『豊嶋玲子は、A県出身の女優だった。昭和〇〇年に上京し、Xという劇団に所属した。地元では評判の小町娘だったが、舞台では主役はおろか、せりふのある役につくこともほとんどなかった。
彼女が有名なのは、女優としての功績ではない。日本のエリザベート・バートリと呼ばれる、稀代の女殺人鬼としてである。――』
「ねぇあなた、それでいいの?」
レポートの冒頭部分を書いていると、ディスプレイを覗き込まれた。見られていると集中できないので、ゆっくりとノートパソコンを閉じる。
「いいの、とは?」
ミサコは同じゼミの中で唯一、話しかけてくれる女子だ。姉御肌の彼女は、教室でも飲み会の席でも孤立しがちな僕を、何かと気にかけてくれる。
「あれ」
ミサコが顎で示した先にいるのは、同じくゼミ生のサトシだった。行儀悪く机に尻を載せ、女子と授業後にカラオケに行く約束をして、ヘラヘラと笑っている。
「そのレポートだって、あいつとのペア発表のためのやつでしょ?」
犯罪心理学は、専門にしている教授がほとんどいない。漫画やドラマなどでプロファイリングに興味を抱いたとしても、実際に日本警察では採用されていない。
それでも興味をもつ学生は後を絶たず、日本でほぼ唯一、犯罪心理学を学べるゼミの競争は激しかった。高い倍率を勝ち抜いた学生たちは、教授に課されるレポートや発表に、真剣に向き合っていた。
サトシたち、一部を除いて。
ミサコはこそこそ、誰にも聞かれないように僕に囁く。耳たぶに生暖かい息が吹きかけられ、日の高い時間だというのに、性の匂いを感じ、居住まいを正す。
彼女は僕に気がある……なんて、冗談でも言えやしない。僕は冴えない男で、異性にモテたためしはない。
「選抜のときのレポートだって、君が書いたって」
僕は言葉を濁した。へらりと笑って、頷いたか横に振ったかわからない、緩慢な動作で首を動かす。
疑いの眼をずっと僕に向けてきたミサコだったが、ふいに諦めて、視線を逸らした。僕はホッと胸を撫で下ろして、再びパソコンを開く。
彼女はサトシたちグループを見ていた。
高い倍率のゼミに受かったところで、ステイタスくらいにしか感じていない彼らは、一応出席はするものの、真面目に参加はしていない。
几帳面なミサコのことだから、その目には侮蔑が籠められていると思った。事実、何度かサトシたちの一団に、厳しく注意をしていたこともある。
ふぅ、彼女は溜息をつく。僕は尖った彼女の口を見つめる。ほとんど化粧をしない彼女の顔の中で、唯一つやつやと輝いているパーツだった。
僕はミサコから視線を外し、サトシを眺める。
離れたところからでも、ひときわ目立つ、華やかな美貌。これで素行がよければ、学校祭のミスターコンテストで優勝できただろうに。
「彼は僕の親友だし、いつものことだから」
ぼそぼそと言えば、ミサコは「え?」という顔をしてこちらを向いた。目を合わせるのはちょっと怖いから、パソコンの画面を見た。テキストエディタに表示された、豊嶋玲子の名前を反転させる。
ミサコは再び小さく息をつくと、「じゃあね」と言って、教室から出て行った。
『玲子が殺した人間は、公式には五人と記録されている。しかし、これは当時の捜査で他殺であると断定されたのが五人ということだ。実際の殺害人数に関しては、玲子の自供が二転三転したために、不明である。
女の大量殺人犯は、男に比べて少ない。近代アメリカにおいても、連続殺人犯のうちの十五パーセントほどだ。女の扱う凶器の多くは毒薬であり、玲子も当時簡単に入手が可能であった農薬を利用した。そして自殺に見せかけて殺害したのである――。
被害者は男性が二名、女性が三名である。最後の一件を除き、劇団の繋がりで知り合った、芸能界志望の若者たちだ。
遺書はなく、不審死として捜査は行われたが、被害者たちの交友関係は広く、後ろ暗い部分もあったため、難航した。
