涙屋の未亡人

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宝石 ファンタジー

 細い装飾文字で書かれた看板を前に、カールはお仕着せの鎧の泥を拭った。兜を脱いで、髪の毛を手ぐしで整える。蒸れてぺたりと寝てしまった自慢の金髪は、なかなか納得できる形にはならない。

 悪戦苦闘するカールだったが、不意に店の扉が開いた瞬間、動きを止めた。ぱっと髪から手を離し、「や、やあ」と声をかけた。

 はしばみ色の目をパチパチさせた幼馴染は、子供の頃と変わらぬ笑顔を浮かべた。無邪気で清廉。彼女はカールの手をぎゅっと握る。

「まぁ、カール! 久しぶりね。元気にしていた?」

 どぎまぎしているのは自分ばかりだ。彼女の行動に、特別な意味合いはまるでない。

 マリアはそのまま手招きして、店内へと導いた。黒く染めた木綿のドレスが翻って、カールは目を細めた。

「うちの人の葬儀以来かしら?」
「ああ、うん。その節は」

 マリアの夫・ブルーノは、カールにとっても知らない仲ではない。領都の治安を守る衛兵の何たるかを教えてくれたのは、ブルーノだった。

 結婚式での彼らを見るのは、少しだけ苦いものが胸に迫ったけれど、幸せそうに微笑むマリアと、彼女を大切にすると誓うブルーノを見るのは、決して嫌ではなかった。

 もっともその付き合いは、ブルーノが酒で身持ちを崩して衛兵を辞め、妻の収入に依存するようになるまでだった。

 尊敬していた先輩が落ちていくのも、マリアが悲しんでいるのを見るのも嫌で、この店舗兼住居からは足が遠のいていた。

 結局ブルーノは、酒で身体を壊した。最期まで、酒精に溺れたまま死んでいった。それが、半年前のことだった。

 まだ新婚といってもいいほどで、喜びと希望に満ちていた。だが、一気に絶望へとまっさかさまに落ちていった。葬儀に参列したカールだったが、憔悴するマリアを見ているのは、胸が痛く、思わず目を逸らした。

 茶の用意をしている彼女は、喪服のままではあったが、元気そうに見えてカールは安心する。

 勧められるままに座ったカールは、きょろきょろと部屋の中を見渡した。棚は、ブルーノが作ったと言っていた。少し歪んだ棚板の上には、透明な瓶に入った、色とりどりの石が並んでいる。

「はい、どうぞ」
「あっ、ありがとう」

 をありがたく受け取って、カールは口を湿らせた。ハーブの香りが胸にまで広がって、疲労が抜けていく感じがする。

 マリアは向かい側に座ると、自分のカップを両手で持って、ふぅふぅと茶を冷ます。

 もうすぐ三十に手が届く年齢にしては、幼い仕草だった。だが、もともとが童顔で、ふくふくした手の彼女には、似つかわしい。

「それで? お仕事中にわざわざ来るなんて、何かあったの?」

 衛兵の格好のままで現れたカールを見て、貴重な休憩時間にわざわざ来訪したと判断したマリアは、すぐに本題を促した。

「最近、街で起きてる事件を知ってるか?」

 王国の北端、海の向こうは何もない。そんな田舎のため、領都であってものんびりとした場所だ。

 しかし、ここ最近は事件が続いており、カールは調査で日々忙しく働いている。

「若い女性の失踪が続いているんだ」

 痛ましいという感情を、素直に顔に表したマリアだったが、まだどこか他人事だった。カールは、まだ公表されていない事実を彼女に囁いた。

「みんな、マリアと同じ涙姫なみだひめなんだよ」

 産声を上げると同時に、その目から石の涙を流す子供がまれに生まれる。決まって女子であるために、彼女らは「涙姫」と呼ばれる。石には不思議な力が多かれ少なかれ宿っており、まじないやお守りに使われる。

 涙姫は、国や創世の女神を祀る神殿に、重用されることもある。だが、多くの涙姫は市井の民だ。涙屋として、自分の涙石を売って、生活の糧としている女が多い。

 マリアは涙姫が行方不明になっていると聞いて、不安を隠さなかった。カールはずっとこの店で見張りをしてやりたいと思ったが、領主に雇われている衛兵の身では、それも叶わない。

