運動部の新入生なんて、だいたい先輩面をしたい二年生から、体よく使われるに相場が決まっている。
どうでもいい自慢話を「さすがっすね」と持ち上げなければならない。あるいは、ストレス解消の的にされたりする。
特に、レギュラー争いに一ミリも関わってきそうもない、俺みたいなチビは。
同じ一年でも、背が高くて、地元のミニバスチームじゃ、ちょっとは名の知れていた部員は、顧問や部長たちの覚えもめでたい。そんな奴にアレコレと因縁をつけてふっかけたら、自分の立場が危うい。
だから狙われるのは、中学からバスケを始めたばかりの奴。おとなしくて無害な奴。それから体格があまりよくなくて、刃向かってきても力でねじ伏せられる奴。
このうち、一番と三番に当てはまっているんだから、俺が二年にネチネチやられるのは、入部時点から決まっていた。
新生活にワクワクしている俺を、さてどうやって曇らせてやろうか。そんな目つきで見ていた先輩が、いたのかもしれない。
故意としか思えないコースと速度で、頭にボールが当たったときには、さすがの俺もキレそうになった。
どこに目ぇつけてんじゃ、ボケ! って。
ちなみにこれは、姉ちゃんが愛読しているヤンキー漫画において、ケンカの始まりを告げる常套句だ。
「わりぃな、須藤。手ぇ滑っちまった」
「あまりにチビすぎて見えなかったんだよ」
なぁ、と、二年の中でも態度だけはレギュラークラスの先輩に同意を求められれば、俺以外の一年は、愛想笑いとともに頷くしかなかった。あとで謝ってくるのは、このうちの何人だろう。
同じ一年であっても、バスケ経験者たちからの扱いは悪い。
後片付けは一年全員でやることになっている。しかも今月は、バスケ部が体育館のモップがけをすることになっているのに、俺が用を足しにトイレに行っている隙に、示し合わせて帰りやがった。途方に暮れるしかない。
顧問に言えば改善されるのかもしれない。何度か訴えてみたが、「運動部っていうのは、上下関係を学ぶ場でもあるからなあ」と、まともに取り合ってはくれなかった。
チビだの下手くそだの罵られて学ぶ関係ってなに? それって俺にメリットあるの?
先生にまで「生意気」「扱いづらい生徒」と思われたら、今以上に部活に支障が出る。俺はぐっと堪えて甘んじていた。
その結果が、体育館でぼっち。泣きたい。いや、泣かないけど。
「クソ。馬鹿。アホ」
思いつく限りの悪態をつきつつ、俺はひとり、黙々とモップがけをした。ひとりきりの体育館は、普段は意識していないけれど、広い。せめて大きなモップを用意しておいてほしい。なんで教室にあるのと同じサイズなんだ。
それでもなんとか、十分かけて床を磨き上げた。やるとなったら徹底的にやるのが俺のポリシーだ。一息ついてから、モップを戻しに、体育館倉庫へ。
この倉庫というのが厄介な場所だった。屋内で活動する運動部はみんな、自分たちがラクできればそれでいいと思っている。好き勝手に備品を設置した結果、なかなかカオスなことになっている。
しかも、掃除用具入れは奥の奥だ。様々な障害を乗り越えて行かなければならない。苛立ち混じりの俺の動きは、雑だった。
そのせいで、柔道部が受け身の練習に使った後、適当に積み上げられていたマットが崩れ落ちてきた。何枚もあって、かなりの重量がある。
「わ!」
咄嗟によけることができず、反射的に腕で顔を覆った。そんなんじゃガードできないことはわかっている。下敷きになったら、骨が折れるかも。ほら、そんな事故、たまに聞くだろ。
しかし、恐れていた衝撃も痛みもなく、俺は立ったままだった。
「大丈夫?」
マットをギリギリのところで押さえ、そんな風に気遣ってくれたのは、初めて会う男子生徒だった。
「あ、うん。ありがとう」
一人じゃ支えるにも限界がある。俺は慌てて、彼と協力して、マットの位置を直した。 そのとき少年の隣に並んだのだが、目線が同じくらいだった。
自分と背丈が変わらない男。中学に入ってからは、初めて見るかもしれない。
「どうしたの?」
まじまじと観察していると、不意に微笑まれ、ドキドキした。
