濃い灰色の雲が、重苦しく立ちこめる朝だった。鶏が鳴いても、太陽が顔を出さない。春とは名ばかりの、肌寒い日。
暖炉に火をつけるかどうか、姑と夫は軽く言い合いをしていた。
数日前、もう暖房は必要ないだろうと結論していたため、夫は火を炊くことに消極的だった。姑は膝が悪い。冷えが辛いのだろう。
「あなた。今日のお客さんの中には、お義母さんよりも年上の人がいるわ。せめて、その人たちが出発するまでの間だけでも、暖かくしてあげましょうよ」
エルザの実母はすでに亡い。彼女と親しい友人であった姑は、結婚前から自分によくしてくれ、実の母娘のような関係だった。
妻の説得に、夫は咳払いをした。「まあ、昼になれば暖かくなるかもしれないしな……」と。エルザは姑と目配せし、微笑み合った。
州都と海沿いの商業都市を結ぶ街道の途中にあるこの街は、小さいながらも旅行者や商売人で賑わう。宿屋はもちろん複数ある。競争に打ち勝つために、細やかな心配りや工夫が必要なのは、夫もよくわかっている。
エルザの仕事は、主に宿の受付業務だった。宿泊客の出迎え、見送りを一手に引き受けている。
「暖かくしてくれて、ありがたいよ」
州都に住む息子夫婦のところに向かうという老人は、頭を何度も下げていった。
「エルザ。そっちが終わったら、芋の皮むきを手伝ってくれないか?」
夫と舅は朝食の後片付けが終わるやいなや、夕食の仕込みに取りかかる。ふたりの作る食事は、この鈴懸亭の一番の売りだった。
「はい!」
エルザが元気よく返事をしたちょうどそのとき、来客があった。
宿泊客がやってくるのは、三度目の鐘が鳴ってからだ。一般の人たちの労働の終わりからが、宿屋が忙しい時間帯である。
何らかの事情があるとしても、昼の鐘の前では、部屋の準備ができないから断っている。
おかしな時間の訪問に眉を顰めたエルザが応対に出た。
「ここは鈴懸亭で間違いないか?」
居丈高な物言いの男は、後ろに部下をふたり連れていた。物々しい格好は、街を守る自警団ではなく、憲兵だ。
「ええ……はい、あ、ちょっと待ってください! お義父さん! あなた!」
突然のことにエルザは、慌てて厨房に夫たちを呼びに行った。
「ホッヘンハイムさんたちが?」
厨房に入り、下ごしらえをしていたエルザは、事の顛末を聞き、思わず包丁を取り落とした。
「おっと」
拾い上げた夫は、「危ないじゃないか」と注意をし、エルザの驚きをよそに、包丁を流しに置いた。
ホッヘンハイム一家は、掃除夫をしながら公国各地を転々としている。便所の汲み取りやドブ浚いなど、誰もやりたがらない仕事を、金銭をもらって仕事にしている彼らには、馬小屋を貸していた。
汚れ仕事をする彼らを、宿に泊めることはできない。一家もそれをわかっていて、馬小屋に安く連泊することを承知している。
憲兵は、彼らを逮捕しにやってきた。別の犯罪者が、「おれはあの、ホッヘンハイムの連中と一緒に仕事をしていたんだ」と告げたそうだ。
「まさか、そんなこと」
エルザは青ざめる。だが、夫は対照的に、冷静であった。鍋の中身を掻き混ぜ、味見をして眉根を寄せる。舅の味にはまだまだ敵わない。少し考えた末、塩を追加する。
舅はホッヘンハイムを引き渡し、そのまま憲兵の詰め所で取り調べを受けているため、不在である。
犯罪者をそれと知らずに宿泊させていたのだ。弁明しなければならなかった。姑も気に病んで寝込んでしまったため、若夫婦ふたりで、今日の宿泊客を捌かなければならない。
エルザは夫の指示に従い、豆の筋を取ることに専念する。家族で食べる料理は姑と一緒に作るが、客に出す料理の大事な部分は、男たちに任されているから、エルザがこの厨房でできることは、雑用しかない。
「ホッヘンハイムさん、さすがにそんな風には見えなかったけれど……」