「なるべく毎日、寄れるようにするから。君も、今日みたいにすぐに大きくドアを開けたらいけないよ。悪い奴が、外にいるかもしれないんだから」
「ええ。ええ、そうね。気をつけるわ」

 彼女は自分のカップに口をつけると、少し気持ちが落ち着いたのか、「でも」と軽く微笑んだ。

「でも、そのいなくなった涙姫って、とても若い子でしょう?」
「ん? ああ、まぁそう、かな」

 半年前から五人、失踪者が出ているが、いずれも十代の少女たちだ。

 カールの肯定に、マリアは今度こそ、声を上げて笑った。

「じゃあ、大丈夫よきっと。私、もうすぐ三十よ? こんな女を狙う男なんて、物好きにもほどがあるわ」

 そんなことはない。君はとても、魅力的さ。今も、昔も。

 気障な口説き文句は、心の中でしか言えない自分が、情けない。カールは、それでも気をつけるようにと念を押して、マリアの店を後にした。

※※※

 捜索もむなしく、行方不明者の一人が遺体で発見されたのは、五日後のことだった。

 見つかったのは、街はずれの道端だった。ゴミのように打ち捨てられていたのは、マリアの涙屋からさほど離れていない場所で、カールの不安を煽った。

「一番最近、行方不明になった子だね」

 協力を要請している医者は、髭を撫でつけながら観察をする。彼は生きている人間よりも、死んでいる人間を診断する方がいいという、変わった男だった。

 変わり果てた姿となった少女の青い目は、ガラス玉のようだ。カールは恐怖心を堪えて見つめる。涙姫の目も、普通の人間と変わらない。魔法の水晶ではないので、犯人の姿が焼きついているなどということはなかった。

 医者は死者の国の王に祈りを捧げる。犠牲者の冥福と、遺体を暴くことへの許しを請うてから、少女の身体に注意深く触れた。

「腐敗が進みつつあるな。最近寒くなっておるからの……一日や二日では、こうはならんだろう」

 ぶつぶつと呟く診断結果を筆記するのは、カールの役目だ。変わり者の医師に、弟子はいない。衛兵たちも死体の検分などという、薄気味悪い仕事はしたくない。カールとて、マリアのために早期解決を望んでいるのでなければ、後輩に押し付けていただろう。

「む」

 頭や身体についた傷を、淡々と確認していた医師の顔色が変わった。必死にペンを走らせていたカールも、どうしたことかと顔を上げ、医師の隣に立った。

 彼が見ているのは、遺体の足の間。有体に言えば、彼女の性器だった。女性経験といえば、娼館の商売女を相手にしたことしかないカールは、そのあまりのおぞましさに、「うっ」と嗚咽を漏らした。

「これはひどい」

 少女の純潔は、当たり前のように散らされていた。傷ついて血を流した、という程度の話では済まない。ずたずたに苛め抜かれ、破壊されていた。傷をひとつひとつ見分けることは困難である。医師も、彼女のその部分に触れることはなかった。

