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<20話
遼佑は薫を、自宅へと連れていった。学生向けのアパートだ。部屋の中は雑然としていた。
薫は促されるままに、ベッドの上に座った。床に落ちている洋服は、大学生には似つかわしくない値段のブランド物だった。
「……」
明らかにこれは、騙した女からの貢ぎ物だ。ぞんざいに扱われている。彼にとっては入手した時点ですでに目的を達成していて、大切にされることはない。
打ち捨てられた洋服が、遼佑自身と重なった。台本とほぼ同じ人生を歩んできたのだとしたら、彼は誰にも認めらないまま、生きてきたことになる。薫はそれが、ひたすらに悲しかった。
遼佑は、薫の隣に腰を下ろした。黙ったまま彼は、薫からの言葉を待っている。
「……これ、見てくれる?」
薫は鞄の中から、紙の束を取り出した。赤ペンや蛍光ペンで汚れ、ぐしゃぐしゃになったそれは、舞台の台本だ。
「全部きちんと読まなくていいから。ざっと目を通すだけで……」
遼佑は台本を読み飛ばしていく。そして最後まで読み終えて、「途中で終わってるぞ」と、眉を動かした。
薫は首を横に振る。
「それで全部だよ。ラストシーンは、仁さんが書かなかった」
真剣に役者として、役柄に向き合い始めた薫を見て、仁は恋に悩める後輩のために、一肌脱いでくれた。
「台詞も、演技プランも何もない、俺の本心」
まさかあんなに泣くとは思わなかったけどさ、と照れ隠しに薫は笑った。ちらりと横目で遼佑を窺うと、彼は目を丸くして固まっていた。
「……伝わった?」
恐る恐る遼佑の手に触れた。彼は逃げなかった。微かに頷いて、遼佑は、
「そうじゃなきゃ、泣かないだろ」
と、唇を尖らせた。まだ目が痒いのか、薫の掌が乗っていない方の指で、擦った。自分の演技に心動かされた証拠が、薫の胸を熱くする。
薫は舞台で、すべてを曝け出した。そして遼佑の半生も、舞台の通りだ。だが、彼にはまだ、語っていないことがある。おずおずと遼佑は、口を開いた。
「……俺、ずっと仁に相談してたんだ」
遼佑が自分の顔の良さを鼻にかけ、天狗になっているところも、女に振られて価値観ががらりと変わってしまったのも、仁は全部間近で見ている。遼佑がクズであることも知っていた。
「一人の女に、本気になりそうだ、って」
「それって……」
言わせんのかよ、と遼佑は一瞬黙ったが、結局、口にした。
「……椿山静っていう女のことが、頭から離れなかった」
最初のうちは、今まで落としてきた女たちと同じだと思っていた。おとなしくて、世間知らずで御しやすい女だ。静がそう見えるように振舞っていたせいだ。
「ぬいぐるみ、取った日」
遼佑の言葉に、薫ははっとする。覚えてるか? と問われて、何度も首を縦に振った。覚えているもなにも、あの時、自分たちの関係が変わったのだ。薫の想いの始まりは、あの春の日だった。
「なんか、変な女だなって、今までの奴と違うな、って、あの日思ったんだ」
遼佑にとって、女たちとのデートは仕事、義務でしかなかった。最初のうちは、彼女たちの好みに合わせようと、「どこに行きたい?」「何が食べたい?」と尋ねていた。
しかし、親の言いつけを守るのが当然だと思っている女たちには、意志というものがなかった。
ただ微笑んで、「あなたの行きたいところへ」「あなたの食べたいもので構いません」と言うだけなのだ。
女たちは言いなりだった。そんな人形たちを相手にしているうちに、遼佑の感覚も麻痺していった。思いやりの心など必要ない。自分本位な言動を繰り返した。
「女なんて、みんな俺の顔や身体目当てなんだって、思ってた。でも静は……薫は、二人で思い出を作ろうって、一緒にあれこれ考えてくれた。それが楽しくて、嬉しくて……」
遼佑は、ぽつりぽつりと思い出話をした。薫はそのすべてを鮮明に覚えていて、ひとつずつ頷きながら、聞いていた。
「遊園地でジェットコースターに乗っただろ?」
「ああ、あったあった。遼佑、すっげえ顔してた」