中年の夫婦のもとに、男ばかりの三兄弟。そのうち上のふたりは、エルザとそう年が変わらず、人妻だと知りながら、露骨に誘いをかけてくる連中だった。両親にしても、狡いところがあり、宿で一番立場の弱いエルザに対してだけ、あれこれと要求してくることが多かった。
それでも、殺人や盗みなどの重大な犯罪に関わったとは思えない。どちらかといえば小心者で、犯罪を行う側というより、それを密告して小金を稼ごうとする人間たちだと思っていた。
そんな両親と兄に抑圧されて、末っ子のペーターはよくもまぁ、あれだけ歪まずに育ったものだ。
十に満たない年齢の彼は、花が好きな優しい子どもで、しおれかけた花を摘んできては、「元気な花は、摘んでくるのがかわいそうだから」と、エルザにお土産としてくれるのだ。
そのときのはにかんだ笑みが、なんと可愛らしいこと。
エルザはハッとして、夫に食ってかかった。
「あなた! 一家全員が逮捕されたって、まさか、ペーターも!?」
あの心優しい子どもが犯罪に関わっているとは、到底思えなかった。エルザの問いに、夫はのんびりと、「そういえば」という顔で答える。
「ペーターは、いなかったな。遊びにでも行っているんだろう。帰ってきたら、詰め所に連れて行かないと……」
みなまで聞かず、エルザは豆の入ったザルを放り出した。まだ手をつけていないものと混ざってしまう。
「おい!」と、夫が怒鳴るのも聞かず、エプロンで手を拭き、宿を飛び出した。
「エルザ!」
ペーターの居場所は、だいたいわかっていた。ひとつ所に滞在せず、常に旅をしている彼には、友達がいない。ひとりで郊外の森に繰り出し、家族の仕事が終わる夕方までの間、遊んでいるのを知っていた。
お義父さんやホッヘンハイムさんが、憲兵にペーターの存在を明かさないでいればいいけれど。
エルザの楽観的な希望は、おそらく叶えられない。憲兵相手に隠匿や嘘は通用しない。彼らは執念深く、尋問で人を追い詰める。
もしかしたらすでに、ペーターを探し当て、確保しているかもしれない。
走ったせいだけではなく、焦りで胸が苦しくなる。上がる息で、「ペーター! ペーター、どこ?」と必死に呼びかけると、三度目でようやく、ひょっこりと少年が姿を現した。
くすんだ金の髪に、若草色の目。森で何をしていたのか、頬や服は、土で汚れている。
「ペーター!」
エルザは自分が汚れるのもいとわずに、幼い子どもを抱きしめた。
よかった、無事だった。
何も知らないペーターは、無垢な瞳で「エルザ姐さん?」と、首を傾げていた。
連れ帰ったペーターの身体を拭き、着替えさせたエルザは、宿の中に入れた。馬小屋しか知らない哀れな子ども――同じく厩で生まれた子は、神の子とされているのに――は、初めて入る客室に、目を白黒させた。
「すごいね。王子様のお部屋みたいだ!」
無知というのは純粋で、エルザには眩しく、そしてより一層悲しく映った。涙を隠しながら、エルザは部屋を去った。
宿泊客は少ないからと、夫はペーターを部屋に入れることに同意した。さすがは自分の愛する夫だ。善良な子どもを守るために、一緒に頑張ってくれるのだろう。
だが、エルザの期待は、ふたりの寝室に入り、さあ寝ようとしたところで打ち砕かれた。 先にベッドに入っていた夫の隣に潜り込もうとしたところで、新たなレシピを思案していた彼が、目も合わせずに言った。
「明日、朝一番にあの子を詰め所に連れていく」
と。
寝耳に水で、眠気など吹き飛んだ。入りかけたベッドの上に、エルザは飛び乗る。突然のことに、夫は目を丸くする。
エルザは彼の寝間着の襟首を掴んで、揺さぶった。幼なじみの彼は少し年上で、エルザの行動に慣れている。少しも怒らずに、「どうしたんだい?」と、のんびり言った。
「どうして!? あの子は何にもしていないのよ!?」
「それを決めるのは、僕らじゃない。憲兵なりなんなり、ふさわしい立場の人が判断するよ」