「十中八九、涙姫に歪んだ欲望を持つ男の犯行じゃろうが……」

 医師はそう言うが、納得はいっていないような表情だ。自分でもその理由はよくわかっていないのか、口を噤んだ。

 ともあれ、マリアの予想は当たっていることになる。

 カールが休憩時間を利用して、マリアの元を訪れたとき、彼女はすでに、遺体が発見されたことを知っていた。

「街じゃ噂でもちきりよ」

 彼女は組んだ腕を、しきりに擦っていた。恐怖を紛らわせているのだろう。カールは、「あぁ」と溜息にも似た相槌を返すことしかできなかった。

 疲れていた。行方不明者が一人死んだ。彼女より前に失踪した涙姫たちの生存は、絶望的だろう。

 それでも、彼女らの親は諦められない。毎日のように衛兵の詰所に怒鳴り込んでは、泣き叫ぶ。その声を耳にしながら、カールたちは捜索に赴くのだ。

 肉体的にも、精神的にも辛い日々が続いている。

 カールは出された茶を、ゆっくりと飲んだ。赤い色の強い茶は、ほんのりと甘味を感じて美味い。身体にしみじみと浸透していき、癒される。

「美味しい」

 思わずつぶやいた言葉に、マリアは微笑んで、向かい側の椅子に腰を下ろした。

「疲れてるみたいだし、うちにわざわざ来なくてもいいのよ?」

 私は大丈夫。

 強がる彼女は、落ち着きなく手を擦り合わせている。カールは、「とんでもない」と首を横に振った。

「君が被害に遭ったら、僕は悔やんでも悔やみきれないよ」

 だから、カールは寝る間も惜しんで働いている。捜査だけではなく、衛兵としての通常の警備もこなしているのだ。

「ありがとう」

 激務の疲労も、マリアからの感謝の言葉によって、すべて報われる気がする。カールは頑張るぞ、と気合いを入れ直す。

「やっぱり、変質者の犯行だったのよね?」
「あ、うん。詳しいことは言えないけれど、たぶんそうじゃないかって。今日も夕方、娼館に話を聞きに行く予定なんだ」
「娼館……」

 マリアは複雑そうに眉根を寄せた。

 涙姫の主な行く末は、三つだ。

 最も名誉ある役職は、国や神殿に仕える巫女だ。ただ、狭き門である。神殿で三年以上の教育を受けたところで、確実になれるとは限らない。身分が高いものが優先される傾向にある。

 マリアは最初から、巫女になることは諦めていた。庶民から召し上げられる例もなくはなかったが、勉強があまり好きではなく、外で遊びまわっていた。

 その割に将来設計はしっかりしており、「大人になったら、涙屋の女将さんになるの!」と、子供の頃からこつこつ貯金していた。小さいながらも、自分の涙石を販売する店を経営している彼女は、勝ち組と言える。

 三つ目の選択肢は、娼婦になることだった。キラキラした石を目から零す女は、ある種の男たちの欲を煽った。乱暴に抱いて、涙を流す様に興奮する男たちが相手の仕事だ。一流の高級娼婦とはいかない。

 カールが初体験を済ませた娼婦も、涙姫だった。マリアのことを想い、初めてではあるが、優しく抱いた。

 女は行為の後、「お姫様みたいに抱かれたのは初めてだよ」と泣き笑いした。一粒零れ落ちた半透明の石を、彼女はカールに渡そうとした。それが決まりごとらしい。カールは辞退し、その石を打って、小遣いにすべきだと言った。マリアの代わりに抱いた不誠実さの、詫びのつもりだった。

「娼婦を手ひどく扱う男の情報を集めるつもりなんだ。きっと他でもやらかしているだろうから」

 自分はそんな性癖の男ではないが、涙姫の娼婦を買ったのは事実だ。カールはごまかすように、早口に言った。

 マリアはカールの言葉を飲み込むと、席を一度立った。商品棚を吟味して、ひとつの石をカールの掌に載せる。

「これは?」
「癒しの加護の力がある涙石よ。疲れたときに、握ってみて。こんなふうに」

 マリアはカールの手をぎゅ、と握り込んだ。

「ね? 不思議な力を感じない?」
「あ、ああ……」

 石の力よりも、マリアの手の感触に、カールは癒しを得る。未亡人の彼女の掌は、世間知らずの令嬢とは違い、肉刺や手荒れができている。けれど、まぎれもなく女性の手、特有の柔らかさがあって、カールの胸を高鳴らせる。

 カールは手の上の石を見つめた。緑色で、歪んだ角柱状の石は、野いちごほどの大きさだ。

「これは、君の涙石?」

 カールが尋ねたのに、特別な理由はなかった。マリアが生み出した石であれば、ポケットに入れっぱなしにしておくわけにもいかない。小さな革袋を用意して、首から下げておくのがいい。その程度の気持ちで、口にした疑問だった。

