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<19話
俊が掴んだとおり、ウサオは旧理工棟のトイレの中に立てこもっていた。原子力研究室しか存在していないその建物は静かで、ここに至るまで他に誰もいなかったのである。最初は錦一人だけだった追手がいつの間にか増えていた。その数、五人。
ドアを強く蹴ったり叩かれたりするのは、雷鳴のようなものだった。破られたらどうなってしまうのか、考えたくはないけれど、ウサオには容易に想像がついた。扉を蹴っている男たちは嫌らしい言葉をウサオに投げかけてくる。ここを出てはいけない。レイプされるに決まっている。
レイプ自体は嫌だけれど、耐えられるかもしれない。自分は女ではない。ただの暴力の延長線上にあるのだと思えばいい。ウサオは扉を押さえつつ、ぎゅっと目を瞑って思う。
ウサオが恐れているのは、そのレイプが引き金になることだ。肉体を蹂躙されて、もしも万が一、ウサギの本能が目覚めてしまったら。
――二度とあの檻から、出られないかもしれない。
俊の部屋を出なければならないとか、そういうのは些細なことだ。あの部屋が、ウサオは怖い。自分の末路があんな風になることだけは、避けたい。
抱かれるわけには、犯されるわけにはいかない。扉を封鎖する手に力が籠る。いつぶち破られるかわからない恐怖の中、ひつらに助けを求めていた。声を出すわけにはいかなかった。何かを喋ったら、それに対して卑猥な言葉をぶつけられるに決まっていた。
――助けて。
鍛え上げた肉体は何の役にも立たなかった。殴り合いでも五対一では分が悪い。こんなに筋肉隆々の男を犯そうという人間が、こんなにもたくさんいるとは思わなかった。女の身体の柔らかさなど、ウサオには一欠片もないのに、男たちは誘蛾灯に惹きつけられたようにウサオに群がってくる。
――俊……っ!
ここに至っても頼ることができるのは、助けに来てくれるビジュアルを明確にイメージできるのは、俊だけだった。高山でもなく、笹川でもなく。この二か月生活を共にした俊しかいない。
モヤシみたいに細くて、眼鏡でひ弱で、決してヒーローなどには見えないのに、ウサオにはもしもこの窮地を救ってくれる人間が現れるなら、それは俊しかありえないように感じられた。
その時は唐突に訪れた。
「やめろ、錦!」
高めに掠れた声は、聞き覚えが嫌というほどある。嘘だ、とウサオは震えた。本当にヒーローだったのか、こいつは。
扉を叩くのが止んだ。闖入者に注目しているのだろう。
「ウサオを離せ」
はぁ、はぁ、と息が荒い。それほどまでに急いで来てくれたのだろう。錦はそんな俊を鼻で笑った。
「やっぱりこのウサギとできてたんじゃねぇか。このホモ野郎」
信じがたい罵声が浴びせられる。俊の人生の中でこんなにも罵倒されたことは一度もないのではないだろうか、とウサオは思った。
「……離せと言ってる!」
ばき、と拳が振るわれた音がした。俊が殴られたのではないか、と息を呑む。だが苦しげに呻いたのは俊ではなく、錦の方だった。
「野郎……っ!」
錦の舌打ちを合図にしたのか、乱闘が始まった。居てもたってもいられずに、ウサオは扉を開けて飛び出す。
「俊!」
「馬鹿……っ! そのまま引きこもってろよ!」
俊が倒されていた。その図を見てウサオはカッとなった。頭に血が上って、俊に馬乗りになっていた男を無我夢中で蹴り飛ばした。どさり、と床に落ちた男に追い打ちをかけるように、背を思い切り踏む。
「俊は、関係ないだろっ! やめろよ! 俺のこと犯したいだけなんだろ!?」
その様子を見た男たちはウサオではなくて俊を押さえこみ、始末しようとし始めた。ひ弱な俊の方が御しやすいとでも思ったのだろう。
殴り飛ばされた錦は、口の端に滲んだ血を手の甲で拭きながら、「関係ない、だって?」と嘲笑った。
「関係ないわけ、ねぇだろうが!」
ウサオの制止も聞かずに、錦は取り押さえられた俊の首を締めにかかった。呻く俊を助けようとするウサオだったが、ウサオも二人がかりで止められてしまう。
「やめろっ、やめろおおおっ!」
そこまでだ、と野太い声が響き、静寂が訪れた。笹川と高山、それから藤堂が現れてその場を支配したのだ。藤堂は警察手帳を取り出した。
「警察だ。暴行の現行犯だな」
「ついでに亜人類人権法にも抵触しているが、それはまた別の管轄か」
錦たちは藤堂が秘密裏に呼んだ――ウサギのヒューマン・アニマルが大学にいると公になるのはまずいし、何よりもウサオを改造した犯人はまだ捕まっていない。錦の投稿した画像もすでに削除されている――覆面パトカーに乗せられた。
ウサオは俊に駆け寄って、抱き起こす。首には絞められた跡が鬱血して痛々しく残っている。
「……結局助けられたな……」
俊は少しだけ、悔しそうだ。ウサオは首を横に振る。涙が溢れてきたのは、安心したせいだ。
「ありがとう」
ただの実習相手、研究対象である、俺を助けに来てくれて。
そう言うと、俊は「心外だ」という表情でウサオの額を小突いた。
「あ痛っ」
「……誰が研究対象だって?」
そんなのもう、どうだっていい。俊は言った。改めてっていうのは何というか、恥ずかしいけれど、と。続きをウサオはドキドキしながら待つ。
「……改めて、友達として、付き合ってくれないか」
ウサオの答えは決まっていた。きつくきつく、俊の身体を抱きしめると「苦しいぞ」と文句を言われたが、離す気にはなれなかった。
>21話
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