十にもならない子どもが、いったい何ができると言うのだろう。エルザに「いつもありがとう。母さんや兄さんたちが、ごめんなさい」と花を渡してくれる、優しい子どもだ。
「子どもは親を選んで生まれてこられないわ、ゲオルグ。たとえ両親やお兄さんたちが悪い人間であっても、ペーターだけは違う。私にはわかるの」
舌がもつれそうになりながらも、エルザは夫を説得する。そうだわ、と手を打ち、
「ペーターはホッヘンハイムさんの子どもじゃない。私たちの子どもだと言い張るのはどうかしら!?」
名案だと主張すると、さすがに温厚な夫も、「馬鹿を言うな!」と、怒鳴りつけた。
「僕たちは結婚して三年しか経たないんだぞ」
あんな大きな子どもがいるはずがない。少し考えればわかる。たとえ周囲が協力してくれたとして、憲兵も馬鹿じゃない。疑われ、より一層ペーターは窮地に追いやられる――。
逆に夫に説得され、エルザは不承不承頷いた。悲しげな目の夫が、額にキスをしてくる。
「エルザが優しくて、他人の子どもであっても見捨てられないのは、わかっているよ。けれど、優先すべきは僕らの生活なんだ。わかるね?」
「……ええ」
愛する夫の頬にエルザもキスを贈り、彼の隣に潜り込んだ。
翌朝、ペーターは早くに夫に連れられて、詰め所へと向かった。エルザは留守番を言いつけられた。
「いい? ペーター。やっていないことはやっていないと、正直に答えるのよ」
何度洗っても落ちないしみで薄汚れた洋服を、せめて印象がよくなるようにと皺を伸ばして整えてやりながら、エルザは言い聞かせた。
これからどこへ行くのか、家族がどこへ行ったのか、何も知らないペーターは、エルザの言葉に首を傾げつつ、頷いた。幼心に何かを悟っているのか、彼は無言である。
「ペーター、行くぞ」
顔を強張らせた夫に手を引かれ、幼子はエルザを振り返り振り返り、街外れの憲兵の詰め所へと向かう。
不安げに揺れる目で見つめられると、「待って!」と、手を伸ばしそうになる。ぐっと押しとどめるのは、姑だ。彼女の目にも涙が溜まっている。
ああ、心は皆、同じなのだ! ホッヘンハイム家の人たちが何かをしてしまったのだとしても、ペーターがそこに荷担するはずがないのだ!
「お義母さん!」
自分よりも小さな、しかし柔らかな身体に抱きついて、エルザはさめざめと泣いた。幼くか弱いペーターの身を思って。
ホッヘンハイム家の人間が、結局どのような罪で裁かれ、どの程度の刑罰を受けるのか。
「あのドブ浚いの一家でしょう? いつも汚らしい格好でうろついていて、やっぱりね! って感じ」
「そうよねえ。特にあそこの家の息子たち! うちの孫をいやらしい目で見てくるんだから、気持ち悪くて仕方なかったわ」
「あんたんちの孫娘って……まだ十歳じゃないか!」
井戸端会議に夢中になっている女たちの傍を、エルザは買い物かごを抱え、急ぎ足で通り過ぎる。
早く立ち去らなければ、食ってかかりそうだった。
そりゃ、兄たちは何をしているかわからないどら息子よ? けれど、あそこの三男坊は、心優しい男の子なんだから、一緒にしないでちょうだい!
「おい、聞いてくれよ。こないだ捕まった、掃除夫の一家がいただろ」
「ああ」
まったく、どこもかしこもホッヘンハイム家の話題が尽きない。この街では、酔っ払いや不良同士の小競り合いは数多あれど、大きな犯罪が起きたことがないからだ。
どうしても一瞬は立ち聞きをしてしまう自分を恥じらいつつ、エルザはなるべく聞かなかったふりをしようとする。
しかし、
「ありゃ、ただの犯罪一家じゃないぜ。一家全員、魔女だったんだってよ!」
という知らせが耳に飛び込んできた瞬間、おかみさんがおまけでくれたリンゴが転げ落ちた。
エルザはそれを拾うでもなく、情報通気取りの青年の元へつかつかと近づいていって、「それは本当?」と、話しかけた。