玲子は全員と知り合いであったことから、捜査対象になったが、決定的な証拠はない。
被害者が精神的に弱っていたという証言もあり、結局は突発的な自殺として決着した。
最後の犠牲者とされる女性・Aは、芸能界とは無縁だった。夫と七歳になる娘と幸せに暮らしていた彼女は、自殺する理由などひとつも見当たらなかった。親族に警察関係者がいたため、他の被害者と違い、すぐに結論を出すわけにはいかなかった。
玲子が逮捕されたのは、昭和○○年の七月二十日であった。
Aの死の直前、一週間前から家に毎日訪れていたこと、不審死を遂げた人々と面識があったことを理由に、任意の事情聴取にかけたところ、犯行を自供した。自殺とされた他の四件についても他殺をほのめかしたため、再度の捜査が行われた――』
「はい、どうぞ」
「わっ」
突然、頬に冷たいものが押し当てられて、悲鳴をあげた。キーボードに指をひっかけて、意味をなさない文字が画面に現れる。
「ミサコさん」
非難を籠めた目で見つめると、彼女は「ごめんごめん」と、まったく悪いとは思っていない笑顔で手を合わせた。
「当たればもう一本! って、本当に当たるんだね。炭酸好きじゃないのに、慌ててコーラ押しちゃったから、あげる」
僕も炭酸は不得意なのだが、いらないと断るのも悪い。「ありがとう」と受け取るが、そのまま置いた。
口の中でパチパチと弾ける泡は、爽快感ではなく、痛みとしか感じられない。コーラ、という不自然な味も、好きではない。
彼女はカフェオレのペットボトルを手に、僕のパソコンの画面を覗き込んでくる。
「豊嶋玲子……って、どんな事件だっけ」
講義で取り上げた以外の犯罪者の心理について考察せよ、というのがペア発表の課題だった。ペアとは言っても、サトシは最初から僕に全部押しつけるつもりだったので――そうじゃなきゃ、彼は僕なんかとは組まない。可愛い女の子とのペアを即座に作って譲らないだろう――、取り上げる犯罪者の選定から何から何まで、僕がひとりでやっている。
豊嶋玲子についてなら、僕が日本で一番よく知っている。ただし、どこから説明するべきかわからなかったので、口を開くのがわずかに遅かった。
その間に、ミサコはさっさと自身のスマートフォンで「豊嶋玲子」を検索して、ウィキペディアに目を通している。
「日本のエリザベート・バートリ、か。なんか昔、テレビで見たことある気がする」
豊嶋玲子の被害者が、いずれも見目麗しい若者であったこと。彼女自身もかなりの美貌の持ち主であったことから、「自分の美しさを保つために、被害者の生き血を吸った」などと言われている。
「うん。でも、僕は違うと思っていてね」
そもそもエリザベート・バートリが血の浴槽に使っていたのは、処女の生き血だ。毒殺では出血はたいしたことはないし、死体損壊を行っていたというデータもない。
僕はミサコに、持論を展開しようとした。誰かに話すことで考えはまとまる。よりよい発表、レポートのためには議論が必要不可欠だが、ペアのサトシは相手をしてくれない。
せっかくミサコが興味を持ってくれたのだ。この機会を逃したくなくて、僕は唇を舐めて湿らせた。
しかし、彼女の心は僕のレポートから、すぐに離れていくことになる。
「お。コーラじゃん。もらい」
「あ!」
傍らに置きっぱなしになっていたコーラの缶が、ひょいと取り上げられる。犯人はサトシだった。にやにやしながら、プルトップを開ける。
「ちょっと。あんたのじゃないわよ」
呆けたような表情を浮かべたミサコは、次の瞬間、烈火のごとく怒り始めた。たかがコーラ、しかも抽選に当たったオマケにしては、激しい反応であった。
サトシは僕とミサコを見比べた。にやにや笑いは止まらない。
「あ、これミサコの? わり。じゃあ返すわ」
いや、飲みかけのやつ、返されても困るだろう……。