 マリアはカールの問いかけに、パチパチとはしばみ色の目を瞬きさせる。おおきな眼はそれこそ、枝になる実のようだ。

「なんで、そんなこと聞くの?」
「なんで、って……そりゃ、マリアの石だったら、大切にしたいなって、そう思っただけだよ」

 自分としては最大限の甘いセリフに、カールは頬が熱くなるのを感じた。マリアはにっこりと目を細めて、微笑んだ。

「もちろん、私のよ。だから大切にして」

 笑顔のマリアに見送られ、カールは意気揚々と店を出て、娼館の立ち並ぶ花街へと繰り出した。

絵※※

 聞き取り調査の結果、容疑者が何人か浮かび上がった。いずれも、涙姫の娼婦に執着をし、娼館や家で問題を起こしている連中だ。

 カールは、とある男を尾行していた。怪しいと名が挙がった中でも、最有力の犯人候補だ。

 グスタフという名の赤ら顔の男は、まだ昼間だというのに、酔っぱらっていた。道の中央をガニ股で闊歩して、通りかかった女に卑猥な言葉を投げ、子供を意味もなく威嚇する。

 目立たないように、鎧兜なしのカールは、街の住人と同化した状態で尾行する。グスタフのあまりの下品さに辟易して、怒りにカッと頭が燃える。

 だが、直接注意することはできない。容疑者との不用意な接触は避けたいというのが建前だ。本音は、標的が自分になるのが嫌なだけだ。カールが勇気を出して行動できるのは、鎧と兜に守られているからだった。

 グスタフは中央通りから一本外れた道に面した家に入っていく。自宅ではない。彼の家はすでに調べがついていて、住所はカールも把握している。いい年をして、年老いた両親に迷惑をかけているような男だ。

 ……本当に、この男が犯人だったらいいのに。

 カールはハッとして、首を横に振り、自分の考えを打ち消した。馬鹿なことを考えるな。まだ彼は、容疑者の一人に過ぎない。決定的な証拠を得なければならない。

 しばらく建物の傍で見守っていたが、グスタフが出てくる様子はない。大あくびをしながら闊歩していたから、今頃ベッドの上でいびきをかいているかもしれない。

 怪しくない程度に辺りを窺って、カールはグスタフが入っていった家の前に立つ。小さくて目立たないが、看板があったので、そこが店だと知った。カールは文字を読んで、ひゅ、と喉を鳴らした。

 涙屋だ。涙姫がいるはずのこの店に、グスタフが入って行ったこと。それには意味があるに違いない。

 深呼吸してから、カールはそっと、扉を押し開けた。

「あら、いらっしゃい」

 出迎えたのは、本当は娼婦なのではないかというくらい、妖艶な女だった。しなをつくって近づいてくる女に、カールはたじろぐ。

「お客さん。うちの石はよく効くわよ~。どんな高嶺の花だって、イチコロなんだからぁ」

 涙屋の女将は両腕を広げる。棚にあるのは、濃淡の差こそあれ、すべて桃色の石だった。様々な色彩に溢れたマリアの店とは違った。

「えっと、その……はは」

 じゃなくて、とカールは自分を叱咤する。涙姫を、マリアを守るために、この事件を解決するのだ。

 きりりと表情を引き締めて、カールは自分が衛兵であることを明かし、グスタフについて尋ねる。

 女将は客ではなかったことにがっかりしたことを隠さず、椅子に座った。向かいの席を指でさし、カールにも着席を促す。

「それで? 何を聞きたいっての?」

 カールは先日の事件で見つかった涙姫の遺体が、ひどく乱暴されていた事実を告げ、犯人は涙姫に執着している男だと推測される、と話した。

「それであいつが容疑者ってか。あーあ、やだやだ」

 はすっぱな口調は、世慣れした商売女と変わらない。マリアの純粋さとは真逆の女将に、カールは押され気味だ。

 グスタフは女将の愛人だと言う。仕事もせずに、女将の店に来ては小遣いをせびり、ぐうたら過ごす。本当に人間のクズのような男だと思う。

 女将はグスタフの悪口を言いながらも、彼のことを庇った。曰く、ちょっと乱暴なところはあるかもしれないが、人殺しなんてできる男じゃない。

「だいたい娼館で問題を起こしたのって、半年以上前だ。そのことで出入り禁止をくらってから、あいつはおとなしくしてたよ。あたしが保証してやる」

 捲し立てる彼女に、何を言っても無駄だと思ったカールは、一度諦めることにした。この店を見張っていれば、グスタフも尻尾を出すだろう。

 カールは質問の矛先を、グスタフから店のことに変えた。入店したときから、気になっていたのだ。

「あの、この店に置いてある石って、桃色の石ばかりなんですね」
「はぁ?」

 女将は片眉を跳ね上げて、カールを嘲って鼻で笑う。

「そんなの当たり前じゃないか」

 言われても、カールには意味がわからない。石の色によって、何に利益があるのか変わってくる。例えば、女性に愛の告白をするときに渡すアクセサリーには、桃色の石をあしらうというように。

