夏織(2)

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みんな愛してるから

1話

 四月の頭まで、転入ラッシュによる市民課の繁忙期は続いた。文也は福祉課所属で、五階で業務に励んでいるので、平日はスマートフォンでのメッセージのやり取りだけが、二人の恋人同士の触れあいであった。

 本当は、昼休みに食堂で話すことができたら、と思う。せっかくお付き合いを始めたのだから、堂々としたい。

 しかし、夏織は文也と付き合っていることを、職場の人間には、まだ隠しておきたかった。文也もそれに同意した。

「ここ、いいかしら」

 Aランチを口に運ぶ夏織の向かい側の椅子を引いたのは、同じ戸籍係の先輩である、渡辺わたなべ百合子ゆりこだった。

 箸が皿に当たり、カツン、と音が鳴った。夏織はさっと食堂全体に視線を行き渡らせて、文也がいないことを確認してから、「ええ、大丈夫ですよ」と答えた。

「ありがと。今日も忙しいわよねえ」

 豊満な身体が、パイプ椅子を軋ませた。夏織は当たり障りのない同意を示した。

 大盛りのチャーハンとラーメンを、百合子は交互に食べていく。炭水化物×炭水化物の組み合わせは、自分のベストコンディションを維持しようと努力している夏織にとっては、視界に入るだけで暴力だった。

 ズルズルと音を立てて麺をすする。その唇は真っ赤に塗られているが、彼女の肌の色とは合っておらず、ぞわっとする。

 食べているうちに暑くなってきたのか、百合子のこめかみを汗が伝い、ラーメンスープの中に落ちるのを目撃してしまった。

 気分が悪くなって、夏織は箸を置き、湯飲みを手にした。

「あ、お疲れ様ですぅ。渡辺さん、古河こがさん。ここ、座ってもいいですかぁ?」

 夏織が茶を口にして、心を落ち着けようと努めていると、この四月に新卒で入ったばかりの後輩が、百合子に声をかけていた。

「もちろん。今日はお弁当じゃないのね」

「はい。ママが寝坊しちゃってぇ」

 語尾を伸ばして、自分の母親のことを「ママ」と呼ぶ。甘ったれな少女のまま成長したような後輩は、三月に辞めていった彼女を思い起こさせた。

 長い爪は、派手なラメ入りだった。勿論、市民と接することの多い戸籍係では、ご法度だ。

 だが、甲高い鼻にかかった声に、上司も、クレームをつけるのが趣味の老人も、骨抜きにされてしまって、注意されることもない。

 若さを全面に押し出した短い丈のワンピースを、苦々しく思っているのは夏織たち、普段地味にするように心掛けている女性職員と、中年以上の女性の来庁者だ。

 羨ましいなら、あなた方も出してごらんなさい、とばかりに曝される脚を、夏織は注意する気力もなくしていた。

 どうせ、この子もすぐ辞める。諦念を抱えつつ、指導をしている今日この頃である。

 彼女は、隣に座る百合子の半分くらいの量を、小さな口で食べ始めた。そういうあざとい様子が、鼻につく。

「そういえば、古河さんって」

「なに?」

「福祉課の浅倉さんとぉ、付き合ってるんですかぁ?」

 口の中に含んだ水分を、夏織はゆっくりと飲み下した。むせたら、動揺したと見抜かれる。

 どうにかして、ごまかせないだろうか。夏織が考えている間も、後輩はペラペラと喋り続ける。

「こないだ彼氏とぉ、隣の県の遊園地行ったんですよぉ。そのとき、古河さんと浅倉さんと一緒にいるの、見かけてぇ」

 市内・県内は誰かに見つけられる可能性が高いからと、県外で現地集合・解散でデートをしていた。人も多いテーマパークであれば、人目につかないだろうと、手はずっと繋いでいた。

「声かけようかなって思ったんですけどぉ。観覧車乗るのに並んでるとき、キスしてたじゃないですかぁ。声かけない方がいいかなぁって」

 キスをしたのは、夏織の方からだった。中学生レベルの健全なデートに我慢できなくなったのだ。

 案の定真っ赤になった文也のことを、可愛いと思った。繋ぎ直した手からは、汗が引いていたから、緊張はほどけたようだった。

 キスをしたことについては、後悔はしていない。けれど、その現場を見られていたのは、大きな失態であった。

 夏織は目を合わせないようにして、百合子の方を見た。

 のっぺりとした白い紙を貼りつけたような表情の百合子は、幸いなことに、夏織のことを直視していなかった。

 そそくさと視線を外し、夏織は否定することも肯定することもなく立ち上がった。ランチはまだ、三分の一ほど残っていたが、返却台に戻した。

 これは早急に、相談する必要がある。

 夏織はスマートフォンを片手に、食堂を立ち去った。

3話

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