<<はじめから読む!
<(20)
紫嵐による強姦は、完遂されなかったとはいえ、琥珀は心と身体に傷を負った。
翌朝になって目を覚ました琥珀の手を、紫嵐はずっと握っていた。頭が覚醒し、彼の体温だと判じた瞬間に、琥珀は振り払っていた。
「琥珀?」
どうしてそんな反応をするのかわからない、という顔の紫嵐に、おそらく自分も同じ顔をしていただろう。完全に、無意識での行動であった。心を許していても、同意なき性交は暴力以外のなにものでもない。単なる殴る蹴るの暴力以上に、相手の尊厳を奪う行為だ。
琥珀は全身で、紫嵐を拒絶していた。嫌いじゃない。好きだ。愛している。なのに身体は勝手に震えるし、胸の辺りが苦しくなる。
「悪いけど、今は紫嵐の顔、まともに見らんない」
毛布を頭から被って、彼の目から逃れる。しばらくの間、どうすべきか悩み、かといってこちらに声をかけるのもためらっている気配がしていたが、やがて諦めて、部屋の外へと出て行った。
もぞもぞと毛布の中で動き、脚を抱えて丸くなる。小さくなると、なんだか安心した。おそらく耳も尾も、情けなくへたっているに違いない。それほど琥珀は弱っていた。いつも朝から元気いっぱいに鳴く腹の虫も、今日ばかりはおとなしい。
彼が本当に黄王になるというのなら、最後の思い出に、と縋って抱かれることは考えていた。けれど自分が思い描いていたのは、もっとふわふわとした、幻想のような行為であった。実際には痛みも伴う。お互いの協力があって初めて成し遂げられるのだと思い知った。
自分に触れようとした紫嵐の手を思い出すだけで、身体が震える。こんな状態では、彼の隣に立つことなど不可能だ。
結局、琥珀はその後三日間、部屋からほとんど出なかった。食事に行くのも風呂に入るのも、紫嵐の隙を伺って行った。視界に入りたくないし、入れたくもない。いや、こちらから遠目で見る分には構わないのだが、寝台の上でのしかかってきたときの目の光の鈍さを思い出すと、直視されるのは避けたかった。
黒麗にも負担をかけている。何かあったのかと聞かれたが、琥珀が話したくないと心を閉ざしていることに勘づいて、しつこくは尋ねてこなかった。紫嵐が自分の悪行を話すとも思えないので、おそらく彼は戸惑っているに違いない。
奇劉から手紙が届いたのは、どうにかして紫嵐の隣に戻りたいと悩んでいる折であった。いつも通り不愛想で、こちらへの好意などみじんも感じられない伝令によって届けられたのは、謝罪と見舞いの手紙であった。
最近外に出てこない自分を気遣い、「もしもあの日の私の行動で紫嵐と仲たがいをしているのなら、申し訳ない」といった文言が書き連ねられている。
『あの焼き菓子は、こちらで処分した。結局ひとくちも食べられなかったから、同じものを用意させている。私が絡むとまた揉めるだろうから、君自身で取りにいってほしい』
手紙には、赤い木札が添えられている。これを指定の店に持っていけば、奇劉が手配したものを受け取れるという寸法だ。
琥珀は口頭で、殿下に礼を伝えてほしいと告げた。返礼の手紙を書かないのは無礼にあたるが、これ以上の彼との交信は、紫嵐に本当に見限られてしまいかねない。
不機嫌な顔をした伝令を見送り、琥珀は早速、身支度を整える。
あの日の菓子は素朴そのもので、懐かしさを親しみを覚えた。都にいた頃は、もっと見た目のいいおやつが出た記憶があるが、白蓮の名を剥奪されて以降は、女中たちが作る庶民のおやつが主流であった。
自分と同じく、この菓子を好んでいた子どもの頃の紫嵐――ランを思うと、心が苦しい。きっと兄たちは、こんな菓子を知らない。差別されて生きてきたのだ。