以後、俺が押しつけられた用事のために、ひとりで体育館倉庫に行くと、どこからともなく、彼が現れ、手伝ってくれるようになった。誰かひとりでも他人がいると、なぜか彼は見当たらない。
どこの部なんだろう。体育会系って見た目じゃないけれど、放課後に倉庫まで来るのは、運動部員以外にいない。
そもそも学年すら知らない。子どもっぽい表情や、何より俺と同じくらいの身長から、勝手に同級生だと認識しているが、穏やかな物腰とか、俺が愚痴をこぼすと、同調しつつも諭すようなことを言ってくるのは、年上っぽくもあった。
そんな不思議な存在の彼とのおしゃべりが、いつの間にやら、部活の一番の楽しみにすらなっていた。
「それって本当にニンゲン?」
隣のクラスに在籍している、小学校の頃からの親友・マモルは、眼鏡をぐい、と押し上げながら、訳のわからんことを言った。
体育の授業は二クラス合同で、男女別に行う。今はバレーボールで、自分たちの出番を待っている最中だ。
「はぁ? どういう意味だよ」
ニンゲン以外の何者もないだろ。
俺が言えば、眼鏡の奥の目つきは鋭くなる。見た目は子ども、頭脳は大人のどこぞの名探偵が、犯人に目星をつけたときと似ている。「名前は?」
「は?」
「だから、名前。そんなに仲良くしてもらっているなら、名前くらい知ってるだろ」
マモルに言われて、はたと気づいた。
そういえば俺は、体育館倉庫では何度も話をしたり、後片付けを手伝ってもらったりと世話になっているくせに、彼に名前を聞いたことが一度もなかった。
俺の顔色に、ダメだこりゃ、という顔をして肩を竦めたマモルは、チームメイトに呼ばれてコートに入っていった。
マモルがそんなことを言うものだから、俺は何度も彼に名前を聞こうとした。
いや、聞こう! と、部活中は覚えているのだが、実際に顔を合わせると、そんなことはどうでもよくなって忘れてしまう。
再びの体育の授業でマモルにそう言い訳をすれば、ますます「やっぱりニンゲンじゃないのかも……」という疑いを深めるのだった。
マモルは気のいい奴だけど、オカルト趣味があるのが玉にキズなんだよな。まぁ、押しつけてくるわけじゃなくて自分ひとりで楽しんでくれる分には、かまわない。
今週もまだバレーボール。ローテーションでコートに入るので、喋っていられる時間はそこそこある。
「体育館以外で会ったことは?」
「ないけど……つか、探したことねぇ」
体育館倉庫にひとりでいれば、確実に会えるからな。
「それがおかしいんだよ」
マモルはびしりと俺の鼻先に人差し指を突き出した。
「普通、そんな風に仲良くなった人となら、体育館倉庫以外でも話したいと思って、どこのクラスにいるんだろうな~、とか考えるのが普通だろ」
まぁ、確かに。
マモルの言い分に納得したのは、そこまでだった。
「君、きっと何らかの洗脳をされてるんだよ。その人、宇宙人か何かかも」
相変わらずぶっ飛んだ頭をしている。洗脳? 宇宙人? 馬鹿馬鹿しい。彼は背が低くて、ちょっと女子寄りの外見をしているだけで、普通の男子中学生だ。
「お前な、いい加減に」
俺が反論しようとしたら、チャイムが鳴った。
「今日の授業は終了! じゃあ、A組の日直は、ボールを体育館倉庫にしまっておいてくれ」
今日のA組の日直。それすなわち、俺である。
「げ」
部活でも後片付け、授業でも後片付け。つくづく、体育館倉庫に縁のある俺。クラスメイトや隣のクラスの生徒たちは、ボールをカゴに戻してくれる分、部活よりマシだ。
レギュラーの先輩たちはそのままミーティングに入ってしまうし、それ以外の連中は、全部俺に押しつけていく。
「へい、パース」
友人が投げてくるボールを受け取り、次々にカゴに収めていく。全部入ったところで、俺は体育館倉庫へ。
すると、マモルもついてきた。
「もしかしたら、僕も君の友人に会えるかもしれないだろ」
言いながら、一緒にカゴを押していく。ひとりだと劣化した車輪のせいでバランスが取りにくいので、ありがたかった。