困惑している僕をよそに、サトシはミサコに缶を手渡した。彼の大きな手のひらが、ミサコの小さな手を覆い隠す。薄いピンク色をした爪が見えなくなる。
いつの間に、彼女の爪は色づくようになったのだろう。
「それ、僕が捨ててこようか?」
サトシはそのまま出ていってしまった。
ゴミを押しつけられた格好になった彼女を気遣い、おずおずと申し出る。憤慨しているように見えたミサコは、僕の声にハッとしたように振り向き、笑った。
「いや、いいよ。うん。このくらい、自分で捨ててくるから……」
言って、研究室を出て行ったミサコの耳の縁が赤かった。
サトシは缶を渡すときに、妙に時間をかけていた。僕の座る場所からは、彼がミサコの手を軽く握ったように見えた。
『歴史に名を刻む大量殺人者は、概して常人には理解しがたいものだ。男の場合は動機が異常性欲・変態性欲と結びつく場合が多い。
例えば、アルバート・フィッシュは自身のありとあらゆるフェティシズムに基づく欲求を満たすために被害者を拷問して殺し、その遺体を食べた。また、チカチーロは勃起不全という性的コンプレックスを抱えていたという。
では、女の場合はどうか。
数少ない女の殺人犯は、もっと打算的だ。夫や子どもにかけた保険金を詐取するために、事故に見せかけて殺す。味を占め、次の家でも殺人を犯す。
殺人犯が看護師であることも多い。俗に言う、「死の天使」である。
病院で、苦しむ患者の求めに応じ、点滴に薬剤を混ぜる。人助けのつもりの女もいれば、単純に夜勤中に呼び出されるのが嫌だったからという、身勝手な理由を掲げる犯人もいる。
豊嶋玲子が人々を殺したのは、金のためでもなければ、自殺を手助けするためでもない。
今もなお、わからないままなのである。
彼女は逮捕後も、裁判中も、動機について語らなかった。玲子の起こした事件を扱うルポルタージュは何冊が出ているが、以下に一部を引用する。
【豊嶋玲子は、ことが裁判に至っても、感情を大きく揺らすことはなかった。背中をぴしりと伸ばし、前を向いていた。ただ、裁判官を見ていたかどうかは、わからない。ニヤニヤニタニタと不気味な笑みを浮かべていた。法廷に被告人が化粧をしてくるはずもないのに、その唇は妙に赤かった】(大沢P302)――』
「来週オレらの発表の番だけど、できてんのか?」
スコーン、と頭を叩かれた。そんなに力は強くなかったが、軽快な音が鳴った。億劫だったが振り返ると、サトシだった。ニヤニヤ笑いながら、僕の耳を引っ張る。
「で・き・て・ん・の・か?」
痛みと至近距離からの大声に頭を揺らしつつも、画面を指さした。サトシは文章をスクロールして眺め、十分な分量と判断したのか、「できてんならとっとと言えよ」と、再び頭を叩く。
悔しいくらい、顔だけはよい。
僕が彼と友達付き合いを続けているのは、ひとえにサトシの美貌ゆえである。恋愛感情とも友情とも違う、この気持ち。美への崇拝とでもいえばよいだろうか。
「あんだよ。見てんじゃねぇよ」
もう一発、叩かれる。
口よりも先に手が出る男に、反論や言い訳は一切効果がないことはわかっている。僕は溜息をぐっと飲み込んで、愛想笑いで「ごめんね」とだけ伝えた。
用事はそれだけかと思いきや、サトシは隣にどっかりと腰を下ろす。ペットボトルをベコベコとつぶすのは、威圧だろうか。
僕はサトシを気にしつつも、再度パソコンに向き合った。いよいよ大詰めなのである。ここまでは、豊嶋玲子と彼女の起こした事件について、調べたことをまとめただけだが、この先は、僕の持論を展開していくのだ。
まぁもっとも、公的にはサトシの成果とされるのだろうけれど。
しばらく黙っていた彼は、すぐに飽きたのか、「なあ」と話しかけてきた。
「お前さあ、あの女とできてんの?」
あの女、とはミサコのことだろう。僕なんかに話しかけてくるのは、彼女くらいしかいない。
手を止めて、「付き合うなんて、そんなことは」と言えば、サトシは大きな口を開けて笑った。
