それよりも私は、レシピマスターという響きに興味を持った。
家族は誰も、私の料理を美味しいと言ってくれない。本当はこうやって、ママ友たちと交流するのも面倒だけれど、彼女たちは素直に料理の感想を言ってくれるから、私は我慢して付き合っているのだ。
レシピマスターになったら、クッキングダムを使っている人たちが、私のことを褒めてくれる。もしかしたら、テレビで見るタレントも、私を尊敬のまなざしで見つめてくるかも、なんて。
「……面白そう。やってみようかな」
ぽつんと呟いた私に、彼女たちは張り切って、ユーザー登録の仕方から、写真を撮るときのコツを、あれこれ教えてくれたけれど、この人たち、みんな、料理はあまり上手じゃなかったはず。よく知っているなぁ、と呆れつつも感心してしまった。
ママ友たちが帰ってから、早速私は、「みーたんママ♪」のアカウントに、レシピをアップしようと思った。
今日の夕飯は、煮魚の予定だ。魚料理はなかなか敷居が高いと思っている主婦が多いから、簡単にサッと作れるレシピは重宝されるだろう。
作りながら写真を撮る予定だが、先に文章だけ打ち込んでおこう。料理本が並ぶ棚から、ボロボロになった一冊のノートを手にする。
亡くなった母から譲り受けた、レシピ帳だ。私は母の作り方を元に、味の調整をしながら料理を作っている。
母の料理で一番好きだったのは、ミートソースだった。家にはフードプロセッサーもあったけれど、彼女は頑なに、包丁で玉ねぎもニンジンもみじん切りにした。
さらに、挽き肉ではない牛の肩肉を購入し、包丁で何度も叩いて、細かく刻んで作っていた。
普通の挽き肉で作るよりも、「肉!」って感じがして美味しいでしょう、と母は笑っていたが、その実、愛人のところから帰ってこない父への憎しみを、彼女はミートソース作りにぶつけていたのだと、大人になった今だからわかる。
私もまた、夫や娘との関係が思うようにいかないときには、ミートソースを作りたくなる。
しかし、何度も食卓に出たはずのミートソースのレシピは、このノートのどこにも載っていないのだった。
調味料の分量をもたもたと打ち込んでいた。普段、フリック入力で長文を打つことはない。夢中になって切りのいいところまで入力し、はっと時計を見ると、すでに幼稚園バスのお迎えの時間が近かった。
スマートフォンをポケットにしまって、上着を羽織り、慌てて家を飛び出した。
※※※
「美優! 好き嫌いせずに食べなさい!」
「やだ! きらい! ママ、きらい!」
お弁当箱も空っぽにして帰ってくることは滅多にない。食卓は常に、美優との戦争だ。小さく刻んで混ぜ込んだニンジンやピーマンも、見つけ出しては、ぺっ、と吐き出す。
この偏食なところも、誰に似たのかわからない部分だった。私は子供の頃から好き嫌いなくなんでも食べたし、夫からも嫌いな食べ物についての話題は、聞いたことがない。
白いご飯にたまごのふりかけがあればそれでいいという娘とは、わかりあえない。野菜も嫌いだし、魚も嫌いだ。肉も、牛と豚はあまり好きじゃなくて、鶏のささみだけよく食べる。成長のためには炭水化物だけではいけない。
美優は幼稚園の同級生と比べて、背が低いし、手足も細い。なのにお腹だけは、ぱつんぱつんだ。このまま大きくなったらと思うとぞっとする。だから、心を鬼にして、食べさせるのだ。
「食べなきゃ今後一切、おやつはあげません! お人形も買わないし、ゲームだってさせません!」
宣言すると、うぎゃあああと断末魔のような叫び声を上げる。ああ、うるさい。嫌なら食べればいいのよ。
食卓の上の煮魚と、厚揚げと青菜の炒め物はどんどん冷めていく。私の心と同じように。
泣き叫ぶ娘が落ち着くまでの間、スマートフォンをチェックする。夫からは、「帰りが遅くなるから、晩飯いらない」との連絡が、十分前に入っていた。
もっと早くに連絡できないの?
