夏織(3)

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2話

 職場から離れた店を、夏織は指定した。同時に庁舎を出ては意味がないので、文也には悪いが時間を潰してもらって、夏織は先に出た。

 バスに乗って、十分少々。待ち合わせの喫茶店に、先に入店する。

 昼はいいが、夜はやや肌寒い。温かい紅茶を注文してから、すぐに「着いたよ」とメッセージを送った。

 既読マークは付くものの、返信はない。庁舎を出て、バス停に向かっているはずだ。早く来てほしい。

 そわそわと、待つことしかできない。紅茶を飲むことも忘れていて、気づいたときには、ポットの中で渋くなってしまっていた。

 砂糖でごまかしながら、夏織は冷めつつある紅茶に口をつける。どう話せばいいだろう。考えても、正直に最初から話すしかないという結論しか出ない。

 チリン、とドアに設置されたベルが鳴ったので、はっとして夏織は入口を見た。

 スーツ姿の文也が、きょろきょろと辺りを見回して、夏織のことを探していた。夏織は彼に手を振る。

 こちらに気づいた文也は、店員に一声かけてから、夏織の元にやってきて、向かい側に腰を下ろした。

 コーヒーを注文して、彼は手を組み、夏織の話を聞く態勢を取った。

「緊急事態だって聞いたけど、何かあったの?」

 トークアプリでのやり取りはもどかしいし、かといって電話だと、誰が聞いているかわからない。

 運ばれてきたコーヒーを、まずは一口飲むことを勧めた。きっと話を聞けば、味なんて一つもわからなくなる。

 夏織の言葉に従って、文也はブラックのままのコーヒーに口をつけた。夏織はじっと、彼の喉が動き飲み干す様子まで見守ってから、話し始めた。

「百合子さんに、ばれた」

 溜息のような小さな声での報告に、文也は、「まさか」という表情を浮かべた。夏織の真剣な目から、真実であるということを知ると、顔を覆った。

 職場の人間に二人の関係を隠していたのは、百合子の存在が最も大きかった。彼女にだけは、知られるわけにはいかなかった。

 渡辺百合子が浅倉文也に執心していたのは、役所の人間ほぼ全員が知っている事実であった。

 きっかけなんて、文也ですら覚えていないという。就職して数か月経過した頃からずっと、文也は百合子に言い寄られていた。

「百合子さん、何か言ってた……?」

「ううん……でも、午後の業務は心あらずって感じだったし、明日、何を言われるかわからない」

 夏織はターゲットから外していたからよく知らないことだったが、文也はこれで、よく女性から好意を寄せられていた。

 見るからに草食男子なところが、特に年上の女性陣には美味しそうに見えたのかもしれない。上手く丸め込めば、結婚まで持っていけると思われていた節がある。

 だが、百合子の熱烈なアプローチに、文也狙いの女たちは振り落とされていった。ボリュームのある身体を無理矢理捻じ込んで、彼女は文也を食事に誘った。

 人前で堂々とデートの約束を取り付けるのは、女性に恥をかかせてはいけないという文也の優しさを、逆手に取ったやり方だ。

 無論、夏織も目の前でそんなシーンを繰り広げられたことがある。文也の顔は見るからに引きつっているのに、百合子はまったく気にしないのだ。

 人の顔色を窺うという、日本人に必須のスキルが彼女には備わっていない。また、自分の感情をひた隠しにするというスキルも。

 文也を前にした百合子は、性欲に満ちていて周囲をドン引きさせるほどだった。一回くらい負けて、ホテルに行ったことがあるんじゃないかと疑ったけれど、文也は珍しく、烈火のごとく否定した。

 しばらく文也は、掌で顔を覆って考え込んでいたが、やがて顔を上げた。

「夏織さん」

「は、はい」

 その目がいつもとは違っていて、夏織の胸を震わせた。おどおどした優柔不断さは、そこには欠片もなかった。

 強い意志を宿した、勇気と男気に満ち溢れた目に見つめられて、夏織は頬が熱くなったのを感じ、思わず手で触れて確かめた。

「明日、百合子さんに僕が直接話す。それでもし、何かされたら、言ってほしい」

 夏織の中の、頼りない男という評価が覆っていく。この男は、こんな表情もできるのか。

「わ、私も一緒にいた方がいい?」

 上ずった声で尋ねた夏織に、文也は首を横に振った。

「これは、僕が百合子さんをちゃんと拒絶しなかったせいだから。僕がちゃんと、決着をつけるよ」

 感情のままに動く百合子が、おとなしく振られてくれるだろうか。夏織は不安になって、文也の手をぎゅっと握った。

「ごめんね。私があんな目立つところで、キスしちゃったから……」

 キスシーンさえ見られていなければ、ごまかすことができた。百合子との直接対決を、引き伸ばせた。

 夏織の謝罪に、文也は途端に真っ赤になって純情を露呈させた。先ほどまでは格好良かったのになぁ、と夏織はがっかりする。

「いや、でも、その……僕は、嬉しかったから」

「文也くん……ふふっ」

 はにかみながら微笑んだ文也の目からは、すでに勇ましさは消えていた。キスが嬉しいと思ってもらえる程度には、自分は好かれているのだ。

 そう思うと夏織もまた、胸に温かいものが広がって、自然と口元を綻ばせていた。

4話

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