見知らぬ人間に横槍を入れられた男は、「ああ?」と不機嫌そうだったが、相手がエルザ――これでも一応は、鈴懸亭の看板若おかみである――と見るやいなや、頬を赤らめ、どぎまぎと返した。
「間違いないよ。明日には、隣の街へ移されるんだってさ。ほら、ここにゃ異端審問官様がおられないからな……」
「あの家には、小さな男の子がいたじゃない? あの子も魔女だっていうの?」
Nein、と答えてほしい。
エルザの願いは、届かなかった。
翌日昼、街の広場は大いに盛り上がっていた。
何せ、公国中を呪っていたと思われる魔女の一家が移送されるのだ。ひとりでも滅多なことなのに、一家全員が魔女! 一目見ようと、多くの人が集まっていた。
「男でも魔女っていうのか?」
「そういうもんらしいぜ」
「あそこんちの鶏が一気に死んだことがあったろ? あれも魔女の呪いのせいらしい」
「なんておっかない!」
無責任な群衆たちの中、エルザは夫に支えられて、かろうじて立っていた。「大丈夫か?」心配してくる夫に小さく頷き、エルザは固唾を飲んで見守っていた。
駆り出された自警団員たちが、熱狂の塊となった野次馬たちを抑えつけ、移送の通路を確保している。
鐘が鳴る。街全体に響き渡る警鐘は、毎日時刻を告げる教会の鐘と違い、厳かさはまるでない。甲高く、不揃いだ。大火や洪水、大災害のときに人々に危急を知らせる不協和音は、心をざわつかせる。
果たして、尾を引く余韻すらも消えたとき、馬車がゆっくりと進んできた。道中すらも刑罰の一部なのだろう。幌すらかかっていない荷馬車の荷台に、家族全員が詰め込まれて小さくなっている。
彼らはいつも以上に薄汚れていた。風に乗って、垢の臭いが漂ってくる気さえする。成人している両親、兄たちは、顔の原形を留めていなかった。
あまりの悲惨さに、エルザは遠くから見ているだけで、気絶しそうだった。しかし、周囲の人々はそうではないらしい。
顔を殴られ、怪我をしているだけでは拷問とは言えないぞ。四肢を切り落としてしまえ!
魔女の所業のすべてを吐かせるには、そのくらい必要だと、小声で言い合った。
馬車の中には、ペーターもいた。親兄弟たちよりはずいぶんと手心が加えられているが、それでも彼の頬は真っ赤に腫れていた。
「ペーター!」
叫びかけたエルザの口を、夫の大きな手のひらが覆った。料理人の、今朝締めたばかりの鶏の臭いが染みついている。
ペーターの手は、血の臭いなどしない。花の、緑の、土の、自然を自然のまま愛する人間の手の香りがするのだ。
人を掻き分け、見せしめの馬車に近づこうとするエルザの頬を、夫は初めて叩いた。幼い頃から、どれほど我が儘を言っても笑って許してくれた夫が、これほどまでの剣幕を見せたことはない。
「駄目だ。わかるね、エルザ。あれを庇えば、君まで魔女だと疑われる」
夫はずいと身を乗り出し、エルザの視界を遮る。だが、エルザには見えている。
ペーターの若草の目は、もはや溌剌とした少年の目ではない。
あれは、絶望を受け入れ、抵抗を忘れた人間の目だ。
もがくエルザを、夫は再び強く張り、そのまま抱えて人混みを抜け出した。家に帰ると、そのまま義家族総出の説教と説得を受ける。
「もう、俺たちにゃあしてやれることは何もない」
ホッヘンハイム家の人たちを馬小屋に泊めていたせいで、犯罪者を庇っていたと思われている義父は、嫌そうな顔で吐き出した。
「そうよ。ペーターのことはかわいそうだけれども……でも、仕方ないの」
夫に二度も叩かれた頬を手当てしながら、姑は目を伏せた。
「僕たちには、エルザ、君の方がずっと大事なんだ。だからもう、あの人たちのことは忘れよう」
夫に肩を抱かれ、エルザは小さく頷いた。
『お義父さん、お義母さん。そしてゲオルグ。 本当に、ごめんなさい。私はやはり、どうしても、ペーターが魔女だとは思えないのです。あの子はとても賢く、優しい男の子です。ホッヘンハイムの他の人々がどうなろうと構いません。私は、ペーターだけは救いたいのです。
