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<12話
最近楽しそうだね、と高山は言った。自覚症状のない俊は首を捻る。さて、いつもと違うところなどないはずなのに、と。
「時計、するようになったでしょ?」
「ああ、はい」
スマートフォンで時間の確認は事足りる昨今、大学生でも腕時計をしない人間は多い。俊も手首を締め付けられるのがあまり得意ではなく、避けていたのだが、最近は腕時計が必須になってしまっている。あまり使わないスマートフォンをわざわざ取り出して時刻を確認する手間さえ惜しい。
「ウサオくん、元気?」
「あ……はい」
虚を衝かれたように俊は一瞬返事が遅れた。もう一月以上も何事もなく――と言うには若干語弊がある。喧嘩はしょっちゅうだ――一緒に暮らしている。
「それ、ウサオくんのところに早く帰るためにしてるんでしょう? 今だってそわそわしてるしさ」
違います、と即答できなかった。その通りだったからだ。高山はうんうん、と微笑みながら頷いている。いい兆候だねえ、と。その指す意味を、俊は汲み取ることができない。
「レポート、楽しみにしてるね」
帰り際にかけられた声に、はっとした。そうだ、ウサオは実習相手だ。ルームシェアの相手では、なかった。
ウサオの記憶は戻る気配すらない。何かのきっかけにでもなれば、と少し前に流行したドラマや映画、それから音楽をレンタルしてウサオに見せたり聞かせたりしているのだが、普通に二人で楽しんでしまって、何の成果も上がっていないのが現状である。
二人で共に眠って、朝、ウサ耳筋肉の肉布団の上で目覚めるのにも、もう慣れてしまった。ウサギの耳と尾さえなければ、ウサオは少し乱暴なところもあるが人懐こい性格で、ぺらぺらとよく喋る。無口だ寡黙だとは言わないが、普段は口数がさほど多くはない俊は聞き役に回ることが多いが、それでもウサオは楽しそうだ。
ウサオは外に出られない分、俊の話も聞きたがった。特に食いついたのは大学の話だった。研究内容などについては、はてなマークを頭から飛ばしていたが、学食の中身や寮生活をしていた時代の飲み会の話は、にこにこしながら聞いていた。
本当なら、ウサオも学生をしていたのかもしれない。スーツを着て働いているような男には見えないから、学生か、フリーター。自分と同じように酒を飲んだり、くだらないことを語り合ったりする仲間というのが、ウサオにも存在したはずだ。なくなってしまったスマートフォンにはおそらく、そうした親しい友人たちの連絡先もたくさんあっただろう。
ウサオのストレスを軽減してやりたかった。笹川たちと相談して、夜中に帽子を被らせて、ベランダに出たりアパートの外を散歩したりを三日に一回は行うことにした。コンビニに行きたい、というウサオだがそれはさすがに許可できずにいる。
あとは料理をすることに喜びを見出しているようだったので、定期的に新しい料理の本を買って帰ることにしている。俊も美味いものにありつけるということで一石二鳥だ。筋トレよりもずっといい。
「こないだ買ってもらった本を見て作ったんだ」
褒めて褒めて、という目でウサオは俊を見つめる。一口食べて目を合わせる。こちらもそれほど金があるわけではないので安い肉しか買ってこられないのだが、驚くほど柔らかいトンカツに仕上がっている。最初のときにすべての料理を失敗して半泣きになっていたのが嘘のようだった。
こくり、と小さく頷くと嬉しそうにウサオは笑って、「いっぱい食えよ!」と自分の分のトンカツも俊に差し出してくる。そんなに食えない、と慌てて押し留めた。
じゃあお茶淹れるな、とこれまた勉強の賜物か、随分と美味い茶を淹れられるようになったウサオがキッチンへ引っ込んだのを機に、俊はこっそりと息を吐いた。
二人の生活が、楽しい。そう思うようになってしまった。筋トレは毎日は嫌だけど、適度に身体を動かすのも悪くはない。夜中の散歩は秘密を共有している感じがして、ワクワクする。公園のベンチでココアを飲んだときにウサオが火傷した舌。あちち、とぺろりと外気に晒されたそれを、俊は覚えている。
けれどそれが、怖い。心を許すのが、怖い。あのときだってそうだったじゃないか。それまでと同じで心を緩し、家族として向き合った途端、裏切られたじゃないか。
親しみを覚えれば覚えるほど、裏切られたときの衝撃もまた、大きいのだ。もういい大人になったけれど、俊はあの幼い日のトラウマを、拭いきれずにいる。
せめてウサオがウサギじゃなかったならば。
何度も行った仮定法だ。現実にはウサオはウサギの遺伝子を組み込まれたウサギ男で、だからこそ「ウサオ」という呼び名を与えられたのだ。
『レポート、楽しみにしてるね』
高山の声が耳から離れない。今までの生活を、幼い頃経験したアニマル・ウォーカーとしての生活と比べてみる。犬のように四足歩行する青年と、野原を駆けた。君は人間なのだから、と。傷ついた目をした猫耳少女とたくさん遊んだ。楽しい思い出を作るのが、俊の役割だった。
しかし父と母はどうだっただろうか。ヒューマン・アニマルとして性を売ることしかしなかった彼らに対して、両親は二足で歩行することや、人間らしい暮らしのマナーを教えていた。「君は人間だ。動物の耳や尾を持っていて、寿命が違ったとしても、我々と同じ人間なのだ」――そう話していた。
アニマル・ウォーカーはけっして楽なボランティアではない。本当の犬や猫を飼う以上に気を遣わなければならない。だからこそコーディネーターの活躍の場がある。
俊は今のままではレポートなど書けない、と思った。ただ同じ年頃の青年と共同生活を送り、怠惰な日々を過ごしているだけでは、実際のアニマル・ウォーカーとしての経験を今後のコーディネーター業務に生かすなどということが、できるわけがなかった。
「お待たせー」
間延びした声でウサオが湯呑を運んでくる。美味しく淹れる練習をするんだ、とねだったウサオに奮発して買い与えた玉露は、普段飲む緑茶や紅茶、コーヒーよりも温い。一気に飲み干した俊に対してウサオは目をぱちくりとさせ、「おかわり、いる?」と聞いた。俊は首を横に振る。
「レポート、書くから」
そう言うとウサオは寂しそうに肩を落とす。学問の手伝いをすることはできないと知っているし、そのレポートの対象が自分であるということも知っているから、何も言わない。それでいて、表情だけは悲しい顔を作るのだ。無自覚に。
もしもウサオが本当のウサギだったならば。
いつもはしない仮定法だった。本当のウサギなら、人間のような表情は作れない分、こんな風に良心が痛むこともなかっただろうに。
だがいずれにしても仮定法に過ぎないのだった。
>14話
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