体育館倉庫に入る。窓がない小さな空間は、独特なかび臭さがある。汗がしみこんだままのマットが原因だと俺は思っているが、柔道部の連中に注意できるはずがない。
今日もデタラメな配置の倉庫だ。中に入った俺だったが、マモルはなかなか入ろうとしない。
「マモル?」
不思議に思って振り返ると、真っ青な顔をして震えている。梅雨とはいえ、気温は高い。そんなに冷えることもないはず。
もう一度名前を呼ぶと、マモルははっとして、「ごめん!」と叫び、一目散に逃げていった。
「なんだぁ……?」
昼休みに体育の授業後のことを聞きに行った。その頃にはもう、マモルも落ち着いていた。
「なんだか、すごく嫌な感じだったんだよね。寒くて寒くて」
思い出したのか、ぶるっ、と身を震わせた。「嫌な感じ、って?」
「嫌な感じは嫌な感じだよ! 君、どうしてあんな場所に平然と入っていけるんだい!?」
そんなこと言われてもなあ。
マモルの八つ当たりに、頬を掻くことしかできないでいると、「このニブチン!」と、怒られた。
マモルの言う「嫌な感じ」だけど、俺には感じられなかった。そりゃ確かに、いい匂いとは口が裂けても言えないけど、忌み嫌って逃げ出すような場所とも思えない。
しかし、よくよく周りの意見を聞いてみれば、「あたしもあの場所嫌いなんだよね」という意見を得られた。それも、複数人だ。
なかには、「体育館倉庫で昔死んじゃった子の幽霊が出るんだって。私のお姉ちゃんのそのまた先輩から聞いた話だよ!」と、怪談話をしてくる女子までいた。
マモルは「ほら。やっぱり君は、幽霊に取り憑かれてるんだよ」と、したり顔だ。
お前最初、宇宙人って言ってたじゃん。
俺は嫌な感じも何もないので、その後も体育館倉庫に普通に出入りした。なんなら最近は、昼休みにもこっそり忍び込んでいる。するとやっぱり彼が現れて、俺たちは他愛もない話をする。
冗談で、「そういやここ、幽霊出るんだって。あんたがその幽霊だったりして?」と言ってみた。
一瞬、彼の顔が曇った。けれど瞬きの間に、いつもの柔らかな笑みに戻っていたので、安心した。
そうだよな。幽霊とか宇宙人とか、そんなのありえないし、馬鹿馬鹿しい。
短い時間の会話を楽しんで、俺は彼と別れた。
「あ、また忘れた」
こちらとしてはすっかり友達だと思っているのに、俺は相変わらず、彼の名前を知らない。
明日は、あいさつを交わした早々に「君の名は?」と、聞いてみようと誓った。
そう思っていたのに、いまだ彼の名前を聞けずにいる。
俺が馬鹿だからなのか?
返ってきたばかりの英語の小テストの点数を見なかったことにして、ひらひらしながら思った。
今日は部活がないので、マモルと一緒に帰る約束をしている。定期テストが近いから、うちで勉強を教えてもらう予定だ。
B組に迎えに行くと、マモルは「ごめん! 今日、掃除当番なのすっかり忘れてた!」 と、手を合わせてきた。仕方ないので待つことにしたが、掃除風景を眺めているだけなのは、暇すぎる。かといって、自分のクラスでもないのに手伝う義理も趣味もない。
あてもなく校内をふらふら歩いて、時間をつぶす。いつもより静かな校内は、行き交う生徒たちの姿もまばらだった。
「あれ……俺、なんで?」
ぼんやりしていたら、いつの間にか体育館に来ていた。
部活禁止期間は事故防止のために、鍵をかけておくって顧問が言ってたな。
思い出しつつも、扉に手をかけた。
「? 開いてる?」
かけ忘れか。先生たちもテスト作成で忙しいから、そんなこともあるか。
開いたのなら、入る以外の選択肢は考えられなかった。引き返して、体育教官室に報告すればいいのに、なぜか考えすら浮かばなかった。
俺の目には、体育館倉庫しか映らない。もっと言うなら、そこでしか話せない、秘密の友達しか。
ゆっくりと歩いて、倉庫の扉に手をかける。呼ばれている気がする。
「ナオちゃん!」
大声で呼ばれて、ハッと振り返った。ぽっちゃり体型で、できる限り急がず、無駄な体力を使うことなく生きていきたいと考えている、マモルの息が上がっている。
こいつ、どこから走ってきたんだろう?