自分の脚で買いに行くのだから、紫嵐も奇劉の介入があったとは思うまい。添付されていた地図は幸い、都の中でも王宮に近い。迷わずに行けるだろう。
そうして辿り着いた店で赤札を渡すと、無言で焼き菓子の包みを渡された。代金もすでに奇劉が支払い済みのようで、琥珀は黙って頭を下げた。客商売をしているにしては、愛想がなくてこちらを睨んできたけれど、評判の悪い第五王子の友人だから、仕方がない。
「これを一緒に食べたら、本当に仲直りできるかな……」
紫嵐と家族の間を取り持つよりもまず、自分たちのぎくしゃくとした関係をどうにかするのが先だと、琥珀は自分の頬を抓り、腑抜けた顔に気合いを入れなおした。
紫嵐が帰ってきたのを見計らって、琥珀は彼の部屋を訪れた。
扉を叩き、応答までの間は一瞬なのに、長い。入室の許可を得て、琥珀はそっと開ける。
「琥珀……」
人は、咄嗟に表情を取り繕うことができない。久しぶりにまともに見た彼の目には、驚きと安堵の色が浮かんでいる。まさか琥珀自ら、自分のところに来るとは思っていなかったのだろう。彼は何度も琥珀の部屋に足を運んだが、すべて無視をしていた。
「紫嵐」
名前を呼び合い、黙りこくってしまう。何を話せばいいのか、わからなかった。琥珀は入口付近に立ったままだったし、紫嵐もまた、座るように促すことさえ忘れていた。しばらくそのまま、視線を合わせるのも気恥ずかしかったけれど、行動に移したのは琥珀の方だ。
「その……これ、一緒に食べようと思って買ってきたんだ。あの日、結局食べられなかったからさ」
出所が、前と同じく奇劉からだということは、黙っていた。紫嵐も疑っているのだろう。焼き菓子と琥珀の顔を交互に見る。じっと見つめられると、うっかり口を滑らせてしまいそうになるが、琥珀はにこにこ笑って沈黙を保った。
どうやら紫嵐も、同じ気持ちだったらしい。家族とのいざこざについてを琥珀に再度言い聞かせ、余計なことをしないように言うためには、まずは信頼関係を取り戻すのが先決である。そう判断したのだ。
大きく深い溜息をつくと、「そっちに座れ」と、小さな丸い簡易椅子に琥珀を誘導した。同じく簡素な、しかし実用性には何の問題もない机に持ってきた菓子を置く。包み紙を開けていくと、紫嵐の視線が手元に集中するのがわかった。よほど好きなのだろう。
「……誰も私に、おやつなどくれなかったからな。叔父のところに行くと、彼の奥さんが焼いてくれた菓子があって」
「ああ、だから俺も懐かしい気持ちになったんだ」
白虎族の女が、「家族」のため、「子ども」のために作ったものだったから、琥珀の思い出とも繋がったのだ。
ああ、なんだ。そうか。
急に、腑に落ちた。
「無理して、血の繋がった兄弟と仲良くする必要なんか、なかったんだ」
「琥珀?」
血の繋がらぬ紫嵐の叔母は、自分の子どもに振る舞うようにおやつを与えて、愛した。
実の家族から捨てられた木楊と実子の琥珀を、主従関係は明確に示しながらも平等に愛情をかけてくれた両親。
耳無しの木楊を馬鹿にしていることを両親は何度も注意したし、紫嵐には頬を張られるほど怒られたこと。
赤の他人相手ならば、放っておく。大切な家族として扱うからこそ、手間暇をかけて心を尽くす。時には泣きながら、拳を痛めることもある。
「俺は紫嵐に、白虎の情はないと思っていた。でも、違った。家族と認めた相手には、お前はこんなにも厳しくも愛情深く接してくれていたんだ」
「琥珀……」
机の上に置かれた紫嵐の手に、そっと触れる。久方ぶりの体温に、もう嫌悪はなかった。