薫はそのときのことを思い出して、笑った。絶叫マシーンに、遼佑は滅法弱かった。しかもそれを自分では知らなかったので、並んでいる間は、格好つけていた。
しかし、乗り終わった後は真っ青な顔で涙目になり、足をガクガクさせた状態で、全然平気な薫とは、対照的だった。
「ああいう格好悪いところを見せても、薫は俺に幻滅しなかった。笑っても、それと同じくらい心配してくれた」
だから。
一度遼佑は言葉を切って、薫を真っ直ぐに見据えた。
「どんなにみっともなくても、誰かが傍にいてくれるだけの価値が、俺にもあるんじゃないか、って。そう思うことができたんだ」
遼佑の告白に、薫は息を飲んだ。彼のコンプレックスを、自分が少しでも軽くすることができたのだと思うと、じんわりと胸が温かくなって、涙が出そうになった。
「まぁ、だからこそ騙されたときはショックだったし、そのうえ『顔がタイプだから』とか言って迫ってくるのは腹が立ったんだけどな」
「ごめんなさい……」
「裸の写真撮られたら普通、脅迫されるって思うだろ。バイト先にまで来るし」
「重ね重ね、申し訳ない……」
もう土下座するしかないのではないか。自分の悪行を突きつけられて、薫は何度も頭を下げるほかなかった。
へこんでいる薫を見て、遼佑は小さく声を立てて笑うと、不意に黙った。静かになった遼佑を不思議に思って、薫が顔を上げると、彼は今まで見たどんな顔よりも、穏やかで、きれいな表情をして、こちらを見ていた。
「なぁ」
遼佑の目の下が、赤い。
「もっかい、言ってくれよ。舞台で、みんなの前でじゃなくて、俺だけのために」
遼佑の願いに、大きく頷いた。彼が望むのなら、何度だって口にしよう。一言一句同じセリフでなくていい。今、遼佑に伝えたい想いは、たった一つ。
「好きだよ。遼佑のことが」
ごちゃごちゃと言葉を飾ってみても、結局言いたいことを凝縮すると、「好き」の二文字になる。嘘偽りない言葉に、遼佑は笑った。楽しそうに、嬉しそうに。
「俺も」
そう言って素直な笑みを載せた、形のよい唇を見つめて、薫は思わず、「キスしたい」と、呟いていた。
「は?」
無意識に欲望を口にしていたことに気がついて、薫ははっとして、手をぶんぶんと振った。
「や、その……」
「……したい、のか……キス」
大きな身体の男がもじもじと恥じらっている。その姿は薫のセンサーに引っかかる。もしかしたらこれは、ひょっとすると。
見習いとはいえ、役者として勉強をしている身だ。人間観察はそれとなく、自然と行っている。恋愛の駆け引きにおいても、薫は相手の反応を見ている。
いけそうな気がする。こういうときの自分の勘を信用している薫は、遼佑を熱心に口説く。
「キス、もしたい。し、その先も、したい」
その先、の具体的な行為を想像したのか、遼佑はぴょん、と十センチほど横に跳ねて、薫から逃げた。びくびくしながらも、薫から視線を外せない様は、まるで叱られた犬が主人の機嫌を窺っているかのようだ。
「……だめ?」
薫は小首を傾げて、遼佑を見つめた。年下の可愛らしいあざとさを、ここで発揮しないでどうする。
「い、今……?」
貢ぎ物の価値が自分の価値だと思っている彼を、愛されるべき存在だと肯定した薫の言葉を、遼佑は強く拒絶することができない。
もうひと押しすれば、と薫は瞬時に計算した。避けられた距離を、一気に詰め、彼の手を取った。
「今! 今、したい!」
よく考えなくても、ここは好きな人の部屋、そしてベッドの上だ。
「でも、コンドームもないし!」
「あるよ」
薫はあっさりと、財布の中から避妊具の小袋を取り出した。男としてのマナーでしょ、という顔の薫に対して、「これだから都会の高校生は……」と、遼佑は頭を抱える。
逃げ道はすべて塞いだ。薫は笑って、遼佑の顔を下から覗き込み、遼佑の口を塞ぐ。ぽってりとした唇を、はむはむと甘く噛んでから、離す。遼佑は顔を真っ赤にした。
「ねぇ、俺に愛させてよ。愛を知らない、恋愛詐欺師さん?」
>22話
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