イライラしながら次の通知を見ると、先ほど煮魚のレシピを載せたばかりの、クッキングダムからのものだった。
今度作りたいとブックマークしてくれた人、「美味しそうですね!」とコメントをくれた人、さらに「もう作りました! 簡単!」と写真をアップしてくれた人もいた。
娘の声が、気にならなくなった。嬉しい。私の料理を認めてくれる人がいる。
ひとつひとつのコメントに、丁寧に返信をし終える頃には、美優は泣き疲れて、子供用の椅子に座ったままうとうとしていたし、料理は完全に、冷めてしまっていた。
※※※
今日のランチメニューは、オープンサンドだ。旬のさつまいものディップも張り切って作ったし、ローストビーフも炊飯器を利用した手作りだ。新しいランチマットも購入して、花を飾る。写真映えを考えて、皿に盛った。
スマートフォンで、気に入った一枚が撮れるまで、何度も撮影を繰り返した。ようやく傑作が撮れたので、「どうぞ」と私は、ママ友たちに食事を促した。
「美味しい?」
「え、ええ……まぁ」
彼女たちの目は、示し合わせたかのように、テレビの置いてあるあたりを窺った。少し埃が溜まっているかもしれないけれど、食卓テーブルやキッチンには、何の支障もない。
「そうそう、私、ようやくレシピマスターになれたの!」
スマートフォンの画面を見せると、アカウント名の後ろに金色の星のマークがついている。これがレシピマスターの証だ。
「へぇ、すごい」「やったじゃない」「さすが」
声を合わせて称賛の言葉を並べ立てるけれど、そんなことではもう、私は満足できなかった。
「もっと他に、何かないの?」
「へ? え、ええ、と……」
だって、レシピマスターよ? 全国で何十万人とクッキングダムを利用しているユーザーがいる中で、たった一握りしか認められない存在が、あなたたちの前にいるのよ?
一気に捲し立てると、持っていたナイフとフォークを置いて、彼女たちは黙ってしまった。
「あの、美優ちゃんママ……」
「なに?」
「最近、美優ちゃんママの家にばっかりお世話になってて、悪いなぁ、と思って……今度、新しいカフェがオープンしたんだって! そこでお茶にしようよ」
里香ちゃんママがおずおずと申し出たけれど、間髪入れずに「行かない」と言った。
「お金が心配なら、ファミレスでもいいよ。駅前にあるじゃない?」
「ファミレスなんて、美味しくないご飯にお金使うだけでしょ。無駄よ、無駄。それよりも、今度、スパイスからカレーを作ってみようと思うんだけど……」
どんな配合にする予定かを、クミンだのコリアンダーだののスパイス名を列挙して喋ると、ママ友たちは萎縮して、顔を見合わせていた。
その表情が、「もう誘うのやめよう」というものだと読めたけれど、もうどうでもよかった。
ママ友の価値なんて、そもそも私の料理を褒めてくれるという一点のみにあったのだ。
クッキングダムでフォローしてくれている百人以上の人たちが、ここにいる三人よりも、私の欲しい言葉をくれる今、彼女たちと付き合う理由は、ない。
ひとつだけお礼を言うとすれば、こんなに素晴らしいSNSを紹介してくれたことについてだった。
ママ友と仲良くしないと、娘ものけ者にされると思っていた時期が私にもあったけれど、もう、関係ない。
オープンサンドに齧りついた。今度は具材だけではなくて、パン作りからやってみようと思った。
「おい、ママー。靴下がないぞ!」
夫が私のことを呼んでいる。
「知らないわよ」
スマートフォンからちらりとも顔を上げずに、私は返す。朝のドタバタも、クッキングダムに登録してハマってからは、ほとんど気にならない。
ひょい、と私の視界から端末が消えた。夫に取り上げられたのだ。
「返して」
「……お前、なんか変だぞ。美優の世話も、部屋の掃除も中途半端だし」
「そうかしら? 今までが潔癖すぎたのよ。このくらい、他のママ友だって、手を抜いてるわ」
洗濯物は取り込んだ後、床にぐしゃっと山にしてある。おそらく夫の靴下も、その中にあるはずだ。仕方がないから掘り当てて、渡してあげる。
「あるじゃないの」
靴下と交換で、スマートフォンを返してもらう。昨日一晩で、コメントがこんなについているんだもの。一つ一つ、返信しないと。レシピマスターは大変だわ。
そういえば昨日、私のオリジナルレシピが載ったムックが、見本誌として出版社から送られてきたんだった。美優が幼稚園に行ってからチェックしなきゃ。
ああ、美優。そろそろ起こさないと。いいわよね、どうせ食べないんだから、今日もシリアルで。
「あなた、今日は何時に帰ってくるの?」
「……今日も残業で、遅くなる。飯はいらない」
「そう」
わかってるわ。帰ってきたくないんだって。別にいいの。私のご飯を美味しく食べてくれない夫なんて、いらない。
「行ってくる」
「……」
コメントを読むのに熱中していた私は、夫を無言で送り出した。大きな溜息が、これ見よがしに聞こえたが、気にならない。
「みーゆう。起きて。幼稚園行かなきゃ」
もうシリアルを食べている時間もない。起こして、歯磨きと顔……もいいか。着替えだけさせて、私は美優を幼稚園バスの発着場所へと連れていった。
ガミガミ怒らなくなった私は、美優にはいいママになっていると思う。これも、クッキングダムのおかげだ。
昼食を食べながら、テレビ番組を見ていた。そろそろ私に、レシピマスターとしてテレビ出演の仕事が来ないかしら、と思っていた。
それから、見本誌にも目を通す。十個も二十個もレシピを考案したのだから、たくさん載っているはずだった。
目いっぱいきれいにメイクしてもらって、顔写真も撮影した。料理だけではない、私自身もこれで評価されるのだ。
ふふふ、と鼻歌混じりにムックを開く。ページを捲って、私のレシピを探す。
……待ってよ。おかしくない?