 だから、いろんな石を集めた方が、客層が広がって儲けが出るのではないかと思ったのだ。

 カールの疑問に、女将は「確かにそうかもしれないけどねえ」と同意を示したうえで、

「でもねぇ……」

 と、難色を示す。

 彼女の語る説明に、カールの中に疑惑が生まれた。

「ちょっと。あんた、大丈夫かい?」

 心配そうな女将の声を背に聞いて、カールはふらふらと店を出ていく。

 確かめなければならない。ならないけれど……。

 確かめたところで、どうすべきなのかわからなかった。

 死体を確認した医師の元で、彼の抱いた疑問について聞いているとき、事件の報せが届いた。

「涙姫が襲われた!」

 仲間たちとともに現場に急行したカールは、店先で絶望に立ち止まった。

「どうして君が……」

 カールの声は、同僚の耳には届かず、「おら、行くぞ」と背中を押され、マリアの店に入る。

「マリア!」

 駆け寄るが、彼女の身体に触れることは、怖くてできなかった。仲間が抱え起こしたマリアは、額から血を流していた。

「ま、マリア……」

 カールが被害者と知り合いだと気づいた上司は、カールを安心させるように、肩を叩いた。

「大丈夫だ。息はある。気を失っているだけだ」

 カールは現場から離れ、彼女を病院へ運ぶ役割を担った。向かうのは、先程までいた医師の経営する診療所だ。

 彼女の眠るベッドの横に椅子を置き、座る。手持ち無沙汰になって立ち上がり、うろうろする。そしてまた座るを繰り返す。

 もしも自分が彼女と恋人の関係であったならば、その手を握り、目覚めを祈っただろうに。

 カールが立ち上がり、ふと窓の外に一瞬視線を逸らしたときだった。

「う……うぅ、ん」

 小さなうめき声に、はっと振り向いた。

「マリア! 大丈夫かい?」
「え、えぇ……私は……」

 頭を怪我したせいで、記憶が混乱しているようだ。カールは刺激しないように、「君は狙われて、頭を殴られたんだ」と説明した。

「ああ、そう、そうだわ……」
「気づいたことはないかい? 犯人の顔を見たりとか……」

 マリアは首を横に振った。

「いいえ。後ろからいきなり、殴られたから」

 ああ、とカールは溜息をつく。

 マリアはひし、とカールに抱きついた。

「怖い。怖いわ、カール……また狙われたら、どうしたらいいの」

 自然とカールは、彼女の背に腕を回して抱き返していた。消毒液とマリアのつけている香水が混じった匂いが、つんと鼻をつく。

 泣き声をあげる彼女に、カールは心が急速に冷えていく。

「やっぱり、君だったんだ」

 どうしようと悩んでいたが、実際にこの事実を突きつけられた今、カールがすることは、告発だけだった。

 マリアの身体を引きはがす。彼女の瞳からは、一切涙が流れておらず、石は産み出されていない。

 子供の頃は、転んで傷を作るたびに、「痛い、痛い」と涙石をぽろぽろと零していたのだ。瞳と同じ、はしばみ色の小さな石を。

「犯人は、君だったんだね、マリア」

 犯人だと告発された彼女は、目を丸くした。本当に驚愕している様子だが、すぐに気を取り直して、深く呼吸した。

「そんな……だって、犯人は異常者でしょう? 涙姫を傷つけて喜ぶような、男」
「それは君が、そう思い込ませただけだ」

 思えばマリアに事件の話をしたときに、初めて具体的な犯人像が浮かんだ。裏付けるように、ひどく虐待された死体が転がり出てきた。カールを始め、衛兵たちは、犯人は男で異常性癖の持ち主だという先入観を持って、捜査を進めた。

