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<26話
だいたい朝起きると、ウサオの手によって朝食が用意されている。その日のウサオの気分に左右されるが、和食のことが多い。
目覚めの瞬間に普段ならば味噌汁の匂いがふんわりと漂っていて、寝起きの胃袋を刺激して本格的な覚醒を促すのだが、今日は違う。ベッドの上からウサオの姿は消えているが、キッチンからの物音もしない。不審に思って俊は寝室を後にする。
「ウサオ?」
テーブルについたウサオは、ぼんやりとしていた。園てには野菜スティック。マヨネーズもドレッシングもなしに、ぼりぼりと生のにんじんを貪っている。
「ウサオ……?」
二度名前を呼んで、ウサオはようやくはっとして、俊の存在に気がついた。あっ、という顔になって、「ごめん」と謝った。
「ごめん……なんか、野菜見たら思わず食べたくなっちゃって……」
飯、今から作る、とどたばたし始めたウサオを制止して、俊は彼の額に手を触れた。
「熱、あるんじゃないか?」
「え……でも身体しんどくないし、大丈夫だろ」
ほら、元気元気。
そうは言うものの、ウサオはやはりいつもより反応も鈍く、ぼーっとしている様子だった。
「トーストくらい自分で焼けるから、座ってろよ」
「でも」
「いいから」
押し問答を繰り返して、ウサオの方が折れた。座ってまた、セロリをむしゃむしゃ食べている。セロリは嫌いなはずなのに、気にせずに食べているのが不思議だった。
出来上がったトーストを片手に、俊も座る。ウサオは野菜スティックを食べ終えて満足したのか、ミルクティー色をしたロップイヤーをくしくしと弄り始めた。
その様子は、まるで本物のウサギだ。髪の長い女性が自身の髪の毛を弄るように、ウサオは両手で自分の長い耳を揉んだり引っ張ったりして弄んでいる。
「ウサオ」
「……っ、うん?」
俊を見るウサオの目は、いつもよりも潤んでいる。やっぱり熱があるに違いない。
「今日は授業終わったら、すぐに帰ってくるから。ちゃんと寝てろ。しんどかったら俺か、笹川さんに電話。わかったか?」
ウサオは不承不承といった様子で小さく頷いた。納得していないのは一目瞭然だった。
大学院生の俊は、時折学部生向けの講義の手伝いをさせられる。印刷されたレジュメをホチキスで止めるという地味な作業をしていると、「あ~疲れた~」という溜息とともに、高山が入ってきた。
「今日授業ないですよね?」
「ああうん。ないけど、先週最後の講義のときに忘れ物しちゃってさ~。もう年末近いから置いておくわけにもいかなくて」
と言いながら向かったのが研究室に備え付けてある冷蔵庫だったので、「食べ物ですか」と言う俊の声には呆れた色が混じってしまった。そのニュアンスを高山はしっかりと聞き取って、
「食べ物を無駄にしたらいけません~って、小さい頃習ったでしょ?」
こないだコンビニで買って休憩中に食べようと思ってたプリン忘れちゃってさ~、と言いつつ冷蔵庫を見て、高山の顔色がみるみるうちに変貌した。
「……ない……」
「ああ。玉置教授が食べてましたね、そういえば。まぁいいんじゃないですか。今日取りにきても消費期限切れてたでしょうし、無駄にならなくて」
ぐううう、と高山は唸り声をあげる。そうこうしているうちにレジュメの用意がすべて終わった。俊は「そうだ」と高山に質問を投げかける。彼の背中には重い影を落としていたが、そんなことは気にしない。
「あの、ウサオが」
そう切り出せば、高山はさすがに自分が世話を押し付けた責任もあってか、話を聞く姿勢を見せた。
「ああ、ウサオくん。元気?」
「昨日まで元気だったんですけど、なんか今日は熱っぽくて。本人は元気だっていうから、まだ笹川さんには何にも言ってないんですけど」
コーディネーター資格の他に医師免許も持っている笹川は、「臨床医としては一度も勤務していないが、まぁ支障ないだろう」とウサオの主治医を買って出てくれている。
「それはちょっと心配だね……」
他に変わったことは、と問われ、俊は少し迷ったが、ウサオの今朝の様子について口にした。
「生のにんじんばりぼり食べてぼーっとしてたりとか、あと、なんだろう……仕草が……」
身振り手振りでウサオが耳を弄っていたことを高山に伝えると、高山は「うーん」と腕組みをしながら考え込んでしまった。
「やっぱり何か病気なんですか?」
難しい顔をしている高山に、俊は一気に不安に駆られる。家に一人でウサオを残してきてしまったことを後悔した。年内最後の講義なんてさぼればよかった。こうして教授に見つかって雑用を押し付けられるのだから。
「病気、かどうかは見てみないと判断できないけれど……なんか、ウサギ化してない?」
「ウサギ、化……」
「うん。耳いじってたんでしょ? それって、ティモテって言って、ウサギがよくやる仕草なんだよ」
高山は研究室のパソコンを操作して、インターネットの動画サイトでウサギの動画を探し、俊に見せた。そこには奇しくもウサオの耳とそっくりな色をしたウサギが、ウサオと同じ仕草で耳を弄っている姿があった。
「女の人が長い髪の毛を洗ってるみたいだよね」
「確かに……」
女性であればセクシーでドキッとするところだろうが、相手は自分よりも上背も筋肉もあるウサ耳男だ。ドキッというよりもぞわっとする。
「一応電話でもしてみたら?」
「あ、はい。そうします」
じゃあ、と一礼して俊は研究室を退室し、ウサオの携帯電話へと番号を発信した。一回、二回、三回。コール音が続いた。いつもよりも電話に出るのが遅くてハラハラしたが、それから二コールして、ウサオは電話に出た。
『もしもし? 俊?』
電話を通してだから声がいつもと違うのは当たり前だろうが、それにしても掠れた聞き取りにくい声だ。
「ああ。ウサオ、寝てた?」
『うん……出るの遅くてごめん』
「体調は悪くないのか?」
『ん? うん? 全然だいじょーぶ。でもちょっと、眠い……眠いだけ』
片言になっているのは眠いだけだとわかって、俊はほっとする。それから何か欲しいものがあるかどうかだけ確認して、俊はウサオとの通話を切った。
>28話
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