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<8話
そんな職場でのやり取りを、百合子は週末のバーで、サトルに興奮気味に語った。
「壁ドンよ、壁ドン! さらっと壁ドンされたの!」
少女漫画で人気のシチュエーションは、百合子も勿論好んでいた。想像の世界でしか起こらないことだと思っていたが、まさか現実で、しかも好きな男にされるなんて。
きゃあきゃあと高い声ではしゃぐ百合子に、サトルは最初のうちは、「よかったね」と相手をしていたが、徐々に進まない話に呆れて、「それで? 証拠は、残してないんだよね?」と、自分から話を振った。
百合子は豊満な胸を、さらに膨らませた。
「勿論よ。それに、メールや電話のおかげで、あの女はだいぶ参ってる。勝手に失敗して、本当にクレーム食らってるからね」
いい気味だ、と百合子は嘲笑った。それでこそ溜飲が下がるというものだ。
清々しい気持ちで、百合子はグラスを空にした。
平日は真面目に業務をこなしつつ、陰で夏織をいびり倒す。そしてご機嫌な気分で、週末はバーでサトルと喋るのが、お決まりのコースになっていた百合子だったが、今日はサトルが来るなり、泣きついた。
「サトルくん! あ、あの女……!」
過呼吸気味になる百合子の背を、サトルは優しく撫で擦る。
「落ち着いて。慌てなくていいよ。全部、ちゃんと聞くから」
何度も繰り返し囁かれて、百合子は次第に興奮を鎮めていく。深く呼吸して、それから話し始める。
「あの女、浅倉くんの子供を妊娠したって……!」
サトルは一度目を閉じて、それから早口に、「まあ、付き合ってる男女ならそういうこともあるよね」と言う。
一昨日、給湯室で百合子は夏織と二人きりになった。そこで直接、嫌味を言った。課長のぼやきを伝聞しただけだから、この程度ならば平気だろうと思ったのだが、夏織は激昂し、危うく手を出されそうになった。
文也の名前を出して事なきを得て、給湯室を後にしたのだが、しばらく待っても夏織は戻ってこなかった。
課長はもうお茶なんていらない、と言っていたのに、いつまで経っても戻ってこない夏織に、立腹している様子だった。
仕事もできないくせに、サボりか? 課長の怒りが沸点に到達する前に、「私、様子を見てきまぁす」と新人が夏織を呼びに行った。
無論、彼女が率先して動くわけもなく、他の同僚が目配せし、彼女に合図をしたのだろうが、その経緯については、どうでもよかった。
血相を変えて新人は戻ってきた。
『た、大変ですぅ! 古河さんが、給湯室で倒れてます!』
百合子は自分もまた血の気が引き、倒れてしまうかと思った。私のせいにされるのではないか。さっきまでは、普通だったのに。そう口に出すと、なぜか白い目で見られたような気がして、押し黙った。
男性職員に抱えられて戻ってきた夏織は、意識を取り戻していたが、ゆっくり休ませた後で、病院に行くことになった。
そして昨日、文也の口から、彼女が倒れた原因は、妊娠したことがひとつの理由であることを、告げられた。夏織はそれに伴って退職をさせてほしい、ということも付け加えられた。その期限は、月末。
百合子は気づいてしまった。
文也に初めての経験を捧げ、本当の意味で女になることを望んでいたが、何ひとつ具体的に考えたことがなかったのだ、と。
夏織が妊娠したということは、文也とセックスをしたということだ。文也の身体の一部が、夏織の体内にと押し込まれたということだ。
ベッドの上で、一糸まとわぬ姿になって、抱き合うというビジョンしか抱いていなかった百合子は、最初から夏織に敗北していたのだ。認めたくない。そんな思いでいっぱいだったし、百合子の絶望は深かった。
突然のことで、皆の思考も追いついていないのか、まばらな祝福の拍手の中で、夏織は頭を下げた。
『残り短い期間ですが、よろしくお願いします』
彼女の表情は、愛されている女としての誇りに満ち溢れていて、百合子は思わず拳を力いっぱい握って、震わせていた。
じっと夏織を睨みつけていた百合子であったが、はたと気がついた。周囲の人々の視線が、自分に集中している。それも、歓迎できるようなものではない。妙な空気は伝播していき、課長のところまで届く。
課長。課長は最後まで、私の味方だ。祈るように視線を向けると、彼はそそくさと、座席を立ち、どこかへ行ってしまった。
そんな。
百合子は一人になってしまった。再び夏織に目をやる。そのときの彼女の顔を、百合子は絶対に忘れないし、決して許さないと思う。
「あの女、笑ったの。私のことを馬鹿にして、可哀想なものでも見るような目で!」
わっと声を上げて百合子は泣きだす。感情が先走って理性が追いつかない、そんなとき、サトルはいつもなら、百合子を宥めてくれるのだが、今日は一向に、優しい言葉をかけられない。
百合子は顔を上げて、「サトルくん?」と、涙でぐちゃぐちゃな顔を上げた。一瞬ぎょっとした表情を浮かべた彼だったが、やがていつもどおりの笑みを浮かべ、百合子の髪の毛を梳いた。
「そっか……ショックだったよね。妊娠じゃあ、しょうがないよね……」
「しょうがなくないもん!」
近いうちに、二人は結婚するだろう。それでも、百合子の内の恋心は後から後から溢れてくる。文也のことが愛しくて、たまらないのだ。
どうやったら邪魔ができるのだろう。百合子はイライラと爪を噛む。
サトルはしばらく黙って、百合子の様子を見守っていたが、ふと、思いついたように口にした。
>10話
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