 カールはマリアの頭に巻かれた包帯に触れた。無言の行動だったせいか、マリアはびくりと身体を揺らした。包帯には、まだ新しい血が滲んでいる。

「この傷。額を割られているのに、君はなんて言った?」
「……」

 ようやく自分の失言に気がついたマリアは、無言でカールを見つめる。感情の籠らない目は、それ自体が石のように見える。

「後ろから殴るときに、わざわざ前を殴りつける人間は、いないだろう」
「……そんなの、わからないじゃない」

 カールの心は悲しみに沈み、それでも口は止まらない。

「他の涙屋も回った。基本的に自分の涙石を売ることが原則。小遣い稼ぎに自分の石を売りつけにくる子供の涙姫も、同じ色の石を扱う店にしか、行かないんだってね」

 あの店の女将は、カールに説明をした。

『法律で決まっているわけじゃない。でもあたしたちは、自分の持つ石に誇りを持っている。他の色の石なんて、普通扱わないね』

 と。

「あの店には、いろんな色の石があるね。どこで手に入れたの?」

 カールはぶらさげていた革の小袋の中から、緑色の石を取り出した。指で摘まみ、目の前にかざす。光を浴びた石越しに、マリアを見つめた。

「行方不明になった涙姫の中には、これと同じ色の石を生む子もいた」

 被害者の涙石は、親が保管している。鉱石の専門家ならば、店にある石を検分して、同一の物と証明ができるはずだ。

「見つかったご遺体だけどね、あれが本当に男に乱暴された傷だったなら、おかしいことがあるそうだよ」
「それって、なに?」

 マリアは何もかも諦めた表情だった。

「体液。男の体液と思われるものが、一切付着していなかった」

 異常者が、標的となった女の身体についた自分の痕跡を消す、などというところまで気が回るはずもない。

 性的な乱暴の痕は、偽装だ。

「……そう。もっと考えればよかったわね」

 自らの犯行を肯定した彼女に、カールの心が痛む。告発し、非難したのは自分だが、どうか否定してほしかった。

「どうして……」
「それは、尋問官にお話するわ」

 マリアは両手首をカールの前に差し出して、うっとりするほどきれいに微笑んだ。

※※※

 マリア・ハールマン。

 涙姫である彼女は、夫・ブルーノから虐待を受けていた。ハールマン家の家計はマリアの涙屋の稼ぎに依存していた。石の生産量を増やそうと画策するが、他の涙姫を雇う金を夫は渋った。彼は、マリアを虐め抜いて泣かせることで、涙石を入手することを思いついた。

 ブルーノが酒に倒れ、死んだとき、マリアは涙を一滴も流せなかった。それ以来、彼女は一切泣くことができない。

 夫からの長期に渡る暴力で、彼女の心はぼろぼろに傷ついていた。自らの価値は、涙石にしかない。そう思い込まされた。なのに、泣くことができない。

 恐怖を抱いた彼女は、歪んだ。自分が生み出せなくても、石を手にすれば、心が癒されるのを感じた。

 だが、石を買う金は、ブルーノの酒代に消えていた。

 彼女の取れる手段は、ただひとつ。

 少女たちを、マリアは言葉巧みに誘いだし、監禁した。帰して帰してと喚き、鞭打たれては痛みに悲鳴を上げる。涙石を搾り取れるだけ搾り取った。

 マリア・ハールマンの供述によって、犯行現場はすぐに判明した。街の裏山の中腹に、小屋があることを誰も知らなかった。ブルーノが勝手に建て、そこでマリアを虐待したのだ。

 調査に向かった衛兵は、その凄惨な現場に嘔吐する者が絶えなかった。自分の辛い記憶を上書きするかのように、彼女は少女たちを惨殺した。

 死体を隠そうという意識は希薄で、土がおざなりにかかっているだけだった。腐敗した少女たちの死体が、無造作に積みあがっていた。

 領主の裁きはすぐに下った。斬首だ。街の中央広場で、マリアは処刑されるに至った。

 死刑は娯楽だった。集まった人々は後ろ手に縛られたマリアを見て、おぞましい事件の犯人像と一致せず、ざわついていた。

 マリアは民の喧噪を処刑台から見下ろして、微笑んでいた。

 なんていう女だ。笑っていやがる。

 普通、どんな悪人の男でも、死刑となれば恐怖に泣きわめくのに。

 マリアは顔色ひとつ変えずに、跪いて司祭の祈りを黙って聞いていた。それが終わると、彼女は顔を上げた。

 目隠しを拒否したマリアの首に、一気に処刑人の斧が降り下ろされる。途中で止まることなく、胴体と首がすぱりと切れたのは、処刑人の気遣いだったのかもしれない。

 首が落ちると同時に、彼女の目から落ちたのは、一粒の石だ。

 毒々しい、赤の石だった。

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