「これは、お前にとっても俺にとっても、家族の味だろ。一緒に食べたら……俺たちも家族だ」
王宮で暴れたせいで名前を剥奪され、都を追い出されることになった息子を決して見捨てず、さらには事情のある人間を拾っては雇い入れるほど、愛情深い家庭で育った琥珀。
生まれたときから権力闘争に巻き込まれ、母は幼い頃に死に、叔父夫婦以外に心を許すことのできる親族もおらす、たったひとりで心を閉ざしてきた紫嵐。
生まれも育ちも違う自分たちは、事故で結婚した。最初の頃、琥珀は反発していたし、いつでも逃げてやると思っていた。だが今、こうしてふたりでいることは、心地よい。他人同士が信頼と愛情によって結ばれることを、「結婚する」「家族になる」と言うのなら――今こそ、結婚したいと思うのだ。
琥珀は照れ笑いして、「あ」と声を出す。
「包丁がないから、取ってくる」
厨に向かおうとした琥珀を制止して、紫嵐は引き出しから小刀を取り出した。ああ、そういえば野宿をするときに何度も使っていたな、と思い出した。
琥珀は彼から小刀を受け取って、菓子を均等に切り分けていく。こういうのは厚い方が食べ応えがあるだろうから、四等分だ。皿もないことに気がついたが、童心に返ったつもりで、手づかみで食べるからいいと紫嵐は言った。
ほんの少しだけ、これが奇劉が都合したものだということに、罪悪感と残念さを抱いた。けれどこれは、自分の胸にしまっておいて、墓場まで持っていくべきことだと口を噤み、琥珀は紫嵐を促した。
彼の口が開き、菓子を迎え入れる。
一口齧り、目を細めて咀嚼していた紫嵐が、突如苦しみ出した。椅子をガタガタと音を立てて倒し、地面に転がる。充血した目をカッと広げて、首の辺りを掻きむしる。
「紫嵐!?」
慌てて立ち上がった琥珀は、喉に詰まらせたのかと近づき、紫嵐の口の中に指を入れて残ったものを掻き出した。その際、口の中全体が痙攣して、強い力で指を噛まれた。ただ食べたものを詰まらせただけにしては、妙だった。
「紫嵐、水……」
茶はないが、水差しは常に置いてある。琥珀はそれを取ると、そのまま紫嵐の口に流しこもうとした。
そのときだった。なんの合図もなく、扉は勢いよく開かれた。見れば、武装した兵士たちがいて、こちらに槍先を向けている。
「貴様……青龍王族に、毒を盛ったな!?」
毒!? いや、そうだ。確かに、この反応はただの窒息じゃない……けれど、毒なんて。
呆然とする琥珀は、紫嵐の身体から引きはがされた。一緒にやってきた医者らしい男が、彼に近づき応急処置を施していくのを、口を開けたまま見ていると、思いきり頬を張り倒された。口の中に血の味が広がる。
捕縛された琥珀は外に出され、そこで思いもよらぬ人物を見ることになる。
「奇劉……殿下……?」
負傷のせいであまり動かない口では、明瞭な発声にならなかった。取り囲んでいる兵たちには聞こえていない。彼らは奇劉に敬礼をして、
「奇劉殿下のおっしゃった通り、この男は紫嵐殿下のお命を狙っておりました!」
と、報告をした。
「まさか……あんた……」
奇劉は自分を騙していた。毒が盛られていたのは、彼が店に申しつけていた菓子である。琥珀を信用させておいて、紫嵐を殺すための道具に仕立て上げたのだ。
琥珀の視線に気づいた奇劉は、周囲にばれないように口元を隠し、「まさか本当に、弟を殺そうとするなんて……」と嘆く。だが、こちらを見る目は明確に、嘲笑と自身の企みが成功したことへの歓喜に色づいていた。
まさしく狡猾な、蛇のように。
>(22)


コメント