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<16話
イレギュラーとはいえ、実際の舞台に立つことになると、仁は今まで以上に厳しかった。少しでも気を抜くと、「ストップ!」と声をかけられ、懇々と演技の意図を尋ねられる。
薫の中で明確な理由があれば、仁は何も言わない。だが、少しでも輪郭がぼやけると、容赦なく詰められる。
時間がないために、多目的ルームを予約できなかった日であっても、大学に呼ばれ、台本とにらめっこしながら、議論を交わした。
定期テストの勉強と並行しなければならないのが、辛かった。周囲の学生たちは、仁を始めとして、まったく頼りにならなかった。
熱心な演技指導を続ける仁だったが、白紙のラストシーンに関しては、何も言わなかった。
「ここまでの間にお前が創り上げた役の人生だ。『彼』に伝えたいと思ったことがあるだろう? それを、叫べ」
演技指導はそれだけで、あとは本番の舞台で聞こう、と仁は言い、一度も触れることがなかった。
毎日舞台のことを考えているうちに、いつの間にか長梅雨は明けて、本格的な夏になっていた。夏休みに入ってからは、朝から晩まで、仁の元で演技指導を受けた。
役者になりたい、舞台に立ちたい。その夢の第一歩を、ようやく踏み出すことができる。中途半端なことは、したくない。
八月に入ってから、薫は仁から、刷り上がったチケットを受け取った。色画用紙でできた、手作り感溢れるチケットだ。
「見せたい奴に、渡してこい」
そう言われて、薫はカレンダーを確認した。
今日は、金曜日だ。
重い扉を、薫はゆっくりと開けた。
「いらっしゃいませ」
すぐに聞こえてくるのは、マスターの美声だ。低くて耳ざわりがよい。薫の姿を認めると、覚えていたらしく、「おや」と眉を動かした。
薫は一礼して、前回と同じ席に座った。マスターはグラスの準備をしながら、
「もういらっしゃらないかと思いました」
と言った。近くで薫が遼佑に振られるのを聞いていたわけだから、それも当然だろう。薫は首を振った。
「今日はすぐに帰りますんで……」
高い声で話す薫を、マスターは女だと思っている。手早く前回と同じカクテルを作り、薫の前に置く。
「もうそろそろ、佐伯くんも来るでしょう。こちら、お飲みになってお待ちください」
「あ、あの、でも……私、実は」
未成年であることを白状しようとした薫に、マスターは不器用なウィンクを決めてみせた。
「ノンアルコール・カクテルですよ。前回も、今日も」
思わずマスターの、皺が薄く刻まれた男前な顔を見つめてしまった。ふふ、と彼は楽しそうに微笑んだ。
緊張のあまり、薫はグラスに口をつけることも忘れて、膝に手を置いたままで待っていた。握った拳は汗で濡れている。
十分くらいして、遼佑が姿を現した。マスターに会釈をし、顔を上げた彼は、すぐに薫の姿に気がつくと、あからさまに嫌そうな顔をした。
薫は慌てて咳払いして、男の声に戻した。
「今日は、渡すもの渡したら、すぐ帰るから!」
地声に、マスターがぎょっとするのが視界の端に映るが、なりふりかまってなど、いられなかった。
薫は財布から手作りのチケットを取り出して、遼佑に手渡した。
「これは……?」
「俺の初めての舞台の、チケット」
「舞台……『新月荒野』……?」
首を傾げてチケットを見ている遼佑に、そういえば薫は、将来の夢が役者だと明かしていなかったな、と思い出す。
「夢の第一歩なんだ。それを、遼佑に見てほしい。本気の俺の姿を」
嘘くさい、などと遼佑に言わせては、役者失格だ。誰よりも舞台上で、一人の人間らしく、生きてみせる。その姿を、遼佑に見てもらいたい。
「……最後のわがままだから。お願い。来て」
自然と笑みは、力ないものになる。
遼佑は頷かなかったが、チケットを突き返してくることもなかった。とりあえずはそれだけで十分だった。
>18話
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