「だよなあ? お前みたいな陰キャと付き合う女なんているわけねぇ」
それから彼は、僕の首に腕を回した。締めつけられて、苦しいともがく僕の耳に、彼はひそひそと、「実は狙ってんだよね、オレ」と言う。
ああ、やっぱりな。
先週、ここで出くわしたときの彼らは、なんだかおかしかった。下僕扱いの僕ではなく、ミサコに缶を押しつけたこと。その後の彼女の反応。
もっといえば、ミサコがサトシに恋をしていることは、早い段階から気づいていた。
彼女がサトシについてあれこれと僕に文句を言ってくる様は、女子中学生のメンタルに近かった。委員長タイプの女子が、ヤンキーの男子に恋をしてしまった、みたいな。少女漫画のごとき、ささやかでひねくれたアピール。
「あいつ、オレに絶対気があるだろ」
先週の一件で、確信を持ったにちがいない。なら二人で勝手にやってくれと思うのだが、サトシは僕にマウントを取らなければ気が済まないのだ。彼は、僕がミサコのことが好きだと思い込んでいる。
まったくもって、そんなつもりはない。そりゃ、あまり近くに寄られれば、「いい匂いがするな」なんて、ドキリとはするが。
底意地の悪い笑みを浮かべる唇は、せっかく形がよいのに歪んでしまっている。
僕はそのニヤニヤ笑いをやめさせたくて、「やめておいた方がいいと思うけれど」と、忠告した。
途端に、サトシの顔色が変わる。はっきりと怒りを浮かべる。青筋を立てていても、美形は美形なのだと思う。
「あぁ?」
凄まれて、首を引っ込める。それでも、口にしてしまったからには、最後まで言うべきことは言うぞ、という気持ちで彼に向き合った。
「だって、ああいう真面目なタイプ、こじらせたら大変じゃないかい?」
サトシのハーレムは、彼と似たり寄ったりの女性たちで構成されている。気軽にくっついたり離れたり、三日前に別れたと思ったら、もう元鞘に収まっていたりする。挨拶するように、人前でセックスの約束をする、露出狂たち。
対してミサコは、頭が硬いタイプだ。夢見る乙女タイプ、ともいえる。
サトシと真実の愛によって結ばれれば、必ず更生させられると信じている。
「あんまりもてあそぶと、いつか殺されちゃうよ」
僕の強い言葉が、意外だったのだろう。サトシは目を丸くした。色素の薄い、アーモンドアイ。本当に、見た目はパーフェクトな男だ。
「なんだお前、オレのこと心配してくれてんのか?」
「まあ、友達だからね」
僕の答えのどこが面白いのか、サトシは背中をバシバシと叩いてきた。ジン、という痺れに僕も笑った。
『玲子は逮捕時、妊娠していた。判明したときには、すでに堕胎できる時期を過ぎていた。
お腹の子の父に関して、彼女は何も語らなかった。当時はまだ、DNA鑑定の技術も発展途上であった。被害男性のうちのどちらかというのが、通説となっている。
彼女の裁判は、長期にわたった。判決前に生まれた子どもは、すぐに引き離され、施設に入れられた。その後の娘の人生は、記録に残っていない。
東京地方裁判所は、昭和〇〇年五月に、玲子に死刑を求刑した。責任能力の有無を争点に、減刑を求めて控訴すると思われたが、彼女はそのまま判決を受け入れた。
ただ、その刑は執行されることはなかった。豊嶋玲子は、自身の誕生日前日に、獄中で自殺した。享年二十九歳だった――』
レジュメも発表用の原稿も出来上がり、あとは印刷して最終チェックをするだけになった。家にはプリンターがないので、研究室へと向かう。
僕の発表を見た先生が、斬新な考察だと褒めてくれるかもしれない。
ふんふん、と鼻歌交じりにパソコンバッグを運んでいると、向こうから人がやってきた。前を見ていなかった女性は、僕の存在に気づかずにぶつかった。
「すいません」
鼻を啜りながら謝罪をしたのは、ミサコだった。
「どうしたの?」