たとえ、私自身が魔女の誹りを受けたとしても。
だから、どうぞ私のことは死んだと思ってください。もう二度と、合わせる顔もありませんので。 エルザ』
夜中に急いでしたためた手紙は、封筒にすら入れなかった。食卓にひらりと一枚だけ置いて、エルザは鶏が鳴くよりもずっと早くに、家を出た。
自分でも、どうしてここまでペーターのことを気にしているのか、よくわからなくなってくる。
小狡い親兄弟を持ちながら、まっすぐに育っていたペーター。結婚して三年、子どもに恵まれないエルザにとって――「あんたんちの嫁の不妊も、あの魔女一家のせいなんじゃないかい?」――、愛情を傾ける対象として、ペーターは非常に都合がよかった。
孤独な子ども。周囲の同じ年頃の女が次々に子を孕む中、妊娠の気配もない自分。溢れそうになる母性を、エルザはペーターに注いだ。
あのホッヘンハイムの母よりも、自分の方がよほど、ペーターに母らしいことをしてきたという自負がある。だから、母親として、あの子のことを助けなければならないのだ。
一家が連れていかれたのは、州都・ツヴァイブルク。エルザは、覚悟をもって訪れた、目の前の塔を見上げた。
魔女であっても、道具がなければ、空を飛ぶことはできない。鷹の塔は、箒もないし、山羊もいない、審判前の魔女を閉じ込めておく場所だ。
「こんな場所に、ペーターが……」
エルザはようやく会う約束を取りつけることができた、異端審問の責任者を訪ねるべく、ここにやってきた。鷹の塔の異様な雰囲気に飲まれそうになる。
向こうは聖職者で貴族だ。着の身着のまま家を飛び出した平民の自分が、どれほど上手く立ち回れるかは不明だったが、やるしかない。
異端審問官・アーベントロート卿は、神父というよりも悪魔的に鋭い目つきで、エルザのことを睨みつけた。
「ごきげんよう、アーベントロート卿」
付け焼き刃の貴婦人の礼を、男は鼻で笑った。
なけなしの勇気がみるみるうちに萎みそうになるが、エルザはペーターの絶望に満ちた表情を思い出し、気持ちを奮い立たせる。
「嘆願がございます」
エルザは卿の足下に侍った。神の子の下に敬虔な弟子が侍り、説教に聞き入ったのと同じ姿勢で、彼のことを見上げる。
清廉さとは対極にある男は、女を見下ろすことに優越感を得ている様子だった。
エルザは切々と訴える。
ペーター・ホッヘンハイムだけは、絶対に魔女ではないこと。あの優しい子どもが、他人を破滅させる術をかけるわけがないこと。
「生き抜くために魔女の道を選んだと言われていますが、それは違います。魔女になれば、誰の助けも得られません。魔女の道は、孤独な道です。けれどあの子は、ペーターは、私のことを慕ってくれておりました。そんな子を、私は魔女として裁くことを望みません」
言っているうちに、涙が出ていた。
どうか、ペーターに慈悲を。頭を床に擦りつけて、減刑を嘆願する。
エルザにとって幸運だったのは、この街の異端審問官の職にある男が、欲望に塗れた俗物であったということだった。
そしてそれは同時に、不運であったのかもしれない。
神父はエルザを立ち上がらせると、頭のてっぺんから足の爪の先まで、じろじろと観察した。
エルザは、彼の目を知っている。ホッヘンハイムの兄弟ふたり(そして時には父親)から向けられる、好色な意味をもつ目だった。
肩に手を置かれ、びくりと身体が震えた。
「そうだな。私も、あんな子どもが魔女であるとは到底思ってはおらぬ……手心を加えてやってもいい」
交換条件は、エルザ。
離縁覚悟で置き手紙をして出てきた。宿の経営に忙しい夫と義家族は、今頃何をしているだろう。
ああ、本当に、二度と帰ることができそうにないなんて! ごめんなさい、ゲオルグ! お義父さん、お義母さん、どうか元気で!