あんなにレシピを提案して、編集者の人も「いいですねー」と笑っていたのに、私が考えた料理は、小さいコラム扱いで、たったの二つしか掲載されていなかった。
スタジオで実際に料理をしている最中の写真も、何枚も撮ってもらったのに、どこにも載っていない。
何度も目を皿のようにして、探し回ったけれど、一枚もない。
なんで、なんで、どうして。
クッキングダムの運営にメールを送っても、たぶん無駄だろう。ムックの発行は、出版社任せだ。
目次ページのお問合せ窓口の電話番号に、すぐさま電話をかけた。担当者が「はい、こちら……」と名乗ると同時に、「どういうことなんですか!」と叫ぶ。
『お、お客様? いかがなさいましたか?』
「私はお客様じゃないわ。あなたのところから来週出る予定の、『クッキングダム・セレクション』の責任者を出してちょうだい。早く!」
受付の女は、「少々お待ちください!」と早口で言い、保留音に切り替わる。
イライラしながら待機していると、テレビ画面には、雑な化粧の主婦が映し出された。
『お料理SNS・クッキングダムで大人気のレシピマスター、松島洋子さんでーす! どうぞー!』
好感度ナンバーワンの女子アナに紹介をされている。ずるい。あそこは、私の場所になるはずだったのに。私ならあの女よりも、テレビ映えするのに。
『お客様。大変お待たせいたしました。ただいま担当者が席を外しておりまして、折り返しお電話いたしますので、お名前と電話番号を……』
「もういいわ!」
ブツリ、と切った。席を外しているというのも、きっと嘘だ。
『ええ~。すごい! 簡単で美味しい! 松島さんは、もう、レシピマスターどころかレシピクイーンですね!』
芸能人が、一口食べただけで絶賛している。何、あの茶色いボール。彩りっていうものを、まるでわかってないじゃない。
あのくらい、私にだって作れるわよ。
「レシピクイーン? どの顔でよ」
若い男の子のアイドルにも褒められて、深い皺の刻まれたおばさんが、年甲斐もなく頬を染めている姿は、滑稽以外の何物でもない。
お母さんどころか、おばあちゃんくらいの年の差があるんじゃない。
苛立ちのままに、テレビを消した。
もっと。もっと、レシピを考えなくちゃ。簡単で、美味しくて、最高のレシピ。そうすればみんな、私のことを認めてくれるはずだ。
※※※
ドン、とテーブルの上に丼を置いた。中には白いご飯しか入っていない。生卵としょう油差しを隣に置いて、そのまま私は椅子に座り、スマートフォンを眺めた。
起きてきた夫は、質素な食卓を見て、「おい」と声をかけてきた。
「……なに。私今、忙しいの」
昨日アップした新しいレシピは、ブックマークの初動が遅い。まだ十件しかチェックしたユーザーがいなくて焦る。それだけじゃなく、最近はコメントも減っていたし、フォロワーの増加も鈍い。
わかりにくいのか。それとも、写真が悪いのだろうか。写真を加工してアップし直していく。
「いい加減にしろ! なんだよこれ! 最近、料理も適当だし、掃除もちゃんとしてないだろ!」
はいはい、と怒鳴り声を聞き流す。どうせいつだって、口ばかり。
「俺はたまごかけご飯だけでもいいし、食事だって適当に買ってくればいいけど、美優が可哀想だろうが!」
「はぁ? 可哀想? 美優が?」
私が丹精込めて作った食事にほとんど口をつけない娘に、凝った食事を与えなくなったところで、今までと変わらないじゃないの。
そう言うと、パシン、と夫が私を平手打ちにした。ビリビリと痛む頬を押さえて睨みつけると、彼はたじたじになった。
その目は卑屈になっていて、後悔するなら最初から暴力に訴えなければいいと思う。
結局夫は、それ以上何も言わず、用意した朝食も摂らずに、出かけていった。