「マモル?」
倉庫のドアに手をかけたまま、俺は親友の慌てっぷりに首を傾げた。マモルはずんずんと近づいてくる。俺よりも背が高く、体格のいいマモルに迫られると、圧倒されてしまう。
「ナオちゃん! 掃除終わったよ。早く帰ろう!」
「ああ、うん」
手首をぎゅっと掴まれて、扉から離れると、「あれ?」という気持ちになった。手を繋がれたまま、体育館を連れ出される。マモルは一切俺と話さず、だけど、その顔色は悪い。
ようやく大きく息をついたのは、校門を出てからだった。これまで呼吸を止めていたとでもいうような大げさな溜息に、俺は「大丈夫か?」と聞く。
マモルはめずらしく、「大丈夫か、だって?」と、興奮して俺を責める。
「それはこっちのセリフだよ!」
どうして用もないのに、体育館倉庫になんて行ったのさ!
鋭く責める言葉に、俺は答えられない。ただ、行かなければならないと感じただけだ。
うまく説明出来ないでいる俺に、マモルは毅然として言った。
「いい? ナオちゃん。もう体育館倉庫には、ひとりで近づかない方がいい。じゃないと、本当に危ないかもしれない」
真剣なマモルに頷きながらも、「大げさだなあ」と、俺は思っていた。
ひとりで行くなとは言われたが、誰も片付けを手伝ってくれないのだから仕方ない。ここ最近は、なんだか話しかけられることも少ない。
なんだかんだいって、いじられキャラっていうのは気にかけられている、ということでもある。必ず毎日、冷やかしの言葉が投げかけられていたのに、テストが終わって部活が再開してから、俺の身のまわりは静かだった。
ああ、マモルを除いて。
マモルは俺のことを心配して、部活が終わるまで待っていてくれる。待ち合わせの図書室に行くと、なぜか全身をペタペタ触ってくるのが気持ち悪い。
そのあとで「よし!」とつぶやき、とてもいい笑顔を浮かべているので、「キモい」の一言はなんとか我慢している。
今日もマモルは待っていてくれる予定だったが、B組の友達が、「マモル、熱出して早退したぞ」と教えてくれた。
「できれば部活に出ないで帰ってほしい。無理でも、体育館倉庫には行くなって、言ってたぞ」
何のことだかわからないながら、友人はきっちりと、マモルの伝言は伝えてくれた。
「でも、片付けはしないとダメだしなあ」
それに、今日も彼は待っている。あの薄暗い、狭い倉庫の中で、たったひとり、俺を。
俺が行かなきゃ、彼は孤独だ。永遠に、ひとりだ。
ボールを倉庫の中に運び入れた。すぐに、「やあ」と背後から声をかけられる。いつも、いつの間にか現れる友達に、俺も、「よ」と、片手を上げた。
「最近来てくれなかったね」
「ああ。なんかここが嫌いな友達がいてさ」
「そうなんだ。こんなに居心地いいのにね」
確かに、埃っぽくてカビくさい臭いも独特で、近頃は俺も、ここにいるのがなんだか心地よくなっていた。ずっといたいと思ってしまうほど。
「ねぇ、今日はずっと一緒にいようよ」
俺の願望を見透かしたように、彼は言う。
まじまじと見つめる。あれ? こいつ、こんな顔だったっけ?
っていうか、どんな顔、してたっけ?
抱いてしまった疑問をどうにか隠して、俺はへらっと笑った。こういうときは、話題を変えるに限る。
「なあ。あんた、身長何センチあるんだ? 俺は一四七センチなんだけど、同じくらいだよな?」
彼は俺の勢いに飲まれ、一度大きく仰け反る。かと思えば、背中を丸めて小さな声で、「一四六センチ……」と言った。
背の高い連中には「たった」一センチの差だが、俺たちみたいなチビには、一センチは大きな違いだ。落ち込む彼を慌てて慰める。「誤差! 誤差みたいなもんだって! ほら、俺の髪型、ツンツンしてるし、その分含まれてんだよ。身体測定のとき、ワックスでバリバリに固めてたからさ」
俺の言い分に、彼は目を丸くして、それから「ふふ」と笑ってくれた。どうやら機嫌は直ったらしい。
それから俺たちは、「背の低い奴あるある」で盛り上がった。
背が低いだけで、女子から「可愛い」って言われること。それに嫉妬した男から妬まれること。身長で有利不利があるのはわかるけど、それを絶対視する連中に、馬鹿にされること……。
「それから、体育の授業のときに……」
前ならえができない!