ひどく泣いた彼女の目元は、パンパンに腫れて細くなっているだけではなく、取れてしまったメイクでぐちゃぐちゃのドロドロになっていた。ひじきのような繊維が、頬にこびりついている。もともとは、化粧っ気のない女だったのに。
仮にも女性が、こんな風に泣くのは、ただごとではないとわかった。彼女は僕の顔を見上げて、声を上げて泣いた。
どうやって慰めればいいのかわからずに、わたわたする。真っ黒な滝の涙の跡もそのままにしている彼女に、ひとまずハンカチを渡した。
「あり、がと」
ぐすんぐすんと鼻を鳴らし、時折堪えられないように嗚咽を漏らす。落ち着くのを待っていると、彼女は「実は……」と、話を始めた。
結局、ミサコはサトシのアプローチにあっさりと落ちていた。
サトシが「そんなカッコでオレの隣歩くとか、恥ずかしくねぇの?」と言えば、ファッションの勉強をして高い服を買ったり、慣れない化粧に手を出したりした。
当然のように、イエスと返答した次の瞬間にはキスをされたし、恋人になって一週間で身体の関係を求められた。
ミサコはサトシのことを、本当の恋を知らない可哀想な男だと思っていた。救ってあげたいと、本気で考えていた。つくづく、甘い女である。
彼氏彼女の関係は、セックスだけがすべてじゃない。一緒にご飯を食べたり、手を繋いで歩いたり、他愛のないお喋りをしたり――。
そういうことを、サトシに教えたいと思っていたミサコだが、結局、彼女は目的を果たすことはできなかった。
一度なし崩しに許してしまえば、あとはセックス、セックス、セックス三昧。
「ひ、ひにんもしてくれなくて……!」
さすがにぶち切れたようだが、それ以降、サトシはミサコに興味を失ってしまった。
「遊びだって、わ、わらって……」
ぶひぶひぐすぐすという音を立てて号泣するミサコに、僕の感情は揺さぶられる。
彼女の肩や背中をさすり、慰めた。
「大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫……」
気休めに過ぎない言葉をかけながら、ようやく条件が揃ったことに、僕の身体は喜びに震えていた。
『さて、ここまで豊嶋玲子の生い立ちや犯罪歴を追ってきたが、ここからは私なりに、謎に包まれた動機について述べたい。
彼女が殺人を犯したのは、金のためでもなければ、怨恨でもない。当然、突発的な犯行でもない。殺しやすそうな相手を無差別に、ということであれば、男は除外されるだろう。
被害者に共通するのは、以下の二点。
ひとつは、万人が認める美形であること。男性であっても、どこか女性的・中性的な色を帯びた顔立ちをしていることが絶対条件であった。
もうひとつは年齢である。被害者は全員、二十九歳。無論、警察もこの奇妙な符合には注目した。しかし、彼らはそこに意味を、玲子の思想を見出すことはなかった。
私はこのふたつの共通点から、ひとつの推測をする。
玲子の動機、それは――』
「なんだよお前。この季節にニット帽って」
発表の打ち合わせを口実に、サトシの部屋を訪れた。帽子や手袋を着用したのは、彼の部屋の前に着いたときだ。
さすがにこの夏の盛りに、ニット帽は人目を引きすぎる。最近は、ファッションで真夏にニット帽を被る人間もいるようだが、あいにく僕は、オシャレとは無縁だ。
「ほら。打ち合わせすんなら早くしろよ。ったく、お前がとろくさいから、ガッコじゃなくて家でやるはめになっちまっただろ」
サトシはしきりにスマホで時間を確認している。おそらく、この後、女との約束があるのだろう。
僕は立ったままで、「打ち合わせ前に、これでも」と、コンビニの袋からペットボトルを取り出した。
「気ぃ利くじゃん」
ヘラヘラ笑いつつ、彼は僕の手からボトルを取り上げると、疑いもせずに開栓した。注意していれば、すでに開封済みであることに気づいただろうが、残念ながら彼は、酒を飲んでいた。
一口飲んだ瞬間、サトシは苦しみ始めた。信じられない、どうして。