美優はまだ起きてこない。いいか。好きなだけ、寝ていればいい。お腹が空いたら、お菓子を食べさせればいい。私の作った食事よりも、お菓子の方が好きなのだから。
私は、母のレシピノートを漁った。新作のヒントになる物がないかと、隅から隅まで探した。
けれど、すべてクッキングダムにすべてアップしていた。アレンジメニューも、今まで考えてきたものは、全部だ。
力なく、私はノートを床に落とした。古ぼけた冊子は、バサリと音を立て、糸がほつれてばらばらになった。
「ママぁ。お腹すいた……」
目を覚ました美優に、おはようの一言を言う気力もなく、無言で買い置きのポテトチップスを渡した。
「ママ、朝からお菓子だめって……」
「いいのよ。あんた、お菓子好きでしょ? ママの手作りのケーキよりもプリンよりも、ポテトチップスがいいんだもんね?」
「ママ……?」
不思議そうな顔をして見上げている娘に、イライラした。深呼吸を繰り返すと、スマートフォンが通知が来たことを告げた。
クッキングダム運営からのメッセージが来ていた。アプリを開いて、ダイレクトメッセージを確認する。
【アカウント停止のお知らせ
お客様がお使いのアカウントは、他のユーザー様からの違反報告により、停止させていただきます。なお、復帰につきましては……】
は? 何それ、アカウント停止? 意味がわからない。迷惑行為で違反報告? 誰がそんなことをしたのよ。
ただ私は、フォロー解除したユーザーに、メッセージを送っていただけじゃない。どうして解除したの、何か悪いことがあったなら教えて、って。
それのどこが、迷惑行為なの?
スマートフォンを、床に叩きつけた。何度も何度も繰り返すと、当然のことながら、壊れた。
新しい電話番号のスマートフォンを用意しよう。名前も変えて、またレシピマスターになればいい。
鼻歌がついて出る。
今度はうまくやるわ。そのためにも、一番のレシピを用意しなきゃ。
母が作った料理で、最も思い出に残っているのは、やはり、ミートソースだ。そう、中でも最後のミートソースは、大きな挽き肉の塊がぎっしりと口の中を満たし、脂も乗っていて美味しかった。母は静かに、私がもりもりと食べる様子を見守っていた。
その日を境に、父は帰ってこなくなった。失踪したのだと知らされたのは、しばらく経ってからだ。
あれ以来、母はミートソースを一切作らなくなったし、食事も手を抜くようになった。
あのときの味を、再現できるのならば。
きっとクッキングダムで、私は天下を取ることができる。
単独でレシピ集を出版することだってできるし、テレビ出演だって夢じゃない。
あのイケメンアイドルに、「すごい! 美味しいです!」と蕩けるような笑顔を向けてもらうのは、私よ。
ポテチを食べている娘の顔は、子供の頃の私に、よく似ている。母の気持ちなどまるで理解せずに、不満ばかりを抱いていた頃の私に。
ふらふらと立ち上がり、台所へ引っ込む。
パリパリパリパリ、ポテトチップスを咀嚼する音が、うるさい。
普通の包丁しかない。後でホームセンターで、肉切り用の大きな奴を買ってこないと……のこぎりの方が、いいかしら。
最後の、最高のミートソースに使われていた肉は、牛でも豚でもない。初めて食べた味だし、それ以来どんな高級なフレンチでも中華でも、一度も食べたことのない肉だった。
もしも、あの肉よりも若く柔らかく、良質なものだったら、もっともっと、美味しいミートソースができるわよね。
「ママ……?」
大丈夫よ、美優。ママが美味しく、料理してあげるから。
最高のミートソースを、あなたは口にすることができなくて、可哀想だけれども。
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