夏織(4)

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3話

 翌朝、出勤してきた百合子を待ち構えて、文也は人目につかない場所へと呼び出した。

 はらはらした思いで見守っているのは夏織だけではなかった。昨日の食堂での一件は、思った以上に目立っていたようで、文也と百合子の向かった方向を、なんとも言えない目で眺めている人間が多かった。

 始業間近に戻ってきた百合子は、明らかに泣いていましたよ、という風情を醸し出していた。

 だが、慰めに行く強者は、誰もいない。腫れ物に触ることすら憚られる状態だ。夏織はわずかな罪悪感を抱きながら、周囲と同じように、百合子を遠巻きにしていた。

 はあぁ、と大きな溜息をこれ見よがしに吐いた百合子は、首をギギギと動かして、赤く腫らした目を、夏織に向けた。

 うっかり直視してしまった夏織は、慌てて背を向けた。見えないが、彼女がまだ自分を睨みつけているのを感じた。視線が突き刺さる、というのを初めて体感する。

 その日の仕事は、まともにできなかった。住民票を入れた封筒を手渡すのに、何度か落としてしまったし、呼び出しの番号を間違えて、叱られたりもした。

 気にしすぎだ。仕事中なのだから、百合子が自分をずっと睨んでいるなんて、ありえない。夏織は深呼吸して、気持ちを切り替える。

 戸籍係の人間は、昼休みにもやってくる市民の対応のために、交代で休憩を取ることになっている。

 これ以上、百合子を刺激するのは避けたい。夏織は文也と食堂で鉢合わせになる可能性を恐れ、外でランチにすることにした。

 あと数日我慢すれば、連休だ。そう思えば、このタイミングでばれたのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。

 長い休みの間に、百合子も機嫌を直してくれたらいいな、と淡い期待をしながら、公園のベンチにハンカチを敷いて座り、コンビニのサンドウィッチを口にした。

 それにしても、今日は天気がいい。このままのんびり、ひなたぼっこでもして過ごしたいという誘惑に駆られる。

 ぼんやりと積極的に現実逃避に励む夏織の向かい側のベンチに、青年が一人やってきて、座った。

 夏織は、見るとはなしに彼を見ている。他に動くものもなく、見るべきものもなかったからだ。

 彼は夏織が立ち寄ったコンビニエンスストアと同じ袋の中から、サンドウィッチとペットボトルのお茶を取り出す。

 あ、と思った。それは、夏織が持っているのとまったく同じだったからだ。

 別に両方とも、珍しい物ではない。だが、コンビニで扱っているサンドウィッチやお茶の種類は、それぞれ十種類程度はある。

 完全一致する確率って、どの程度なのかしら。

 夏織は考えてみたが、思えば学生時代、数学は得意ではなかったので、すぐにやめた。

 青年を観察する目に、好奇心が宿る。細く尖り気味の顎は、肉を噛み切るのには向いていなさそうだ。

 それだけ見れば、リアル草食系男子とでも言えるが、夏織は彼の目の中にある、消しきれないギラギラした何かを、敏感に感じ取っていた。

 青年に意識を引っ張られながら、無意識的にペットボトルに口をつける。そのとき、目の前の男もまた、ペットボトルのお茶を飲んだ。

「あ」

 小さな声が出た。彼に聞こえてしまったか。夏織はぱっと視線を逸らす。動揺した。

 試しに髪の毛を触ってみると、青年もまた、同じことをしていた。やっぱりそうだ。いよいよ確信した。

 彼は、私の気を引こうとしている。

 見た目は爽やかなイケメンだが、この男は女を誘惑する技術に長けている。

 探るように見つめていた夏織に、青年はばっちりと目を合わせた。にっ、と唇を吊り上げて微笑みかけられて、夏織は慌てて立ち上がった。

 とても魅力的な男だ。有体にいってしまえば、文也などよりもよほど、夏織の好みに合致した。

 独り身であれば、きっと誘いに乗っていた。自分から声をかけて、連絡先を交換していたに違いない。

 けれど今の自分は、残念ながら、恋人のいる身だった。ただの恋人ではない。プロポーズはまだだし、指輪ももらっていないが、婚約者という立場に近い、男がいる。

 後ろめたい気持ちに拍車をかけたのは、震えたスマートフォンだった。文也からのメッセージの着信を通知している。

 他の男に気を取られていたというばつの悪さを抱えながら、開く。真っ先に目に飛び込んできたのは、謝罪しているスタンプだった。

『ごめん! GWなんだけど、母親が倒れたみたいで、実家に帰らなきゃならなくなった』

 直接話すときよりも、文章で送られてくるトークでは、文也の口調は多少柔らかい。まだ、顔を合わせて喋るときには、時折敬語が混じるのだ。

 連休中は、テレビで見た隣県の日帰り温泉施設に行こうとか、初めて彼のマンションを来訪したりだとか、そういう二人きりのイベントの計画を立てていた。

 だが、母親が倒れたのであれば、仕方がない。

 いいよ、と笑顔のスタンプとともにメッセージを送り、ふぅ、と息を吐いた。

 視線を目の前のベンチに戻すと、すでに青年の姿は消えていた。

5話

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