<1話
飛び級で医科大学を卒業し、臨床医ではなく基礎医学を志して大学院で学んでいた笹川がコーディネーターになったことに深い意味は存在しない。基礎医学を学んだのは、目の前の人間に対してひとつひとつ対応していく臨床医より、病理の研究を通して新薬開発や未知の疾病の究明など、顔も見たことのない世界中のあらゆる人々を救いたかったからだ。その範囲をノーマルな人類だけではなく、亜人類にまで広げただけのことで、笹川は何の後悔もしていない。
――あの頃は、そう。彼女のように純粋に、ヒューマン・アニマルを救っているのだと思っていた。
その方が幸福だったかもしれないな、と笹川は煙草を一本取り出して火をつけた。
愛情溢れるアニマル・ウォーカーと相性を見て疑似家族を体験させ、一年後にはしかるべき保護機関へと送る。彼らの関係はそれっきりだ。アニマル・ウォーカーはまた新しいヒューマン・アニマルを迎え入れ、それを繰り返すだけ。
ヒューマン・アニマルたちは保護機関で学び、労働をする。地域のバザーなどでは彼らが作った工芸品などを買うことができ、アニマル・ウォーカーにはなれずとも彼らを応援したいと思う善意の人々はそれを購入することで寄付ができる。
けれど、それで? 学をつけさせ、働かせることで助けることができたと思っているのは、人間の思い上がりなのではないか。エゴに過ぎないのではないか。
セックス・ワーカーであったヒューマン・アニマルは被差別階級だ。根強く残る差別は、彼らを家族に迎える家庭にも及ぶ。一年経過後、ヒューマン・アニマルたちはボランティア家庭の人々と会うことを拒む。愛を知った彼らは、自分がいると愛する家族に迷惑がかかることいつしか知ってしまうからだ。
愛を教えることは果たして、彼らのためになるのだろうか。
笹川は自問するが、答えなど出ずに宙に浮いたままになる。
人間はどこまでいってもエゴイスティックで、自分より弱いものに対する反応としては二つしかとることができない。支配しようとするか、憐れもうとするかの二択だ。いいや、実質一択なのかもしれない。
「ただいま」
笹川が鍵を開けながら言うと、誰も反応しなかった。一人暮らしだから当然といえば当然なのだが、笹川の家には【ペット】がいる。いつもならば笹川が帰ってきた気配を感じ取って玄関でお行儀よく待っていて扉が開くと同時にじゃれついてくるのに、今日は妙に静かだった。
「……ポチ?」
名前を呼んでも返事がない。だいたいこういうときにはろくでもない結果が待ち受けているのだと笹川は経験則で知っている。
リビングに入って電気をつけると、案の定悲惨なことになっていた。もう大人であるにも関わらず、ポチは時折どうしようもない悪戯をする。今日の犠牲者は、ローテーブルの上に載せてあった、ボックスティッシュであった。中身がすべて引き出され、ボロボロに引きちぎられている。ストックがなかったらどうするつもりだ、とティッシュの山に埋もれて幸せそうにすやすやと眠っているポチに、できる限りの怖い声で「ポチ」と声をかけた。
何度か呼んでやると、うーん、と眉根を寄せて、それからぼんやりとポチは目を開ける。焦点が合った瞳が笹川を捉えると、ぱっと顔を輝かせた。
……この後の運命など、何も知らずに。
「おかえりなさいっ」
尻尾が揺れてわふわふと笹川の胸に飛び込んでくる。ポチの方が笹川よりも体格がいいのに、いつまで経っても仔犬のような振る舞いが抜けない。踏ん張って倒れこまないようにして、笹川はポチの頭を撫でた。おかえりなさいのキスは、ベロベロに頬を濡らされることだ。
「ああ、ただいま。それよりポチ」
この状態は、なんだ?
意識的に冷たい声を出すと、ポチは次第に表情を曇らせる。
「あ……」
「また、いたずらしたな?」
ごめんなさい、と耳と尻尾を縮こまらせているポチは、大の男が犬のコスプレをしているだけのように見えるが、本物の耳と尻尾なのだ。
「……片づけたら、あとでお仕置きだ」
「きゅうん……」
悲しげに鳴くポチだが、その目は爛々と光っていることに、笹川は気が付いていた。
>3話
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