血走った目をこちらに向ける。
殴りかかってこようとするけれど、いつもの勢いはない。脚がもつれて倒れ込む。あまり派手な音を立てられては困るが、僕が部屋にいることを悟られるのもまずい。
実験することができなかったのは、まずかった。成人男性を即死させることはできないようで、次は量を増やそうと決める。
「まぁ、もう抵抗できないみたいだけど」
仰向けに倒れた彼は、恨みがましく僕を睨みつける。口の端から血を流し、最後にびくん、と大きく身体を跳ねさせると、それを最後に、完全に停止した。
思わず、乾いた笑いを零した。あまり大声で騒ぐと、不審がられる。口元を両手で抑え、僕は笑った。
「これでもう、醜く老いることはなくなるね。よかったね」
美しい人間は、三十を前に死ぬべきだ。
玲子の――会ったこともない祖母の信念だ。
三十を過ぎれば、人間は誰しも劣化していく。一般人は別にいい。好きなだけ皺を顔に刻み込み、茶色いシミやそばかすを点々と頬に浮かべたって構わない。
だが、美貌の持ち主にとってそれは、罪だ。彼ら、彼女らは人々の憧れでなければならない。いつまでも美しい姿で、記憶の中に留まり続けなければならない。
だから、殺した。そして、死んだ。玲子は自分自身も、美しき人間に数え上げていたから。死刑が執行されるのを待っていたら、三十歳になってしまう。そんなの、彼女には耐えられなかった。
僕の母は、玲子の美貌を引き継がなかった。五十に手が届きそうな今もなお、太ましい身体で頑健に生きている。産みの親がとんでもない殺人鬼であることは知っているが、彼女の歪んだ思想を、母は知らない。
僕は物心ついたときには、玲子と同じ思想を持つようになっていた。
テレビで見た美人女優、中性的な見た目の男性アイドル。彼らが年々劣化していく姿を、どうしても受け入れられなかった。些細な皺やたるみを憎んだ。
そんなとき、僕は母のスクラップノートから、自らの出自を知った。調べていくうちに、玲子が何に憤って人を殺し、何に絶望して自身を殺したのか、理解した。
そのうえで、僕は彼女のことを愚かだと思う。可哀想だとも思う。
劇団で端役しか掴めない女優の美貌など、たかが知れている。写真で見ても、自殺しなければならないほどの美人とは感じなかった。
それに、三十歳までに死ななければならないからといって、ギリギリの二十九歳で殺すという優しさは、無用のもの。
罪から救ってあげたいと思う相手なら、チャンスがあれば、すぐに殺してあげればよかったのに。
そうすれば彼女は、もっと多くの人を、救えた。
……まぁいい。僕が救ってあげればいいんだ。
サトシや、他の人。彼らの遺影は美しく、さぞ、参列者たちの涙を誘うにちがいない。
「おっと」
いけない。ここに来る予定の女に、遺書でもしたためなければ。それから、僕とのメッセージのやりとりも一部消去。
彼の指を使って、スマホのロックを解除する。
自殺に見せかけたが、他殺と思われても構わなかった。重要なのは、容疑者を絞り込ませないこと。
僕はこの部屋には今まで入ったことはないし、完璧に痕跡を消していく。足跡も指紋も、髪の毛の一本すら落とさないように細心の注意を払った。
女性絡みで恨みを買うことの多かったサトシだ。当然、パシリとしていいように使われた僕も、容疑者のひとりには数えられるだろう。だが、大学構内でのみの付き合いだと主張すれば、逃げ切れると踏んだ。
実際、彼と外で会ったのは、今日が最初で最後。裏を取られたところで、痛くもかゆくもない。
「それに、もっと怪しい容疑者はいるしね」
適当な文章を打ち込んで、送信。
電源を切りながら、僕の脳裏には、あの日ぐちゃぐちゃに泣いていたミサコの顔が、浮かんでいた。
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