と、二人の声がハモった。常に一番前に配置されるため、腰に手を当てるポーズしかしたことがないのだ。彼も同じだということがわかって嬉しかった。
「そうだ。今俺ら二人しかいないしさ、身長も全然変わらないし、前ならえ、やってみようぜ!」
我ながら、明暗だった。いつもしゃべっているだけだけど、友達ってのは、こういう意味のないおふざけもするもんだ。
彼は驚き、「でも」と恥ずかしがっていたが、俺は「いいから!」と促す。
「あんたが先な。俺、先頭の奴やるから。いくぞ。まえーならえ!」
腰に手を当てる。背後でおずおずと、彼が動くのを感じた。肩甲骨がビリビリする。
「回れー右!」
一八〇度回って、今度は俺がする番。
「まえーならえ!」
ピシッと彼の背中に向けて、腕を出す。普段、俺が見ることのない景色だった。そうか。他のみんなは、こういう感じなのか。
「回れー右!」
再び俺が前。一度前ならえを体験してしまうと、いつもとは違うものが見えてくる。
先頭以外の人間は、他の誰かの背中を見ている。でも、俺は、一番チビの俺だけは、視界が開けている。
なんだよ。チビだって、そう悪いことばかりじゃない。
飽きずに、前ならえを繰り返す。体育の先生の声をマネしてみると、彼の方も「回れー右!」と、高い声で叫んだ。
どんどんスピードを上げて、もう何回、前ならえを応酬したかわからなくなって、そして。
『またね』
号令をかけようと口を開いたところで、そっと耳元に冷たい風が吹いた。振り向くと、彼の姿はない。
どこにも、俺の友達はいなかった。
……っていうのが、俺の経験した不思議な話。
その日、まっすぐ帰宅せず、マモルの家に見舞いに行った。熱が出たというわりに元気だった奴に話すと、青い顔をしていた。
「ナオちゃん。体育館倉庫でね、昔、生徒が死んだことがあるんだって」
歴史だけはある中学校だ。在学中に死んだ生徒がいることに不思議はないが、体育館倉庫で、というのに、背筋が寒くなった。
今ほどイジメが表面に出なかった時代。事故で処理されてしまったらしいけれど、いじめられて、体育館倉庫のマットの下敷きになって圧死した、生徒がいた。
あの日、崩れ落ちてきそうになったマット。もしかしたら俺も、死んでいたかもしれない。それを助けてくれた人。
後に図書館で古い新聞をくまなく探して、俺はようやく、彼の名前を知った。
白石タロウ。享年十五歳。
なんだ、年上だったのか。ちゃんと敬語、使うべきだったか?
幽霊になって体育館倉庫に囚われていた彼の未練や恨みは、なぜか前ならえで解消され、消えた。
たぶん、俺と同じで、「チビ」といじめられていたんだろう。前ならえを経験することで、一番チビじゃない自分を、初めて体験して、満足したのかもしれない。
あの日、おふざけで前へならえをしようと言わなければ……どうなっていただろう。
俺はといえば、中学を卒業してからはめきめきと身長が伸びた。遅い成長期に悲鳴を上げたのは、喜び以上に、骨が軋んで痛んだからだった。
高校を卒業した後も、バスケも続けた。そして大学で教員免許を取得して、母校へと戻ってきた。
そう、彼と出会った、あの体育館倉庫のある中学校だ。
当然のように俺は、バスケットボール部の顧問になった。中学時代の俺と同じように、背が低くて悩んでいる生徒を、実体験をもとに励ましている。まさにうってつけだ。
ただ、どうしても俺は、体育館倉庫には一人で入ることができない。必ず、部員をひとり伴って入室するようにしている。
あの日いなくなったはずの彼。でも、「さようなら」じゃなくて、「またね」と言ったのだ。
決してあれ以上、身長が伸びることのない彼が、もしもまだ体育館倉庫にいるとしたら。
あの頃と違い、一八〇センチ近くなった俺を見て、何を思うのだろう。
想像するだけで、恐ろしかった。
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