エルザは顔を上げ、うっすらと微笑む。
宿屋で客を相手にしていたときとはちがう。哀れで愚かな乙女のように、口を半開きにして、目を潤ませる。
夫が、「いらん虫がつくから、その笑い方はやめなさい」と、口を酸っぱくして忠告していた、男の獣欲を煽る顔だった。
「罪状! これより読み上げるホッヘンハイム一家に関する有罪案件は、三百五十六件。うち、強盗……呪いをかけて災害を引き起こすこと……殺人……男女の間に諍いを引き起こすこと……」
魔女裁判の結果、ホッヘンハイム一家は有罪、つまり魔女であると断定された。
魔女の行く末はただひとつ、死刑だ。
都会とはいえ、魔女の処刑は珍しい。告知があったその日から、広場の場所取り合戦は始まっていた。悪趣味なこと、このうえない。
魔女が討ち滅ぼされるのを見届け、勝利の雄叫びを上げるためにやってきた人間は、教会の人間が読み上げる罪状詳細の多さに、早くもうんざりし始めている。
「……よって、これより処刑を執り行う。女は乳房を切り取り、男は車に括りつけ、その四肢を裂く。そのままナイフで何カ所も切り刻み、生きながらにして、焼く。灰はそのまま野ざらしとする」
彼の語る処刑のむごたらしさに、エルザは眉を顰めて、手を繋いだ子どもに「もう行きましょう」と囁いた。
アーベントロート卿は、エルザを蹂躙した後、約束を違えなかった。高僧に従順に尽くした女は、神のよき僕であると褒めた。ペーターの新しい戸籍を用意するとすら、約束した。
所詮、力を持たぬ女であるエルザは、これからも自らの身体を糧に変えていかなければならない。ペーター――新しい名を、ダミアン――とともに、生きていくためだ。
もう自分には、この子どもしか残っていないのだから。
ペーター改めダミアンは、エルザの手を振りほどいた。若草色の瞳は、まっすぐに自分の家族だった人間たちの行く末を見つめている。
早々に州都を去り、別の都市の救貧院の保護を求めようとしたエルザを押し止めたのは、彼だった。
どうしても、自分の家族の最期を見届けたいのだ、と。
子どもに、それも自分の家族が火あぶりにされる光景は酷だと何度も説得したが、聞き入れなかった。最後には、癇癪さえ起こした。終始控えめな彼のそんな姿を見るのは、初めてだった。
最初に切り落とされたのは、母親の乳房だった。あれを吸って生きながらえた子どものうち、ふたりは恐怖に震え、執行人の手から逃れようと暴れている。元気だったのは一瞬で、打擲されて悶絶いているところを、牛の引く車に括りつけられた。
四肢の関節が外れ、骨が折れる音は聞こえない。牛の嘶きにかき消されるせいだ。だが、激痛に喘ぐ人間の悲鳴がとどろき渡るせいで、どのタイミングでどうなったのか、誰もが知るところとなった。
エルザは吐き気を堪えながら、ペーターの肩をそっと抱いた。彼はこちらを見ようともしない。
やがて、悲鳴すら上げられなくなった彼らは、木に括りつけられる。十字架ではない。それは、神が受けたのと同じ刑罰になり、大罪人には不適当だった。彼らには、ただの杭でいい。
火がつけられると、再び彼らは狂ったように泣き叫ぶ。男の口からも、甲高い女のような悲鳴が飛び出てきて、「やはり魔女だったんだ!」と、野次馬が叫んだ。
果たして、本当に彼らは魔女だったのか? 泊めてあげたのに、私の身体に呪いをかけて、子どもができないようにしていたのだろうか?
エルザの眼前にある真実は、ペーターの家族だった人たちが、爪先から順に、灰となっていくことだけ。魔女かどうかなんて、判断できない。
悲鳴は、次第に呻き声になっていく。祈りの言葉にも似た、小さな声に。やがて、パチパチと炎が燃えさかる音しか聞こえなくなったとき、もういいだろうとエルザは判断した。「ダミアン」と、彼の新しい名前を呼びかけて、エルザはハッとする。
燃え尽きた彼ら、轟々と音を立ててすべてを浄化する炎を見守るペーターの目に浮かぶのは、恐れや怯え、ひとりだけ助かったことに対する負い目などでは、決してない。
これは……恍惚?
まるで、神にまみえたかのように、涙の膜がうっすらと張り、唇には微笑みにも似た表情が浮かぶ。
「ペーター、あなた……」
思わず本名を呼んだエルザは、彼の股の間に現れた異常に、気づかなかったふりをした。子どもとばかり思っていた彼が、今この場でひとつ大人の男に近づいたことを知る。
心臓は、処刑が始まったときよりも嫌な音を立てて激しく動いている。
もしかして私は、とんでもないものを目覚めさせてしまったのかもしれない……。
「もういいよ、姐さん」
ひとり、またひとりと返っていく人々は、誰も自分たちに注目していない。
ペーターの目は、どこか彼の兄たちに似ている。
先を行く彼の足元、一輪の野花がぐしゃりと踏みつぶされたのを見て、エルザの目の前は、絶望に真っ暗になった。
(了)
参考文献
『図説 魔女狩り』黒川正剛(河出書房新社/2011)
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